「Sisters:WikiWikiオンラインノベル/大海を知らない探偵」の版間の差分

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<br>「だって、気になるじゃん。なんで死んだのか。それに珍しいし。行こうよ」
<br>「だって、気になるじゃん。なんで死んだのか。それに珍しいし。行こうよ」
<br> スズメダイっちはついさっきまでマンボウが生きていたことを知らない。だからこんなにひどいことを言えるんだ。そう自分に言い聞かせて、込み上げてくる気持ちを抑えつけた。ぼくは物知りだから、ほかの子より大人なんだ。お父さんみたいに。
<br> スズメダイっちはついさっきまでマンボウが生きていたことを知らない。だからこんなにひどいことを言えるんだ。そう自分に言い聞かせて、込み上げてくる気持ちを抑えつけた。ぼくは物知りだから、ほかの子より大人なんだ。お父さんみたいに。
<br> そんなぼくの心のうちも知らず、スズメダイっちは言い募った。
<br> そんなぼくの心のうちも知らず、スズメダイっちは言いつのった。
<br>「外が怖いのはわかるけど、底から離れて泳げば大丈夫だよ。ちょっと行って帰るだけさ。何かあればすぐに戻ってくればいい」
<br>「外が怖いのはわかるけど、底から離れて泳げば大丈夫だよ。ちょっと行って帰るだけさ。何かあればすぐに戻ってくればいい」
<br> 臆病だから行くのをしぶっているのだと思われるのは心外だった。お父さんのように、ぼくは勇敢でなければならない。今まで、何かと言い訳をしておうちの外に出ることはしなかった。でも、今こそぼくが勇敢だと示すチャンスじゃないか。
<br> 臆病だから行くのをしぶっているのだと思われるのは心外だった。お父さんのように、ぼくは勇敢でなければならない。今まで、何かと言い訳をしておうちの外に出ることはしなかった。でも、今こそぼくが勇敢だと示すチャンスじゃないか。
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 そばにサンゴがない。どこにも隠れる場所がない。むき出しで大海にいる実感が湧いてきて、怖さがすぐにおそってきた。心臓がばくばくと鳴り、体が震える。なるべく海の底を見ないように、顔をまっすぐに向ける。
 そばにサンゴがない。どこにも隠れる場所がない。むき出しで大海にいる実感が湧いてきて、怖さがすぐにおそってきた。心臓がばくばくと鳴り、体が震える。なるべく海の底を見ないように、顔をまっすぐ前に向ける。
<br> くるりと回れ右をしておうちに帰りたいのをがまんして、泳ぎつづけた。大口を開けた怖い魚が、今にも現れておそってくるんじゃないだろうか。そんな恐怖に駆られて、いつの間にか全力で泳いでいた。早く着いて、早く帰りたい。
<br> くるりと回れ右をしておうちに帰りたいのをがまんして、泳ぎつづけた。大口を開けた怖い魚が、今にもおそってくるんじゃないだろうか。そんな恐怖に駆られて、いつの間にか全力で泳いでいた。早く着いて、早く帰りたい。
<br>「ちょっと、おいてかないでよお」
<br>「ちょっと、おいてかないでよお」
<br> 十秒ほどしてぼくはマンボウの真上に到着し、スズメダイっちもすぐに追いついた。
<br> 十秒ほどしてぼくはマンボウの真上に到着し、スズメダイっちもすぐに追いついた。
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<br>「だがね、考えてみれば、あんなことができる大きな口を持ったものは、彼のほかにいないではないか」
<br>「だがね、考えてみれば、あんなことができる大きな口を持ったものは、彼のほかにいないではないか」
<br>「そんなことない! たとえば、毎朝通りかかるアシ香とか。そういやあいつ、今日は通りかかるのが十分くらい遅かったじゃない。マンボウを殺してたから遅れたんじゃないの?」
<br>「そんなことない! たとえば、毎朝通りかかるアシ香とか。そういやあいつ、今日は通りかかるのが十分くらい遅かったじゃない。マンボウを殺してたから遅れたんじゃないの?」
