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「三年前、酒井が運転していた車が、事故を起こした。当の酒井は奇跡的に無傷だったが、同乗していたその『探偵』の身体には、ある深刻な後遺症が残ってしまった。一流シェフとしての将来を約束された身だった彼が、事故のあと調理師を引退したのもそのせいだった。……これを知って、俺は驚いたよ。何でシェフを辞めたのか、聞いても絶対に教えてくれなかったが……こういうことだったんだな。非常に稀な、極めて例を見ないような症例だが、事故の際の頭部強打が原因で、お前は正常な『{{傍点|文章=料理のさしすせそ認識能力}}』を失ってしまった。強度の『{{傍点|文章=料理のさしすせそ盲}}』になってしまったんだ。そうなんだろ?」
「三年前、酒井が運転していた車が、事故を起こした。当の酒井は奇跡的に無傷だったが、同乗していたその『探偵』の身体には、ある深刻な後遺症が残ってしまった。一流シェフとしての将来を約束された身だった彼が、事故のあと調理師を引退したのもそのせいだった。……これを知って、俺は驚いたよ。何でシェフを辞めたのか、聞いても絶対に教えてくれなかったが……こういうことだったんだな。非常に稀な、極めて例を見ないような症例だが、事故の際の頭部強打が原因で、お前は正常な『{{傍点|文章=料理のさしすせそ認識能力}}』を失ってしまった。強度の『{{傍点|文章=料理のさしすせそ盲}}』になってしまったんだ。そうなんだろ?」


「……そうだ。あの事故のせいで、俺のこの目は『とても調理師を続けられないようなダメージ』を受けた。それまで見えていた『料理のさしすせそ』を奪われてしまったんだ。事故以前の目には、まぎれもなく『砂糖』『塩』『酢』『醤油』『味噌』として見えていた調味料たちが、どうしてもそうは見えなくなった。……俺は酒井を憎んだ。だが俺は、それを忘れることにしていたんだ。憎しみに心を蝕まれたくなかった。すべての料理との思い出に蓋をして、新しい人生を歩みたかったんだ。だから……この探偵事務所を開いた。天職だとは思わないが、それでもそれなりに楽しい生活だった。しかし、あの日……」
 ――藤原は、大きく息をついて、言った。


 赤田は写真を内ポケットに戻した。そこには、彼なりの旧友への憐憫があった。
「……そうだ。あの事故のせいで、俺のこの目は『とても調理師を続けられないようなダメージ』を受けた。それまで見えていた『料理のさしすせそ』を奪われてしまったんだ。事故以前の目には、まぎれもなく『砂糖』『塩』『酢』『醤油』『味噌』として見えていた調味料たちが、どうしてもそうは見えなくなった。……俺は酒井を憎んだよ。殺してしまいたいとも思った。だけど俺は、それを忘れることにしていたんだ。憎しみに心を蝕まれたくなかった。すべての料理との思い出に蓋をして、新しい人生を歩みたかったんだ。だから……この探偵事務所を開いた。天職だとは思わないが、それでもそれなりに楽しい生活だった。しかし、あの日……」
 
 赤田は黙って、酒井の顔写真を内ポケットに戻した。そこには、彼なりの旧友への憐憫があった。
 
「いつものように応対をし、調査を請け負って……客が帰った後でようやく気付いたんだ。この顔写真は、この浮気を疑われている男は、紛れもなく、あの憎い酒井輝なんだと。……いままで封じ込めていた憎悪が爆発した。こいつのせいで俺は夢を諦めた。俺の人生は変わってしまった。何もかもこいつのせいだった。だから俺は、酒井を殺すことにしたんだ」
 
 藤原はどこか遠くを見ているようだった。赤田は重い表情で手錠を取り出し、言った。
 
「もう逮捕状は出ている。俺は今日、お前をとっ捕まえるために来たんだぜ。……ずいぶんと無駄話をしちまったが。あー、そういうことで……藤原。お前を殺人の容疑で逮捕する」
 
 藤原は大人しく両腕を差し出し、手錠を掛けられた。
 
「なあ、赤田。最後に一つだけ聞きたいことがある」
 
「なんだ?」
 
「あの『ダイイングメッセージ』の『インク』は、酢だったのか? それとも醤油だったのか?」
 
「ああ……醬油だったよ」
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