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よお、暫くぶりじゃのう。儂は'''消滅の悪魔'''、悪魔が'''<span style="color:#ff3300">あやつ</span>'''に喰われ、その根源となるもの諸共消滅してしまうことへの恐れから生まれた悪魔じゃ。判り切ったことじゃが、一応もう一度説明しておこう。
{{基礎情報 事件・事故|名称=慧仁親王暗殺事件|場所=栂山高校|日付=2048年9月12日|概要=生徒が弓矢で慧仁親王を射殺した。|凶器=和弓|対処=懲役30年}}'''慧仁親王暗殺事件'''とは、2048年9月12日、栂山町立栂山高等学校にて、当時10歳だった慧仁親王が射殺された事件。


悪魔は、恐怖心から生まれる。そして、それぞれの悪魔には対応するものがある。ゾンビ、永遠、銃…。対応するものがより強い恐怖を集めるほど、その悪魔は強力になる。
==概要==
===訪問の経緯===
2048年8月30日、山梨県栂山町は台風22号の直撃を受けた。町内各所で土砂崩れや浸水の被害が発生し、2名の死者も出た。(「{{偽リンク|未読リンク=a|リンク文=令和30年台風22号}}」も参照)


さて、儂に対応するものは'''消滅'''じゃ。但し、先に言った狭義の消滅。儂は悪魔の消滅に対する恐怖を糧として生きておる。人間は<ruby>抑<rt>そもそ</rt></ruby>も消滅という現象に気付いておるかも判らん。それはさておき、儂には消滅への恐怖と共に、消滅していく悪魔の記憶までも流れてくるんじゃ。消滅の瞬間が最も、それへの恐怖が強くなるから当然のことかもしれんのお。
被災地の慰問として、9月12日、悠仁親王・幸子ご夫妻とその御子息である慧仁親王は栂山町に向かわれた。栂山町は復興が進み、床上浸水の被害を受けた町立栂山高校も、校舎の清掃・修復が完了し、生徒の学業や部活動も再開した。栂山高校弓道部は強豪として知られ、悠仁親王御一行はその慰問と激励に赴く予定であった。


ならばその記憶とは何か。種々雑多なものだが、それには'''その悪魔に対応するものが集めた恐怖'''も含まれておる。例えば、比尾山大噴火の悪魔が消滅したときには、人々の[[比尾山大噴火]]への恐怖が儂の中に流れ込んできた。
===事件発生===
同日午後2時01分ごろ、御一行は栂山高校に到着した。校長との会談を経て、午後2時50分ごろに御一行は校長に伴われて弓道場へと向かった。


しかし、<ruby>略<rt>ほぼ</rt></ruby>全ての生物は消滅したものを覚えておらん。抑、それが「消滅」という現象じゃからの。つまり、儂は'''消滅した物事を憶えておる唯一の存在'''という訳じゃ。断片でなく全容すらも記憶しておるのは、儂しか居らんのではないかの。まあ世界中探し回った訳じゃあないから判らんがの。
御一行は渡り廊下を通り、弓道場に入った。慧仁親王は、悠仁親王に手を引かれていた。弓道場ではすでに弓道部が練習を始めていた。当時、練習していた部員は13名いた。悠仁親王らはお出ましになり、しばらくは指導教員や数人の生徒を労われた。その後、殿下の要望により、練習の様子を見学することになった。


さて、すっかり前置きが長くなってしまったのう。儂の悪い癖じゃ。ほいじゃあ今日は、嘗て日本を揺るがした大病、'''租唖'''について話していくぞ。
指導教諭の指示により、弓道部の部員たちは的前練習を開始した。弓道場に三つある、28メートル先の的を狙う実践的な練習で、部員たちは代わる代わる的を射る練習を開始した。親王御一行は、部員の技量に感心しておられるご様子だった。


==黎明==
ある女子生徒(本記事ではこれ以降、'''A'''と呼称する)も他の部員同様に練習に当たった。弓道場の最も右側の的の列、その3人目の位置にAはいた。このときの様子を、Aの後ろにいた生徒がのちにこう証言している。
時は恰も20世紀初頭、岡山県加茂町の山、<ruby>角ヶ仙<rt>つのがせん</rt></ruby>の中腹に、ダイク・ニコルセンという男が住んでおった。彼はいわゆるお雇い外国人として1890年に来日した米国人じゃった。