<br>「いや、そうではない。彼女が来たときには、もうマンボウは殺されていたそうじゃよ」
<br>「いや、そうではない。彼女がきたときには、もうマンボウは殺されていたそうじゃよ」
<br>「噓ついてるんじゃない?」
<br>「噓ついてるんじゃない?」
<br>「さきほど彼女と会ったんだが、口は綺麗じゃった。血で汚れていなかったから、彼女は殺しておらん」
<br>「さきほど彼女と会ったんじゃが、口は綺麗じゃった。血で汚れていなかったから、彼女は殺しておらん」
<br>「じゃあ、気性の荒いハタ蔵はどうよ」
<br>「じゃあ、気性の荒いハタ蔵はどうよ」
<br>「ハタ蔵の口でさえも、あの傷口と比べると小さすぎる。それに、ハタは噛み切るというより丸呑みにするタイプじゃ。あんな噛み傷を残せるのは、シャーくんくらいのものではないかのお」
<br>「ハタ蔵の口でさえも、あの傷口と比べると小さすぎる。それに、ハタは噛み切るというより丸呑みにするタイプじゃ。あんな噛み傷を残せるのは、シャーくんくらいのものではないかのお」
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<br>「離れるといっても高が知れているわ。このサンゴ礁の外にも、魚はたくさんいた。そうでしょ?」
<br>「離れるといっても高が知れているわ。このサンゴ礁の外にも、魚はたくさんいた。そうでしょ?」
<br> 反論した魚はずばりおうちの外に住んでいるようで、言葉に詰まったようだった。
<br> 反論した魚はずばりおうちの外に住んでいるようで、言葉に詰まったようだった。
<br>「だからやっぱり、シャーくんが誰にも目撃されないなんてあり得ない。つまり、シャーくんはマンボウを殺してはいないのよ」
<br>「だからやっぱり、シャーくんが誰にも目撃されないなんてありえない。つまり、シャーくんはマンボウを殺してはいないのよ」
<br> コバンザメ子は意気揚々と言い放った。
<br> コバンザメ子は意気揚々と言い放った。


89行目: 89行目:
<br>「何? ならば、犯魚は見たのか?」
<br>「何? ならば、犯魚は見たのか?」
<br>「それが……不思議なことに、ぼくが目を離した五秒くらいの間に、殺されたみたいで……」
<br>「それが……不思議なことに、ぼくが目を離した五秒くらいの間に、殺されたみたいで……」
<br> それからぼくは、見たことを素直に話した。周りに誰もいなかったこと、スズメダイっちに呼ばれて少しだけ振り返ったこと、それなのにマンボウが殺されたこと……。周りのみんながぼくの話に耳を傾けていた。
<br> それからぼくは、見たことを素直に話した。周りに誰もいなかったこと、スズメダイっちに呼ばれて少しだけ振り返ったこと、それなのにマンボウが殺されていたこと……。周りのみんながぼくの話に耳を傾けていた。
<br> ぼくが全てを話し終えると、カメ老はうなった。
<br> ぼくが全てを話し終えると、カメ老はうなった。
<br>「たった五秒であの距離を往復するのは難しい。サンゴ礁から現場に行ってまた帰ってくるまで、バショウカジキでも五秒では厳しいだろうな。砂に潜るというのも、砂の中に住むような薄っぺらい魚には、あれだけの傷を負わせることはできない。それなのになぜ……」
<br>「たった五秒であの距離を往復するのは難しい。サンゴ礁から現場に行ってまた帰ってくるまで、たとえバショウカジキであっても五秒では厳しいだろうな。砂に潜るという手もあるが、砂の中に住むような薄っぺらい魚には、あれだけの傷を負わせることはできない。それなのになぜ……」
<br> これでは、マンボウを殺せた魚が誰もいないということになってしまう。みんなもそう考えたようで、口ぐちに問いただしてくる。
<br> これでは、マンボウを殺せた魚が誰もいないということになってしまう。みんなもそう考えたようで、口ぐちに問いただしてくる。
<br>「おいベラ助、今の話は噓じゃねえんだな?」
<br>「おいベラ助、今の話は噓じゃねえんだな?」
101行目: 101行目:
<br> 場が水を打ったように静まった。物問いたげなみんなの視線がぼくに突き刺さる。ぼくは言い返せなかった。図星だったから。
