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「……ああ、忘れるわけがない」
「……ああ、忘れるわけがない」


「事件前日、こいつの彼女は、浮気調査を依頼するため、とある探偵事務所を訪れていた。探偵はこれを引き受け、次の日に酒井が出席する会食に潜入することにした」
「事件前日、こいつの彼女さんは、浮気調査を依頼するため、とある探偵事務所を訪れていたんだ。……『探偵』はこれを引き受け、次の日に酒井が調理師として出席する会食に潜入することにした」


 空気が張り詰める。鳩時計の秒針がよく響く。
 空気が張り詰める。鳩時計の秒針がよく響く。


「そこから何があったのかは知らないが、探偵は酒井を殺すことにした。おそらくこれには……酒井が起こした{{傍点|文章=事故}}のせいで自分がシェフを辞めざるを得なくなってしまったという怒りもあったのだろう」
「そこから何があったのかは知らないが、『探偵』は酒井を殺すことにした。おそらくこれには……酒井が起こした{{傍点|文章=事故}}のせいで自分がシェフを辞めざるを得なくなってしまったという怒りもあったのだろう」


「へえ、物騒な探偵もいたもんだな」
「へえ、物騒な探偵もいたもんだな」
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「……」
「……」


「探偵は――不可解なものに関して『理屈付け』をしなければ気が済まない性格をしていた。ひとたびその『モード』に入れば、何時間でも熟考してしまう。……成功するかは分からないが、試してみる価値はあるだろう。そう思った酒井は、近くの調味料の棚から瓶を取り出し、それで地面に文章を書いた。難解で、意味不明な文章だ。あるいはこれが殺人者の足止めになってくれるかもしれない――結果的にこれは失敗した。探偵はその『ダイイングメッセージ』を読まないままに、酒井を殺してしまったんだ。……それを読めていたらどうなっていたかは分からないが、もしかしたら一時間以上は稼げたかもな。{{傍点|文章=今と同じように}}」
「『探偵』は――不可解なものに関して『理屈付け』をしなければ気が済まない性格をしていた。ひとたびその『モード』に入れば、何時間でも熟考してしまう。……成功するかは分からないが、試してみる価値はあるだろう。そう思った酒井は、近くの調味料の棚から瓶を取り出し、それで地面に文章を書いた。難解で、意味不明な文章だ。あるいはこれが殺人者の足止めになってくれるかもしれない――結果的にこれは失敗した。『探偵』はその『ダイイングメッセージ』を読まないままに、酒井を殺してしまったんだ。……それを読めていたらどうなっていたかは分からないが、もしかしたら一時間以上は稼げたかもな。{{傍点|文章=今と同じように}}」


「……しかし、『探偵』はそれを読まなかったんだな。一体どうしてだ?」
「……しかし、『探偵』はそれを読まなかったんだな。一体どうしてだ?」


「三年前、酒井が運転していた車が、事故を起こした。当の酒井は奇跡的に無傷だったが、同乗していたその『探偵』の身体には、ある深刻な後遺症が残ってしまった。一流シェフとしての将来を約束された身だった彼が、事故のあと調理師を引退したのもそのせいだった。……これを知って、俺は驚いたよ。何でシェフを辞めたのか、聞いても絶対に教えてくれなかったが……こういうことだったんだな。非常に稀な、極めて例を見ないような症例だが、事故の際の頭部強打が原因で、お前は正常な『{{傍点|文章=料理のさしすせそ認識能力}}』を失ってしまった。強度の『{{傍点|文章=料理のさしすせそ盲}}』になってしまったんだ。そうなんだろ?」
「三年前、酒井が運転していた車が、事故を起こした。当の酒井は奇跡的に無傷だったが、同乗していたその『探偵』の身体には、ある深刻な後遺症が残ってしまった。一流シェフとしての将来を約束された身だった彼が、事故のあと調理師を引退したのもそのせいだった。……これを知って、俺は驚いたよ。何でシェフを辞めたのか、聞いても絶対に教えてくれなかったが……こういうことだったんだな。非常に稀な、極めて例を見ないような症例だが、事故の際の頭部強打が原因で、『探偵』は正常な『{{傍点|文章=料理のさしすせそ認識能力}}』を失ってしまった。強度の『{{傍点|文章=料理のさしすせそ盲}}』になってしまったんだ。そうなんだろ?」


 ――藤原は、大きく息をついて、言った。
 ――藤原は、大きく息をついて、言った。


「……そうだ。あの事故のせいで、俺のこの目は『とても調理師を続けられないようなダメージ』を受けた。それまで見えていた『料理のさしすせそ』を奪われてしまったんだ。事故以前の目には、まぎれもなく『砂糖』『塩』『酢』『醤油』『味噌』として見えていた調味料たちが、どうしてもそうは見えなくなった。……俺は酒井を憎んだよ。殺してしまいたいとも思った。だけど俺は、それを忘れることにしていたんだ。憎しみに心を蝕まれたくなかった。すべての料理との思い出に蓋をして、新しい人生を歩みたかったんだ。だから……この探偵事務所を開いた。天職だとは思わないが、それでもそれなりに楽しい生活だった。しかし、あの日……」
「……そうだ。あの事故のせいで、『探偵』は――俺はこの目に『とても調理師を続けられないようなダメージ』を受けた。それまで見えていた『料理のさしすせそ』を奪われてしまったんだ。事故以前の目には、まぎれもなく『砂糖』『塩』『酢』『醤油』『味噌』として見えていた調味料たちが、どうしても{{傍点|文章=見えなくなった}}。俺の脳は、『料理のさしすせそ』を認識できなくなったんだ。……俺は酒井を憎んだよ。殺してしまいたいとも思った。だけど俺は、それを忘れることにしていたんだ。憎しみに心を蝕まれたくなかった。すべての料理との思い出に蓋をして、新しい人生を歩みたかったんだ。だから……この探偵事務所を開いた。天職だとは思わないが、それでもそれなりに楽しい生活だった。しかし、あの日……」


 赤田は黙って、酒井の顔写真を内ポケットに戻した。そこには、彼なりの旧友への憐憫があった。
 赤田は黙って、酒井の顔写真を内ポケットに戻した。そこには、彼なりの旧友への憐憫があった。
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「なんだ?」
「なんだ?」


「あの『ダイイングメッセージ』の『塗料』は、酢だったのか? 醤油だったのか? それとも味噌だったのか?」
「あの『ダイイングメッセージ』の『塗料』は……酢だったのか? 醤油だったのか? それとも味噌だったのか?」


「ああ……醬油だったよ」
「ああ……醬油だったよ」
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{{曖昧さ回避|「'''料れのさしすせせ'''」あるいは「'''醤油が見えない探偵'''」|'''料理のさしすせそ'''|料理のさしすせそ}}
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