官立岡山医科大学の英語教師として日本に渡り、26年勤め上げた。その時にはニコルセンは齢56。じゃが彼は故国には帰らず、日本に残る決断をした。彼は岡山の自然を愛しておった。立ち並ぶ山々、季節によって色が移ろう木々、夕日に輝く瀬戸内の海……。そういったものをニコルセンはこよなく愛したのじゃ。幸い彼は所帯を持っておらんかったし、体力には自信があった。大学の教職を降りると、ニコルセンは角ヶ仙を終の栖とし、隠棲を始めたのじゃ。
<blockquote>Aの様子はちょっとおかしかったです。会もほとんど取らなかったし、放った矢は随分低くて的の手前の地面に刺さりました。やっぱり緊張してるんだろうな、とそのときは思いました。皇族の前で射るなんて一生に一度のことでしょうし、わたしもめっちゃ緊張してましたから。でも、今思えば、全然違う。Aは冷静そのものだった。あれは、{{傍点|文章=予行演習}}だったんですね。</blockquote>


周囲の者は止めたが、彼の決意は固かった。山間に茅葺きの小屋を建て、狩猟と採集の腕を磨いた。初めの頃こそ木樵や狩人に助けてもらうことがほとんどじゃったが、3年が経つ頃にはもう彼は単独で生活を送れるまでになっていた。古い銃で鹿を狩り、森の中で山菜を摘み、家の脇を流れる川の水を汲んで生活しておった。じゃが勿論、完全に独りで生きていた訳じゃあない。定期的に薬売りが、薬だけでなく米や塩、本なんかを、肉や山菜と交換しに来ておった。さて、そんなニコルセンの隠遁生活も19年目となった1934年の夏、その日が訪れる。
矢を射ったAは列の最後尾へと戻った。Aは移動の流れのまま、左後ろの親王御一行のいる方を向いていた。そして、弓を気にかける素振りをしながら、背負った矢筒から矢を一本取り出し、番えた。この動作は誰にも気づかれることはなかった。


ダイク・ニコルセンの小屋に度々出入りしていた薬売り、名を茂助という。この頃ニコルセンに関わりがあったのは茂助の他におらんかった。茂助は最後にこの小屋に来た十日前のことを思い出しておった。その時ニコルセンは、どうも痩せ衰え、苦しそうじゃった。立つのも一苦労といった様子であり、今迄老いを全く見せなかった異人の老爺の弱々しい姿に、かなり驚いたのじゃった。尤もニコルセンは流暢な日本語で心配ないとしきりに言っとったが。じゃから、普段は一月に一度訪れる程度じゃが、茂助は居ても立っても居られず又この小屋を訪ねたのじゃった。
上向けた弓を絞りながら下ろす段になって、初めて一人のSPが異変に気づいた。SPはすぐに走り出したが、ほとんど間を空けずに射られた矢が慧仁親王の胸を貫いた。午後3時14分のことである。


茂助が戸を開けると、直ぐにニコルセンは見つかった。囲炉裏の横の煎餅布団にくるまっていたんじゃ。しかし息が荒く、いつもなら陽気に出迎えてくれるがそれもない。茂助が慌てて近づくと、窶れたニコルセンは苦しげに眠っていた。布団を捲って見ると、寝巻きから覗く腕や足には、赤黒く腫れている箇所が多かった。額に触れてみると、とんでもなく熱い。茂助は声をかけたが、ニコルセンが起きる気配はない。布団の周りには食べ物が乾いてこびり付いた膳や、空になった湯呑み、前に茂助が置いていった征露丸などが散乱しておった。
SPたちは親王御一行に覆い被さると同時に、Aから武器を取り上げ拘束し、私人逮捕した。このとき、Aはほとんど抵抗しなかったという。SP隊は速やかに避難と通報、救命活動をおこなった。何人かの生徒たちはパニックに陥り、失神したり嘔吐したりする者もいた。