<br> 場が水を打ったように静まった。物問いたげなみんなの視線がぼくに突き刺さる。ぼくは言い返せなかった。図星だったから。
<br> ぼくが黙ってうなずくと、タイ太郎は得意げに言い放った。
<br> ぼくが黙ってうなずくと、タイ太郎は得意げに言い放った。
<br>「やっぱりな。ということは、シャーの野郎が海底ギリギリにひそんでいて、五秒のうちに一気にマンボウに襲いかかったんだ。そしてすぐにまた潜る。息を殺して海底を潜航し、家に戻ったんだ! ここの誰にも見られなかったのも、そうしていたからに決まってる」
<br>「やっぱりな。ということは、シャーの野郎が海底ギリギリにひそんでいて、五秒のうちに一気にマンボウにおそいかかったんだ。そしてすぐにまた潜る。息を殺して海底を潜航し、家に戻ったんだ! ここの誰にも見られなかったのも、そうしていたからに決まってる」
<br> コバンザメ子が「そんなんでシャーくんの巨体が隠れるわけないじゃない」とぼやくが、熱狂した魚たちの耳には入らない。あがるみんなの歓声を押しとどめたのは、スズメダイっちだった。
<br> コバンザメ子が「そんなんでシャーくんの巨体が隠れるわけないじゃない」とぼやくが、熱狂した魚たちの耳には入らない。あがるみんなの歓声を押しとどめたのは、スズメダイっちだった。
<br>「待って。それはありえないよ。だって、五秒が経ったあと、ぼくも身を乗り出してマンボウの方を見たんだから。当然、底にシャーくんがいたら気づいたはずさ。つまり、シャーくんが隠れることはできなかった」
<br>「待って。それはありえないよ。だって、五秒が経ったあと、ぼくも身を乗り出してマンボウの方を見たんだから。当然、底にシャーくんがいたら気づいたはずさ。つまり、シャーくんが隠れることはできなかった」
126行目: 126行目:
<br>「だが、それだけじゃない。あいつはとんでもなく意地悪で狡猾なやつだ。だから、その……なんといえばいいか……」
<br>「だが、それだけじゃない。あいつはとんでもなく意地悪で狡猾なやつだ。だから、その……なんといえばいいか……」
<br> 少し口ごもったあとで、彼はこう言った。
<br> 少し口ごもったあとで、彼はこう言った。
<br>「さっきお前らが言ったような疑問の答え、それは俺には見当もつかない。頭を働かせれば、あいつがマンボウを殺すことはできないはずなのはわかる。でも……一度あいつを見れば、マンボウを殺したのはあいつだろうって、そう思うだろうよ。言いたいのは、それだけだ」
<br>「さっきお前らが言ったような疑問の答え、それは俺には見当もつかない。頭を働かせれば、あいつがマンボウを殺すことはできないはずなのはわかる。でも……一度あいつを見れば、マンボウを殺したのはあいつだって、そう思うだろうよ。言いたいのは、それだけだ」
<br> タイ太郎はくるりと背を向けて、どこかへ去っていった。
<br> タイ太郎はくるりと背を向けて、どこかへ去っていった。
<br> しばらく沈黙がおり、スズメダイっちがカメ老に問いかけた。
<br> しばらく沈黙がおり、スズメダイっちがカメ老に問いかけた。
143行目: 143行目:
<br>「でも……」
<br>「でも……」
<br>「ちょっと姿を見るだけでいいから」
<br>「ちょっと姿を見るだけでいいから」
<br> ぼくはスズメダイっちに、臆病だと思われるのが怖かった。だから、結局ぼくはうなずいた。そんなところが臆病なのかもしれない。
<br> ぼくはスズメダイっちに臆病だと思われるのが怖かった。だから、結局ぼくはうなずいた。そんなところが臆病なのかもしれない。
<br> ぼくらはうわさに聞いた、シャーくんの住む洞窟へ向かった。おうちを出て、広い海をふたりきりで泳ぐ。海底への恐怖心は残っていたが、でもだいぶ落ち着いてきた。朝、マンボウのところへ行って帰ってこられたのが、効いているのかもしれない。
<br> ぼくらはうわさに聞いた、シャーくんの住む洞窟へ向かった。おうちを出て、広い海をふたりきりで泳ぐ。海底への恐怖心は残っていたが、でもだいぶ落ち着いてきた。朝、マンボウのところへ行って帰ってこられたのが、効いているのかもしれない。
