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午後1時、14人の人々が志仁田から買い物を仰せつかった。志仁田が適当に順番に指を差していき、買うものを割り当てていった。志仁田自身ももちろん買い出しに行くので、総勢15名が手分けしていまさらの材料を買いに出かけた。今日中にいまさらを作り終えるために、午後5時にはこの公民館に帰ってくることを確認し、15人は散開した。人々は「サラダを作る」とだけ説明を受けていて、中には到底サラダの具材とは思えないものを買いに行かされる人も少なくなかったが、そこは地球を救った英雄、何か深いわけがあるのだろうと思い、誇らしげに自らの任務に就いた。 | 午後1時、14人の人々が志仁田から買い物を仰せつかった。志仁田が適当に順番に指を差していき、買うものを割り当てていった。志仁田自身ももちろん買い出しに行くので、総勢15名が手分けしていまさらの材料を買いに出かけた。今日中にいまさらを作り終えるために、午後5時にはこの公民館に帰ってくることを確認し、15人は散開した。人々は「サラダを作る」とだけ説明を受けていて、中には到底サラダの具材とは思えないものを買いに行かされる人も少なくなかったが、そこは地球を救った英雄、何か深いわけがあるのだろうと思い、誇らしげに自らの任務に就いた。 | ||
志仁田は野菜を買いに[[八百屋]] | 志仁田は野菜を買いに[[八百屋]]に向かった。華の都・東京に商店は少ないのではないかと思っていたが、近隣住民に聞いた道を辿ると、あっさりと八百屋に行き当たり、さすがは東京だべ……と出身地でもないところの訛りを心中で披露してしまう志仁田であった。かくして八百屋に到着した志仁田は、難なくレタス・キャベツ・白菜・小松菜・ブロッコリー・トマト・きゅうりをゲットした。隕石騒動のあと、志仁田は偉い人になぜかめちゃめちゃ感謝されて、無敵クレジットカードみたいなカードをいっぱい貰ったので、購入資金には困らなかった。なお、おつかいに行ってくれている人々にも、そのカードを渡している。大体の野菜を調達した志仁田だったが、ただ一つ、八百屋には水菜がなかった。旬はそう外れていないのになあ困ったなあと思いながら、志仁田は別の八百屋を探して歩いていった。 | ||
キャベツ農家のおじさんはハムとウインナーを買いに肉屋へと向かっていた。どうせなら専門領域である野菜を買い、新鮮で美味しいサラダをあの少女に食べさせてあげたかったが、少女がそこに集まった人々に適当に買うものを割り振ったので、仕方がない。おじさんは近くの商店街へと出かけ、肉屋を訪ねた。そこで豚のハムとウインナーを購入し、ガスコンロはちゃんと使えたかな、などと考えながらゆっくりと公民館へ戻っていった。 | キャベツ農家のおじさんはハムとウインナーを買いに肉屋へと向かっていた。どうせなら専門領域である野菜を買い、新鮮で美味しいサラダをあの少女に食べさせてあげたかったが、少女がそこに集まった人々に適当に買うものを割り振ったので、仕方がない。おじさんは近くの商店街へと出かけ、肉屋を訪ねた。そこで豚のハムとウインナーを購入し、ガスコンロはちゃんと使えたかな、などと考えながらゆっくりと公民館へ戻っていった。 | ||
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そして街が夕焼けに染まった午後五時、志仁田が公民館に戻ってきた。志仁田に気がついた数人は彼女に着いて公民館に入り、そこでいまさらの調理が始まった。この際、農家のおじさんが全ての材料を把握してはいなかったこと、そして志仁田が農家のおじさんの言を鵜呑みにし食材のチェックをあまりしなかったことが、いまさらの危険性を大きく下げることに繋がった。サンドバッグはテーブルクロスとなり、和傘とゴールボールは外で使われており、YS-11とまきびしは<s>ギリギリ</s>食べられるものに変わっており、自学帳と三階フロアに至っては用意すらされていなかった。