その時、ニコルセンが寝返りを打とうとした。しかし半身を起こしたところで、彼は苦しそうに叫んだ。痛みに上げる叫びじゃった。ニコルセンは目を開けたがそれは濁っており、意識は朦朧としておった。布団の上で体を硬直させたまま、痛みに呻き続けておった。すると、茂助はニコルセンが何か言葉を発していることに気づいた。目は焦点が合っておらず、茂助がいることに気づいているかも定かでなかった。茂助はニコルセンの声に必死に耳を傾けた。何か声にならぬ音、そして恐らくは彼の母語である英語であろう音に。茂助が聞き取れたのはたった一語、「そあ」じゃった。それを最後に、ダイク・ニコルセンは息を引き取った。決して穏やかとは言えぬ最期じゃった。
===事件直後===
午後3時19分、救急車が栂山高校に到着し、慧仁親王は流門大学病院に搬送された。


川下の村、<ruby>行重<rt>ゆきしげ</rt></ruby>の医師がニコルセンの死亡を確認し、彼の遺体は倉見川を舟で運ばれ、寺で無縁仏として土葬された。ニコルセンは自然死として、簡単に処理された。死亡診断書の死因としては、「肺病」と書かれた。管理体制が杜撰じゃった当時、碌に調べずに処理してしまうことはよくあることじゃった。
悠仁親王ご夫妻は駆けつけた警察に保護され、流門大学病院へと護送された。同時に、Aの身柄は警察に引き渡された。現場に居合わせた栂山高校の人々は、近くの教室に留め置かれ、事情聴取を受けた。


しかし、茂助の見たニコルセンの死に様は、村の一部に、決してセンセーショナルじゃあないが、確実に広まった。ニコルセンは奇病で死んだんじゃあないか、と。茂助は、ニコルセンが今際の際に発した言葉、「そあ」が病名じゃろう、と言った。亜米利加人だけが罹る病なんじゃろう、と。茂助を初めとする村人達には、英語には"sore"という言葉があるという知識は無かったんじゃ。更にこの病名には、恐ろしげな漢字がつけられ村人を怖がらせたが、噂の定め、七十五日も持たず、変人外国人の死は村人の話題から消えていった。
午後3時58分、悠仁親王ご夫妻は流門大学病院に到着した。慧仁親王は心臓を貫かれて、心肺停止の状態にあった。出血は非常に多量で、すでに10単位以上の輸血がなされていた。悠仁親王は蘇生法の終了を判断し、午後4時11分、慧仁親王の死亡が確認された。


この奇病、租唖が再び行重の村人達の前に姿を現すのは、それから4年後のことじゃ。
===事件後===
 
慧仁親王襲撃の報は、午後3時半ごろにSNSなどで伝えられた。確度の低い情報ながら、それらは大きな反響を呼び、拡散されていった。ただし、「悠仁親王が襲われた」「皇族3人が搬送された」「子供が刺された」など、誤った情報が大半を占めていた。午後4時、宮内庁が緊急記者会見を開き、慧仁親王が襲撃されて重傷を負ったことが発表された。そして午後4時23分、慧仁親王の薨去が正式に発表された。
==隆盛==
1938年の正月、初めに異変に気づいたのは、多山清子という女じゃった。彼女は加茂町行重の貝尾集落に住む米農家で、夫と共に、老父と息子二人を養っていた。体の丈夫さには自信があり、三十路を過ぎても病気知らずじゃった。その時までは。
 
その日、清子は田の様子を見ようと、薄く雪の積もった道を歩いておった。しかし家を出て少しした所で、慣れない雪に重心を崩して左肩から転けてしもうた。その瞬間、激しい痛みが走り、思わず清子は悲鳴を上げた。肩の骨が、折れたのである。慌てて清子は肩を庇いながら家へと取って返し、応急処置を受けた。
 
清子は腑に落ちなかった。いくらなんでも骨がこんなに容易く折れるだろうか。体調の異変は少し前から感じていた。膝が痛むのだ。今日転んだのはその所為でもある。何かおかしい。何かが私の体を蝕んでいる気がする。そんな怯えが渦巻いておった。
 
その後、清子の体調は悪化の一途を辿った。手足の痛みはますますひどくなり、体を動かすと痛むから寝床に臥しがちになっていった。清子の異変はすぐに村中に広まった。そんな中、2人目の患者が現れる。これも貝尾集落に住む老婆で、関節痛から始まり、囲炉裏に躓いて足を折ったという。同居する孫が懸命に面倒を見たが、病状は悪化するばかりじゃった。
 