<br> しばらく行くと、白砂の海底が唐突に途切れ、黒々とした大きな岩壁がそそり立っている場所に行き当たった。シャーくんが恐れられているしるしに、周囲に魚影は見当たらない。海面近くまでそびえる壁は横にも長く広がり、ぼくらの行き手を阻んでいる。視線をめぐらせると、右の方に大きな洞穴が一つ、口を開けているのが見えた。あれが洞窟だ。
<br> しばらく行くと、白砂の海底が唐突に途切れ、黒々とした大きな岩壁がそそり立っている場所に行き当たった。シャーくんが恐れられているしるしに、周囲に魚影は見当たらない。海面近くまでそびえる壁は横にも長く広がり、ぼくらの行き手を阻んでいる。視線をめぐらせると、右の方に大きな洞穴が一つ、口を開けているのが見えた。あれが洞窟だ。
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<br> 大きい。体長はあのマンボウをも遥かにしのぐ。その全貌が徐々にあらわになっていく。漆黒に輝く滑らかな肌と水の抵抗を極限まで下げる洗練された流線形の胴体は、強烈な威容を放っている。それに加え、ぴんと高い背びれが威厳すら伝えてくる。そして、大きな口からは無数の牙が覗いている。肉食動物のしるしにほかならぬそれの、あまりの凶悪さに、ぼくらは息を止めた。
<br> 大きい。体長はあのマンボウをも遥かにしのぐ。その全貌が徐々にあらわになっていく。漆黒に輝く滑らかな肌と水の抵抗を極限まで下げる洗練された流線形の胴体は、強烈な威容を放っている。それに加え、ぴんと高い背びれが威厳すら伝えてくる。そして、大きな口からは無数の牙が覗いている。肉食動物のしるしにほかならぬそれの、あまりの凶悪さに、ぼくらは息を止めた。
<br> 体がガタガタと震え、金縛りにあったように言うことを聞かない。圧倒的なオーラがビリビリとぼくの体を打っている。巨大な影が、ゆっくりとこちらを向く。そして、ニヤリと笑った。口の端からこぼれた鋭い牙は、それに全身を切り裂かれ噛みちぎられるぼくの最期を一瞬で想起させた。
<br> 体がガタガタと震え、金縛りにあったように言うことを聞かない。圧倒的なオーラがビリビリとぼくの体を打っている。巨大な影が、ゆっくりとこちらを向く。そして、ニヤリと笑った。口の端からこぼれた鋭い牙は、それに全身を切り裂かれ噛みちぎられるぼくの最期を一瞬で想起させた。
<br> 逃げなくては。切実な命の危機を、あらゆる場所が訴えている。しかし、圧倒的な恐怖がぼくの体を釘付けにしていた。
<br> 逃げなくては。切実な命の危機を、ちっぽけな体のあらゆる場所が訴えている。しかし、圧倒的な恐怖がぼくの体を釘付けにしていた。
<br> 心臓がどきんどきんと打つ音がやけに大きくゆっくりと聞こえ、背筋が氷になったかのように冷たい。あらゆる筋肉が凝縮し、動けぬままに目の前の脅威を見つめている。
<br> 心臓がどきんどきんと打つ音がやけに大きくゆっくりと聞こえ、背筋が氷になったかのように冷たい。あらゆる筋肉が硬直し、動けぬままに目の前の脅威を見つめている。
<br> 目の前のシャーくんが、体を大きくしならせた。尾びれが振り下ろされ、海底の砂が波動に叩かれて舞い上がり、巨大で邪悪な魚影が急接近してくる。
<br> 目の前のシャーくんが、体を大きくしならせた。尾びれが振り下ろされ、海底の砂が波動に叩かれて舞い上がり、巨大で邪悪な魚影が急接近してくる。
<br> 気づいたときには、ぼくは脇目もふらずに逃げ出していた。
<br> 気づいたときには、ぼくは脇目もふらずに逃げ出していた。
163行目: 163行目:
<br> ぼくらは生きるために、いろんな魚を食い、また食われる。だが、食べるためでなく他者を殺すなんてことはしない。なのになぜマンボウは殺されたのか。それがずっと謎だった。でも、シャーくんがやったなら、わかる。
<br> ぼくらは生きるために、いろんな魚を食い、また食われる。だが、食べるためでなく他者を殺すなんてことはしない。なのになぜマンボウは殺されたのか。それがずっと謎だった。でも、シャーくんがやったなら、わかる。