しかし、それでも用意された材料の種類が膨大であったこと、普通サラダには食べられるものばかりが入っているという偏見が手伝い、志仁田はこれに気づくことなくいまさらの作成に取り掛かったのだ。 | そして街が夕焼けに染まった午後五時、志仁田が公民館に戻ってきた。志仁田に気がついた数人は彼女に着いて公民館に入り、そこでいまさらの調理が始まった。この際、農家のおじさんが全ての材料を把握してはいなかったこと、そして志仁田が農家のおじさんの言を鵜呑みにし食材のチェックをあまりしなかったことが、いまさらの危険性を大きく下げることに繋がった。サンドバッグはテーブルクロスとなり、和傘とゴールボールは外で使われており、YS-11とまきびしは<s>ギリギリ</s>食べられるものに変わっており、自学帳と三階フロアに至っては用意すらされていなかった。しかし、それでも用意された材料の種類が膨大であったこと、普通サラダには食べられるものばかりが入っているという偏見が手伝い、志仁田はこれに気づくことなくいまさらの作成に取り掛かったのだ。 | ||
十分ほどで作り終え、志仁田が食べ始めたいまさらは、しかし、決して安全なものではなかった。トリカブトとフグの存在である。トリカブトに含まれるアコニチンなどのアルカロイド、フグに含まれるテトロドトキシンは猛毒であり、致死量を優に超えるこれらを含有するいまさらは、志仁田を確実に死に至らしめるはずだった。しかし、アコニチンとテトロドトキシンには{{傍点|文章=拮抗作用}}がある。どちらも強力な神経毒だが、前者はナトリウムイオンチャネルを活性化、後者は不活性化するため、両者の毒性が打ち消し合うのだ。志仁田がいまさらの危険性を増そうと投入したフグだったが、いま志仁田の体内ではトリカブトの量と奇跡的なバランスが取れ、一方が吸収されて均衡が崩れる約一時間の間、双方の毒性が無効化された状況にあった。 | |||
そして志仁田は最後に残った水菜を飲み下した。箸を置いた志仁田は、いまさらの全く調和の取れていない味に、顔を歪めて「不味い」と言った。今や、いまさらには志仁田を害しうる材料は入っていなかった。志仁田が顔を上げると、部屋には何人かがこちらを見守っていた。カメラを向けている者もいる。彼らは志仁田といまさらの戦いの決着を固唾を呑んで見届けようとしていたのだが、当の志仁田には知る由もない。ご飯を食べた後は片付けである。自殺を試みているのだが、志仁田はいつもの習慣で、皿を洗わねばと立ち上がった。 | |||
いや、{{傍点|文章=立ち上がろうとした}}。志仁田は立ち上がることができなかった。足が動かなかった。志仁田はそこで、頭がひどく痛むことに気がついた。それだけではない。心拍が速い。呼吸が苦しく、顔がやたら熱い。視界の周りが黒く狭まり、周りの音が遠ざかって、心臓の早鐘だけがどくんどくんと耳を占めていく。急速に遠のいていく意識の中、志仁田は死を予期した。望み通りいまさらは私を殺してくれる。充足感が心を満たす中、志仁田の体はぐらりと傾き、倒れようとする瞬間、ガラスの割れる音がかすかに耳に届いた。 | |||
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その音を志仁田は知っていた。ここは、そう、近所の農家の爺さんの小屋。農薬の瓶を呷って、めちゃくちゃ苦くて、次の瞬間喉が焼けて、胃の中身を全部ぶちまけた。そのとき、窓が割れる音がして、視界が真っ暗になる中、品瀬が私の背中に手を当てて……。その感触が過去の記憶でなく現在のものであることに気がついたとき、志仁田の呼吸は楽になっていた。 | |||
<br>「空気の入れ換えが済んだら、皆さん外に出てください。そこのあなた、あのボンベを閉じてくれますか。そう、それです」 | |||
<br> 品瀬琢内が左腕で志仁田の体を支え、右手で周囲にてきぱきと指示を出していた。志仁田が気を失っていたのは数十秒のことだったようだ。 | |||
<br>「なんで、いるの」 | |||