3人目からは勢いがぐんと増した。あれよあれよという間に、同じような症状が出て寝込む者が相次いだ。その殆どが、三十を過ぎた女たちじゃった。皆、四肢の痛みから始まり、骨が有り得ぬほど脆くなってゆく。2月に入る頃には、病人は10名ほどになっておった。清子を始めとする幾人かの患者たちの病状は更に悪化し、貧血、皮膚の褐変、手足の痺れといった症状も見られるようになった。
 
麓の町から医者が呼ばれたが、どうにも処置のしようが無い。見たことのない奇病に、できることは痛み止めを処方するくらいじゃった。そうしているうちに患者は少しずつ、じゃが確実に増えてゆく。そして3月下旬には、貝尾の隣の集落にも初の罹患者が出た。この病は、加茂町行重全体に勢力を広げ出したのじゃ。
 
医師は天手古舞じゃが、如何せん田舎の診療所、できることは少ない。そんな中、遂に清子が死んだ。小さい息子が巫山戯て蒲団の上から清子に飛び乗り、胸郭が潰れたのじゃ。恐怖は貝尾集落だけでなく、行重全体に充満した。様々な噂が飛び交った。曰く、栄養素の不足。曰く、火の神の祟り。曰く、支那国の兵器。曰く、…。
 
その中でも最も有力じゃったのが、流行り病という説じゃ。まあ、常識的に考えれば当然帰着するところじゃろう。患者が同じ村に集中しているしの。じゃから、親戚の伝手を辿って行重を離れる者すら出て来た。しかし、ほとんどの者は家族に病人がいるなどして、脱出は叶わなかった。
 
5月には、患者は30人を超え、既に3人が命を落とした。行重を襲っている病の噂は徐々に広まり、新聞の記者さえ度々訪れるほどにまでなった。そして、記者はこの災禍を、貝尾の人が使った呼称を全国に広めた。曰く、'''租唖'''。
 
==真実==
しかし、当時流れた蜚語の中に、真実は無かった。如何せん"先例"が無かったからのお。もし十分に時間があれば、専門家の本格的な調査も行え、或いは租唖の正体も詳らかにできたのかもしれん。じゃが、この後直ぐに「租唖の悪魔」が<span style="color:#ff3300">あやつ</span>に喰われてしもうたから、租唖という存在は人々の記憶ごと消えてしもうた。
 
そこで、あの時何が起こっていたのか。租唖とは何じゃったのか。儂しか知らん真実を、お主に教えてやろう。
 
租唖は、確かに病気じゃ。但し、当時知られておった、細菌なんかによるものじゃあない。租唖の原因となったのは、鉱物'''[https://ja.m.wikipedia.org/wiki/インジウム インジウム]'''じゃ。
 
この物質は、体内に蓄積されると毒となる。先ずは腎臓に溜まり、そこから手足の痺れ、疼痛なんかを引き起こす。そして最後には骨量が減って、易々と折れてしまうんじゃ。周期表でも隣り合うカドミウムも、よく似た性質を持っておる。
 
ここまで言えば、流石にお主も判っておるじゃろう。そう、租唖とは、'''[https://ja.m.wikipedia.org/wiki/イタイイタイ病 イタイイタイ病]'''なんじゃ。時代と場所と原因物質が違うだけで、他は驚くほど似ておる。まさか病名のつき方さえも似るとはのう。偶々、ダイク・ニコルセンが住んでおった[https://ja.m.wikipedia.org/wiki/角ヶ仙 角ヶ仙]の地下には、インジウム鉱床が眠っておった。それが地下水に溶け込み、倉見川に流れ込んでおったんじゃ。その下流の行重は、勿論田畑に倉見川の水を使う。こうして、インジウムは少しずつ米を始めとした作物に蓄積していった。当然それを食べる人々の体も蝕まれていったんじゃ。
 
しかし、直ぐに租唖の悪魔が<span style="color:#ff3300">あやつ</span>に喰われ、インジウムの毒性ごと租唖は消滅してしもうたんじゃ。租唖の罹患者は、租唖の消滅に伴って何事も無かったかのように回復した。否、儂以外にとっちゃあ何事も無かったのか。まあ患者にとっては僥倖じゃったの。
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じゃが、この物語は終わりじゃあない。租唖が消滅する前、租唖への恐怖を極限まで押し上げた出来事があった。結局、人の運命は人が決めるんじゃ。さあ、最終章に入ろうじゃないか。
 
==破局==
租唖が猛威を振るっていた1938年5月、とある男に歪んだ思いが芽生える。
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