<br> 遊びだったのだ。弱者をいたぶり殺す、それが目的だったのだろう。シャーくんなら、やる。被食者の本能が、そう告げている。ぼくは、シャーくんがマンボウを殺したことをもはや確信していた。
<br> 遊びだったのだ。弱者をいたぶり殺す、それが目的だったのだろう。シャーくんなら、やる。被食者の本能が、そう告げている。ぼくは、シャーくんがマンボウを殺したことをもはや確信していた。
<br> しかし、方法がわからないことも事実だった。シャーくんを見て思い知ったことは、もう一つある。コバンザメ子が言うように、シャーくんが近くを通っているのにぼくらが気づかないなんてことはあり得ないのだ。あの威容は、簡単には隠せない。それに、いくらシャーくんの泳ぐスピードが速いといっても、五秒のうちにあの場を離脱することはやはり不可能だ。それに、シャーくんは大きい。あの巨体では、砂に潜ることはおろか、ぼくから隠れて海底を潜航することも厳しいだろう。スズメダイっちが呈した疑問も残っている。
<br> しかし、方法がわからないことも事実だった。シャーくんを見て思い知ったことは、もう一つある。コバンザメ子が言うように、シャーくんが近くを通っているのにぼくらが気づかないなんてことはあり得ないのだ。あの威容は、簡単には隠せない。それに、いくらシャーくんの泳ぐスピードが速いといっても、五秒のうちにあの場を離脱することはやはり不可能だ。加えて、シャーくんは大きい。あの巨体では、砂に潜ることはおろか、ぼくから隠れて海底を潜航することも厳しいだろう。スズメダイっちが呈した疑問も残っている。
<br> ぼくは、考えてみることにした。ほんとうにシャーくんに犯行は不可能だったのか。狡猾なシャーくんが、何かのトリックと何かの狙いのもとに、マンボウを殺したのではないか。
<br> ぼくは、考えてみることにした。ほんとうにシャーくんに犯行は不可能だったのか。狡猾なシャーくんが、何かのトリックと何かの狙いのもとに、マンボウを殺したのではないか。
<br> 近くのサンゴに寄りかかり、目をつぶる。しばらく黙考したが、だんだんと考えがあちこちへ散っていってしまう。気づけば、昔のことを振り返っていた。
<br> 近くのサンゴに寄りかかり、目をつぶる。しばらく黙考したが、だんだんと考えがあちこちへ散っていってしまう。いつの間にか、昔のことを振り返っていた。
<br> ぼくのお父さんは、勇敢だった。若いときから大海に出て、いろんなものを見聞きしてきたらしい。幼いぼくはお父さんからいろんな話を聞いた。そのおかげで、ぼくはいくらか物知りになった。ぼくが大海に出たいと思うようになったのは、当然のなりゆきだろう。
<br> ぼくのお父さんは、勇敢だった。若いときから大海に出て、いろんなものを見聞きしてきたらしい。幼いぼくはお父さんからいろんな話を聞いた。そのおかげで、ぼくはいくらか物知りになった。ぼくが大海に出たいと思うようになったのは、当然のなりゆきだろう。
<br> ぼくが少し大きくなったとき、お父さんはぼくをおうちの外に連れ出すことにした。ぼくは大喜びで、おうちを初めて出た。海底に潜んでいたコチが前を泳いでいたお父さんを一瞬で呑み込んだのは、おうちを出てからさほど経っていなかったときだったと思う。コチは口からお父さんの尾びれをはみださせ、こっちを見た。気づけば、ぼくはおうちでひとり震えていた。
<br> ぼくが少し大きくなったとき、お父さんはぼくをおうちの外に連れ出すことにした。ぼくは大喜びで、おうちをはじめて出た。海底に潜んでいたコチが前を泳いでいたお父さんを一瞬で呑み込んだのは、おうちを出てからさほど経っていなかったときだったと思う。コチは口からお父さんの尾びれをはみださせ、こっちを見た。気づけば、ぼくはおうちでひとり震えていた。
<br> それから、おうちの外と海の底が怖くなった。周りからはさんざん臆病者とそしられた。今日がおうちから出た二回目だった。その途端、これだ。
<br> それから、おうちの外と海の底が怖くなった。周りからはさんざん臆病者とそしられた。今日がおうちから出た二回目だった。その途端、これだ。
<br> なぜか、この事件が、ぼくに与えられた試練のように思えてきた。ぼくが大海を知るための、通過儀礼。この事件を乗り越えなければ大海にでてはならないというのなら、ぼくはきっと越えてみせる。お父さんみたいに、勇敢になるために。