<br>「<ruby>少女風<rt>がーりー</rt></ruby>ちゃん、気がついた?」 | |||
<br>「リオにいる、はずじゃ」 | |||
<br>「無理に喋っちゃダメ。もう息は苦しくない?」 | |||
<br> 不承不承頷く志仁田に品瀬は微笑みかけた。 | |||
<br>「少女風ちゃん、僕のこと騙したね?」 | |||
<br> 悪びれる風もなく頷く志仁田に、品瀬は苦笑いを浮かべる。 | |||
<br>「すっかり騙されてたんだけど、飛行機の中でやきもきしながら写真を見ていたら、気づいたの。そんなモコモコのセーターを着てて、{{傍点|文章=暑くないのかな}}って。ブラジルはいま夏でしょ?」 | |||
<br>「そうなの?」 | |||
<br>「そうだよ。そうして調べてみたら、写真がネットのフリー素材だとわかって、慌てて引き返したってわけ」 | |||
<br>「引き返したって、ダラスから蜻蛉返りしても間に合わないはず……」 | |||
<br>「機長に直談判して、羽田に直接引き返してもらったよ。志仁田少女風の危機だって言ったら、喜んで協力してくれた」 | |||
<br> なぜ協力してくれるのか、志仁田には皆目見当もつかない。志仁田は上体を起こし、周りを見渡した。窓は割られ、扉は大きく開け放たれ、冬の夜の冷たい風が吹き抜けていた。 | |||
<br>「そうだ、私、いまさらを食べて、そしたら頭が痛くなって……」 | |||
<br>「ううん。いまさらを食べたからじゃない」 | |||
<br> 首を傾げる志仁田に、品瀬は怒った顔をしてみせた。 | |||
<br>「少女風ちゃん、液体窒素のボンベを開けた後、蓋を閉めなかったでしょ」 | |||
<br> さっきおじさんが閉めていたやつだ。 | |||
<br>「窒素がどんどん蒸発して、この部屋の{{傍点|文章=酸素濃度が下がっていた}}んだ。もうちょっとで窒息するところだったんだよ? 閉め切った部屋で液体窒素を扱うのは本当に危ないんだ。もうこんなことしちゃダメだよ?」 | |||
<br> ここに来て、ようやく志仁田はまたしても自殺に失敗したことに思い当たった。それに気がつくと体の力が抜けて、心が塞いで、部屋に吹き渡る風が寒々と体を凍らせた。意気消沈した志仁田は、恨みがましく品瀬を睨んだ。 | |||
<br>「なんでここがわかったの」 | |||
<br> 品瀬はたじたじとしつつも答えた。 | |||
<br>「さっきまでこの部屋にいたコイコイってYouTuberが、少女風ちゃんがいまさらを作ってるって中継してたんだ。液体窒素で危険な状況にあるってのも、それを見て気づいた」 | |||
<br>「そう……」 | |||
<br> 悲しげな志仁田を見て、品瀬は沈痛な表情になるが、立ち上がって手を引く。 | |||
<br>「歩けそう? 外に出よう。一応病院で診てもらうよ」 | |||
<br> 志仁田は抗うことなく立ち上がり、背に手を添えられながら歩き出す。 | |||
<br>「ねえ、少女風ちゃん、聞いてもいい?」 | |||
<br>「うん?」 | |||
<br>「これも自殺未遂、なんだよね」 | |||
<br>「……」 | |||
<br>「どうしてなの? 今日こそ聞かせてほしいな。どうして少女風ちゃんはこんなことを……」 | |||
<br> 志仁田は背を丸め、細かく震えていた。その額に大粒の汗が浮かび、顔が蒼ざめていることに、品瀬は気づくのが一瞬遅れた。 | |||
<br> 膝ががくんと折れ、両手を床についた。背中が大きく波打ち、志仁田は激しく嘔吐した。激痛が腹部を襲い、たまらず床に片肘をつく。嘔気がとめどなく込み上げてきて息が吸えず、涙と酸欠で視界が狭まっていく。誰か救急車を呼んでくれという品瀬の叫び声が聞こえてきて、これが死かと志仁田は思い、待ち望んだそれに何か思う暇もなく、再度の嘔吐とともに志仁田は意識を失った。 |
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