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===3世紀の危機===
===3世紀の危機===
五賢帝体制以降、各地方で独自に皇帝を擁立して争う'''軍人皇帝'''の時代が始まった。この時期には混乱が続き、ササン朝のシャープール王に軍人皇帝ウァレリアヌス帝が捕虜とされてしまうという事件さえあった。また、属州を作って領土を拡大することにも限界が訪れ、これによる戦争捕虜の不在は奴隷不足を誘った。奴隷を主な労働力としていた農場・ラティフンディアに代わって、'''コロヌス(小作人)'''を用いた'''コロナトゥス'''という新しい形の農場経営形態が拡大した。また、軍の兵力や税収の維持のため、属州にローマ市民権を拡大する動きが高まった。'''カラカラ帝'''は、'''アントニヌス勅令'''によって帝国のすべての自由民にローマ市民権を与えた。
五賢帝体制以降、各地方で独自に皇帝を擁立して争う'''軍人皇帝'''の時代が始まった。この時期には混乱が続き、ササン朝のシャープール王に軍人皇帝ウァレリアヌス帝が捕虜とされてしまうという事件さえあった。また、属州を作って領土を拡大することにも限界が訪れ、これによる戦争捕虜の不在は奴隷不足を誘った。奴隷を主な労働力としていた農場・ラティフンディアに代わって、'''コロヌス(小作人)'''を用いた'''コロナトゥス'''という新しい形の農場経営形態が拡大した。また、軍の兵力や税収の維持のため、属州にローマ市民権を拡大する動きが高まった。'''カラカラ帝'''は、'''アントニヌス勅令'''によって帝国のすべての自由民にローマ市民権を与えた。これに伴い、ローマ法は市民法から万民法へと変化した。


===帝国の東西分割===
===帝国の東西分割===
ローマ帝国の混乱を収束に導いたのは、'''ディオクレティアヌス帝'''だった。彼は帝国の東西にそれぞれ正副二名の皇帝を配置する'''四帝分治制(テトラルキア)'''によって政治的秩序を復活させ、政治体制を元首政から強力な軍隊と官僚のもとで皇帝を神として礼拝させる'''専制君主政(ドミナトゥス)'''に切り替えた。また、キリスト教徒への大迫害も行った。死後には四帝分治制が崩壊し内戦状態に陥るが、次の'''コンスタンティヌス帝'''が帝国を再統一した。コンスタンティヌス帝は、コロヌスの土地緊縛令をはじめとした身分・職業の固定化や、'''ソリドゥス金貨(ノミスマ)'''の発行によって経済の回復を促した。コンスタンティノープルへの遷都も行った。また、'''ミラノ勅令'''によってキリスト教徒を公認し、'''ニケーア公会議'''を開いて正統教義を定めた。しかし小康状態も長くは続かず、属州の相次ぐ反乱や'''ゲルマン人の大移動'''によって帝国は混乱に陥る。キリスト教の国教化などを行った'''テオドシウス帝'''は、395年、ここでローマ帝国を東西に分割。西ローマ帝国はその後、ゲルマン人傭兵隊長の'''オドアケル'''によって476年に滅亡した。
ローマ帝国の混乱を収束に導いたのは、'''ディオクレティアヌス帝'''だった。彼は帝国の東西にそれぞれ正副二名の皇帝を配置する'''四帝分治制(テトラルキア)'''によって政治的秩序を復活させ、政治体制を元首政から強力な軍隊と官僚のもとで皇帝を神として礼拝させる'''専制君主政(ドミナトゥス)'''に切り替えた。また、キリスト教徒への大迫害も行った。死後には四帝分治制が崩壊し内戦状態に陥るが、次の'''コンスタンティヌス帝'''が帝国を再統一した。コンスタンティヌス帝は、コロヌスの土地緊縛令をはじめとした身分・職業の固定化や、'''ソリドゥス金貨(ノミスマ)'''の発行によって経済の回復を促した。コンスタンティノープルへの遷都も行った。また、'''ミラノ勅令'''によってキリスト教徒を公認し、'''ニケーア公会議'''を開いて正統教義を定めた。しかし小康状態も長くは続かず、属州の相次ぐ反乱や'''ゲルマン人の大移動'''によって帝国は混乱に陥る。キリスト教の国教化などを行った'''テオドシウス帝'''は、395年、ここでローマ帝国を東西に分割。西ローマ帝国はその後、ゲルマン人傭兵隊長の'''オドアケル'''によって476年に滅亡した。
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