<br> なぜか、この事件が、ぼくに与えられた試練のように思えてきた。ぼくが大海を知るための、通過儀礼。この事件を乗り越えなければ大海に出てはならないというのなら、ぼくはきっと越えてみせる。お父さんみたいに、勇敢になるために。
<br> ぼくは事件の様相を整理してみた。
<br> ぼくは事件の様相を整理してみた。
<br> マンボウが殺された。傷は大きく、残せたのはシャーくんくらいしかいないように思える。でも、シャーくんがおうちの魚たちに目撃されずに現場に行けたようには思えない。逆に、シャーくん以外の魚なら、おうちのみんなに怪しまれずに現場まで行けたが、あんなに大きな傷を残せない。この時点で、もう誰にも犯行は不可能なのだ。
<br> マンボウが殺された。傷は大きく、残せたのはシャーくんくらいしかいないように思える。でも、シャーくんがおうちの魚たちに目撃されずに現場に行けたようには思えない。逆に、シャーくん以外の魚なら、おうちのみんなに怪しまれずに現場まで行けたが、あんなに大きな傷を残せない。この時点で、もう誰にも犯行は不可能なのだ。
178行目: 178行目:




 海面からさす光は、少し暗くなっている。ぼくは一つの結論を出した。それをぶつけるために、ぼくは洞窟へと向かっている。スズメダイっちにも誰にも告げずに出てきた。だから、初めてひとりきりでおうちの外に出たことになる。
 海面から降り注ぐ光は、少し暗くなっている。ぼくは一つの結論を出した。それをぶつけるために、ぼくは洞窟へと向かっている。スズメダイっちにも誰にも告げずに出てきた。だから、はじめてひとりきりでおうちの外に出たことになる。
<br> まとめた考えを反芻していると、いつの間にか洞窟に着いていた。何度か深呼吸して、意を決する。
<br> まとめた考えを反芻していると、いつの間にか洞窟に着いていた。何度か深呼吸して、意を決する。
<br>「シャーくん、話したいことがあるんだ。出てきてくれない?」
<br>「シャーくん、話したいことがあるんだ。出てきてくれない?」
185行目: 185行目:
<br> 暗闇がぽっかりと口を開けている。ぼくは体の震えを押さえ、そろそろと洞窟の中へと入っていった。
<br> 暗闇がぽっかりと口を開けている。ぼくは体の震えを押さえ、そろそろと洞窟の中へと入っていった。
<br> 幅広い穴がまっすぐ伸びている。シャーくんからすれば、あまり広くはないのだろうが。入り口から遠ざかるにしたがって、だんだんと暗くなっていく。前方で、道が大きな空間につながっていた。その空間に入ると、一気に視界が開け、周囲は明るくなった。天井に小さな穴があり、そこから光が降ってきている。向かい側には、今通ってきたところと同じような穴が空いていた。この大きな空間を、水平に伸びる細い穴が前後に貫いている形だ。
<br> 幅広い穴がまっすぐ伸びている。シャーくんからすれば、あまり広くはないのだろうが。入り口から遠ざかるにしたがって、だんだんと暗くなっていく。前方で、道が大きな空間につながっていた。その空間に入ると、一気に視界が開け、周囲は明るくなった。天井に小さな穴があり、そこから光が降ってきている。向かい側には、今通ってきたところと同じような穴が空いていた。この大きな空間を、水平に伸びる細い穴が前後に貫いている形だ。
<br> そして、中央には、シャーくんが口に笑いをたたえながら、ぼくを見つめていた。愚かな獲物を見るようなその視線に、思わず身震いする。
<br> そして、中央では、シャーくんが口に笑いをたたえながら、ぼくを見つめていた。愚かな獲物を見るようなその視線に、思わず身震いする。
<br> するとシャーくんは白い牙をこぼした。
<br> するとシャーくんは白い牙をこぼした。
<br>「安心しろ。取って食ったりしねえから。気分が変わらねえ限り、だが」
<br>「安心しろ。取って食ったりしねえから。気分が変わらねえ限り、だが」
209行目: 209行目:
<br> そのまま一気に言葉を継ぐ。
<br> そのまま一気に言葉を継ぐ。
