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===帝国の東西分割===
===帝国の東西分割===
ローマ帝国の混乱を収束に導いたのは、'''ディオクレティアヌス帝'''だった。彼は帝国の東西にそれぞれ正副二名の皇帝を配置する'''四帝分治制(テトラルキア)'''によって政治的秩序を復活させ、政治体制を元首政から強力な軍隊と官僚のもとで皇帝を神として礼拝させる'''専制君主政(ドミナトゥス)'''に切り替えた。また、キリスト教徒への大迫害も行った。死後には四帝分治制が崩壊し内戦状態に陥るが、次の'''コンスタンティヌス帝'''が帝国を再統一した。コンスタンティヌス帝は、コロヌスの土地緊縛令をはじめとした身分・職業の固定化や、'''ソリドゥス金貨(ノミスマ)'''の発行によって経済の回復を促した。コンスタンティノープルへの遷都も行った。また、'''ミラノ勅令'''によってキリスト教徒を公認し、'''ニケーア公会議'''を開いて正統教義を定めた。しかし小康状態も長くは続かず、属州の相次ぐ反乱や'''ゲルマン人の大移動'''によって帝国は混乱に陥る。キリスト教の国教化などを行った'''テオドシウス帝'''は、395年、ここでローマ帝国を東西に分割。西ローマ帝国はその後、ゲルマン人傭兵隊長の'''オドアケル'''によって476年に滅亡した。
ローマ帝国の混乱を収束に導いたのは、'''ディオクレティアヌス帝'''だった。彼は帝国の東西にそれぞれ正副二名の皇帝を配置する'''四帝分治制(テトラルキア)'''によって政治的秩序を復活させ、政治体制を元首政から強力な軍隊と官僚のもとで皇帝を神として礼拝させる'''専制君主政(ドミナトゥス)'''に切り替えた。また、キリスト教徒への大迫害も行った。死後には四帝分治制が崩壊し内戦状態に陥るが、次の'''コンスタンティヌス帝'''が帝国を再統一した。コンスタンティヌス帝は、コロヌスの土地緊縛令をはじめとした身分・職業の固定化や、'''ソリドゥス金貨(ノミスマ)'''の発行によって経済の回復を促した。コンスタンティノープルへの遷都も行った。また、'''ミラノ勅令'''によってキリスト教徒を公認し、'''ニケーア公会議'''を開いて正統教義を定めた。しかし小康状態も長くは続かず、属州の相次ぐ反乱や'''ゲルマン人の大移動'''によって帝国は混乱に陥る。キリスト教の国教化などを行った'''テオドシウス帝'''は、395年、ここでローマ帝国を東西に分割。西ローマ帝国はその後、ゲルマン人傭兵隊長の'''オドアケル'''によって476年に滅亡した。
===キリスト教の発展===
ユダヤ教パリサイ派の形式主義への批判や、神の絶対愛・隣人愛の啓蒙を行った'''イエス'''が処刑された後、彼が復活したという信仰から、キリスト教が成立した。ペテロやパウロら使徒による伝道活動によってキリスト教は徐々にローマ全土に広がったが、皇帝礼拝を主張する皇帝側と衝突し、'''ネロ帝'''や'''ディオクレティアヌス帝'''による迫害を受け、教徒たちは地下墓所・'''カタコンベ'''での礼拝を余儀なくされた。なお、この頃成立し、コイネーで書かれた'''『新約聖書』'''が彼らの経典であった。313年のミラノ勅令による公認の後開催されたニケーア公会議では、キリストの神性を主張した'''アタナシウス派'''が正統教義とされ、キリストは人間であるとした'''アリウス派'''は異端とされた。こののちアタナシウス派は三位一体説に発展し、アリウス派はゲルマン人に伝導された。『告白編』『神の国』を著した'''アウグスティヌ'''スをはじめとする教父らの活躍は、後の進学の発展に寄与した。その後、「背教者」と呼ばれる'''ユリアヌス帝'''による多神教復活の企みが潰えたのを経て、ついに392年にはテオドシウス帝がキリスト教を国教とした。'''エフェソス公会議'''では、キリストの人性を強調した'''ネストリウス派'''が異端となり、これは西アジアに渡って唐では景教として広まった。続く'''カルケドン公会議'''では、キリストが神性と人性の二つを併せ持つことを否定する単性論は異端であると決定づけられた。
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