Sisters:WikiWikiオンラインノベル/屠殺場の羊

提供:WikiWiki
< Sisters:WikiWikiオンラインノベル
5年1月2日 (W) 07:31時点における (トーク | 投稿記録)による版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
ナビゲーションに移動 検索に移動

 晴天うるわしかったかの日、私は眠っていたところを起こされた。私の眠りを羊にたとえるならば、それが屠殺されたといったぐあいだった。

「起きなさい」

 さていま鉤括弧で括ったこのせりふを放って私を起こした男は、学校という被差別部落に身を置く、教師という穢多者だった。この、しきりに数学を教えたがる穢多者が卑しくも私の羊を屠殺したものと事態は解された。

 いったいこれは屠殺場の稼働時間、つまりは、授業中だった。はたして授業というのは被差別部落でも行われているのだろうかと私は疑問に思ったが、きっと、たんに、学校が存在する被差別部落では行われているが、学校が存在しない被差別部落では行われず、そこに暮らす子どもたちが隣接諸地域に出向いて授業を受けているのみなのだろうという結論に至ったところで、

「まったく」

と穢多者は吐き捨てて、クリイン・ゾオンよろしく教壇へと戻っていったのだった。このとき彼は、ダアテイ・ゾオン戻りの身ながら、その全身どころか、その手を清めることさえしなかった。それが彼をいっそう穢れさせた。

 まもなく、屠殺場の稼働の終了を告げる時鐘が鳴った。穢多者はもはや屠殺者ではなくなり、私は安心して新たな羊の飼育をはじめた。

 やがて、私のいっときの安心とは裏腹に、羊はわなわなと震えだした。その震えは、自身の生命に危険のせまっているのを彼の動物的本能が捉えたことを示していた。このような本能は、どこまでも本来的であるがゆえに、自然界のオペレイシヨンに狂わぬ予定を与える。ほどなくして、いったい、屠殺場の朝が告げられた。屠殺者がふたたび現れたのである。それは昨日と別の、つまり一限めとは違って、禿げていて米英のことばを教えるのが得意な屠殺者だった。

 羊は――道にあらざるこの屠殺者を前に、羊は、死への恐怖におののいた。羊もまた死へ向かう存在なのだった。私はこのうるわしき死への存在を無碍にしたくはなかった。彼をひとつの重んぜらるべき格を備えた存在とみなして、彼の母親となって擁護してあげたかった。このために私は、この髪のない穢多者が、私と私の羊に向かって、悪魔も震えるような声で

「おい」

と言い放ったときも、その羊を必死に抱きかかえていたのである。

 彼は――羊は、貪欲な人間が食べるために生まれたのでなかった、内なる道理に従って、ただ生をまっとうするはずであった。この無垢な羊は、やんごとなき種族の捕食には向いていない。誰も彼を真の意味でおいしく食することなどできないのである。いつだって、そのことを悟りきれぬ盲目な鈍感者が、羊を食べようとするのだった。

 また時鐘が鳴って、この私に安心が訪れた。それはなお見かけの安心にすぎなかった。そして羊の本能はその欺瞞を捉えていて、それを態度で訴えた。ああ、そのとおりだ、この被差別部落にキンコンと響いたことが、どうして羊の生命のゆくえを左右しようか。

 それから何度も何度も、くりかえし時鐘が鳴った。その偶数回めが来るたび私は心の底から安心した。その安心があくまでも見かけの安心にすぎないことはしかし、もはや私の悟るところとなっていた。私は苦しかった。いかに私が安心すとも、羊の震えは収まらなかったから。

 あるとき羊が私に幻を見せた。それは羊が幼いときのようすを映した。幼い羊は牧童をちらと見て、阿呆な彼が物欲しそうにただ空を見上げてぽかあんとしているのを認めるや否や、まきばの柵を飛びこえて、山を降りていった。

 幼い羊は里に着いた。そこでは人々がつまらなそうに歌を歌っていた――歌を歌いながら、鍬を土に叩きつけていたのだった。恐怖したそれは帰ろうとした。それの帰るところとは、あの阿呆な牧童のいるあのまきばにほかならなかった。

 しかし、幼い羊は気づいた。自分は、まきばへ帰る道を知らない、と。それは意を失った。それは、ひょっとすると、ひもじさを感ずるよりも前に頓死してしまうかもしれなかった。

 幻はそこまでで、そこからはまことであった。震える羊を私はいっそう強く胸に抱えて、耐えていた。

 彼はしかし、何度めとも知れぬ時鐘のあと、天命を悟ったように震えるのをやめ、ふっと力を抜いた。私は拍子抜けしたが、彼はそのまま、私の胸のなかで息を引きとった。

 息を引きとった羊の、その皮はなぜか暖かそうに見え、その肉はおいしそうに見えた。かつて厳かさの種を固持してその芽を発せさせつつあった彼が、それを種ごと失って、にもかかわらず、果実をなしたのだった。

 羊の果実はじつにうまそうだった。私はこれにかぶりついた。私の鍬は肥大してやまなかった。羊のそのかさばった毛は私の肥大した鍬を受け入れた。私の昂揚は鍬を伝って羊の毛の各々を湿らせた。

 窓越しの星明かりに反射して煌々たる、この湿った羊の毛は、私の鍬をさらに増大させ、この鍬をもってするならば、いかなる荒廃田畑をも蘇らせることができるのではないかと疑わせた。この鍬をもってするならば、あらゆる種類の外敵を返り討ちにすることができるのではないか。この鍬をひとたび溶かせば、それだけで巨大な仏像が作れるのではないか。もっとも、そのようなことはすまいが。

 もう、二度と時鐘は鳴らなかった。