<br>「マンボウの下には、{{傍点|文章=窪み}}があったんだ。シャーくんが潜めるほどの大きな窪みがね。そして、窪みの入り口はマンボウより小さかった。だから、マンボウの死体は窪みを覆い隠したんだ。シャーくんの体長はマンボウより大きいけど、縦になればマンボウに隠れられるはずだ」
<br>「マンボウの下には、{{傍点|文章=窪み}}があったんだ。シャーくんが潜めるほどの大きな窪みがね。そして、窪みの入り口はマンボウより小さかった。だから、マンボウの死体は窪みを覆い隠したんだ。シャーくんの体長はマンボウより大きいけど、縦になればマンボウに隠れられるはずだ」
<br> シャーくんに動揺は見られなかった。彼はゆっくりと壁に沿って泳ぎ、ぼくは無意識に彼の反対側にいるように移動していた。
<br> シャーくんに動揺は見られなかった。彼はゆっくりと壁に沿って泳ぎ、ぼくはほとんど無意識に彼の反対側にいるように移動する。
<br>「最初から君はこの窪みに潜んでいた。マンボウがくる前からずっと。そして、マンボウが真上にきたとき、偶然にもぼくが目を離したとき、窪みから躍り出てマンボウの頭を食いちぎったんだ」
<br>「最初から君はこの窪みに潜んでいた。マンボウがくる前からずっと。そして、マンボウが真上にきたとき、偶然にもぼくが目を離したとき、窪みから躍り出てマンボウの頭を食いちぎったんだ」
<br>「そんな大きな窪みがあったら、みんな気づくんじゃないか?」
<br>「そんな大きな窪みがあったら、みんな気づくんじゃないか?」
230行目: 230行目:
<br>「アシ香さんは泳ぐのが速い。今おそっても逃げられると判断したんだ。そしてそのまま、ぼくらがマンボウの死体を調べている間、君は窪みに潜み続けた」
<br>「アシ香さんは泳ぐのが速い。今おそっても逃げられると判断したんだ。そしてそのまま、ぼくらがマンボウの死体を調べている間、君は窪みに潜み続けた」
<br>「それもなぜだ? お前らがいるからといって、隠れなければならない理由はない」
<br>「それもなぜだ? お前らがいるからといって、隠れなければならない理由はない」
<br>「いや、ある。アシ香さんの遊泳コースを変えさせないためだよ。あのときの会話を、君も聞いていたはずだ。もし君が窪みで待ち伏せしていたことをぼくらに知られたら、その情報はアシ香さんまで伝わってしまうだろうね。すると、アシ香さんは当然だけど警戒する。あの窪みには絶対に近づかないようにするだろうね。すると、せっかくの作戦が使えなくなってしまう。だから、誰にもバレないように、隠れ続けたんだ。辺りに誰もいなくなってから、君はそっと脱出した。こうすることで、第二の密室もクリアできる」
<br>「いや、ある。アシ香さんの遊泳コースを変えさせないためだよ。あのときの会話を、君も聞いていたはずだ。もし君が窪みで待ち伏せしていたことをぼくらに知られたら、その情報はアシ香さんまで伝わってしまうだろうね。すると、アシ香さんは当然だけど警戒する。あの窪みには絶対に近づかないようにするだろうね。すると、せっかくの作戦が使えなくなってしまう。だから、誰にもバレないように、隠れ続けたんだ。辺りに誰もいなくなってから、君はそっと脱出した。こうすることで、おうちのみんなの目も逃れることができる」
<br>「第二の密室?」
<br>「へえ?」
<br>「おうちのみんなの目のこと。君はカメ老が現場を離れるまで、辛抱強く待ってから現場を離れた。だから、おうちの誰にも目撃されなかった。だってその頃、みんなはカメ老のもとに集まっていたんだから」
<br>「君はカメ老が現場を離れるまで、辛抱強く待ってから現場を離れた。だから、おうちの誰にも目撃されなかった。だってその頃、みんなはカメ老のもとに集まっていたんだから」
<br> カメ老の居場所は窪んでいるから、外は見えない。ぼくらが目撃証言をつのっているまさにそのとき、シャーくんは悠々と横を泳いでいたのだ。
<br> カメ老の居場所は窪んでいるから、外は見えない。ぼくらが目撃証言をつのっているまさにそのとき、シャーくんは悠々と横を泳いでいたのだ。
<br>「そうやって密室を破ったあと、君は何食わぬ顔でぼくらと会ったってわけ」
<br>「そうやって密室を破ったあと、君は何食わぬ顔でぼくらと会ったってわけ」
253行目: 253行目:
<br> マンボウがくる前から潜んでいた。それからマンボウを殺して、また隠れて、それからは辺りに誰もいなくなるまで。それっていつだ? ぼくらがおうちに戻るとき、入れ替わりにカメ老がきた。そのとき逃げていたらカメ老に見つかっていたはずだから、まだ潜んでいる。そして、カメ老が現場の検分を終えて戻ってきたのは、二十分後。
<br> マンボウがくる前から潜んでいた。それからマンボウを殺して、また隠れて、それからは辺りに誰もいなくなるまで。それっていつだ? ぼくらがおうちに戻るとき、入れ替わりにカメ老がきた。そのとき逃げていたらカメ老に見つかっていたはずだから、まだ潜んでいる。そして、カメ老が現場の検分を終えて戻ってきたのは、二十分後。
<br>「……マンボウを殺すときを除けば、最低でも二十五分くらい」
<br>「……マンボウを殺すときを除けば、最低でも二十五分くらい」
<br>「な? 無理じゃねえか」
<br>「んー、まあ及第か。な? 無理じゃねえか」
<br> ぽかんとするぼくを見て、シャーくんも固まり、少ししてはっとした顔をし、そして大笑いし始めた。ぼくは彼の笑いが理解できない。
<br> ぽかんとするぼくを見て、シャーくんも固まり、少ししてはっとした顔をし、そして大笑いし始めた。ぼくは彼の笑いが理解できない。
<br>「何がおかしいんだ? ぼくらが君と会ったのは、カメ老の検分が終わったしばらくあとだから、アリバイも成立しない。犯行は可能だったはず……」
<br>「何がおかしいんだ? ぼくらが君と会ったのは、カメ老の検分が終わったしばらくあとだから、アリバイも成立しない。犯行は可能だったはず……」
299行目: 299行目:
<br>「……いや、ないけど、でも、見えるじゃないか」
<br>「……いや、ないけど、でも、見えるじゃないか」
<br>「ほんとうに見えているのか? 見えているとお前が思い込んでいるだけじゃないのか?」
<br>「ほんとうに見えているのか? 見えているとお前が思い込んでいるだけじゃないのか?」
<br> なおもシャーくんは言い募る。
<br> なおもシャーくんは言いつのる。
<br>「お前は父親に大海の話を聞かされて育ったらしいな。父親は、大海原を旅したことを誇りに思っていた。だから、人間に捕まったことを恥じていただろうな。だから、ここは海だと息子に言い聞かせた。水族館で生まれた息子は、そこが海だと露ほども疑わずに育っていく……」
<br>「お前は父親に大海の話を聞かされて育ったらしいな。父親は、大海原を旅したことを誇りに思っていた。だから、人間に捕まったことを恥じていただろうな。だから、ここは海だと息子に言い聞かせた。水族館で生まれた息子は、そこが海だと露ほども疑わずに育っていく……」
<br> そんなことあるわけない。耳をふさぎたかったが、シャーくんの言葉は無理やりぼくの脳に入ってくる。
<br> そんなことあるわけない。耳をふさぎたかったが、シャーくんの言葉は無理やりぼくの脳に入ってくる。
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<br>「ぼくを痛めつけたいからだ。それか、なぶって遊んでるんだ。そうだ、君は噓をついてる!」
<br>「ぼくを痛めつけたいからだ。それか、なぶって遊んでるんだ。そうだ、君は噓をついてる!」
<br> ここが水族館だなんて、そんなわけがない。ぼくは必死に頭を働かせる。
<br> ここが水族館だなんて、そんなわけがない。ぼくは必死に頭を働かせる。
<br>「まず、ここが水族館なら、シャチが普通の魚と一緒の水槽にいるはずなんてない! 魚が危険だから、シャチとかは専用のプールに住むものだ」
<br>「まず、ここが水族館なら、シャチが普通の魚と一緒の水槽にいるはずなんてない! 他の魚が危険だから、シャチとかは専用のプールに住むものだ」
<br>「そうか?」
<br>「そうか?」
<br> シャーくんはニヤリと笑った。
<br> シャーくんはニヤリと笑った。
348行目: 348行目:
<br>「シャーくん、君がマンボウを殺す方法はまだ残ってる」
<br>「シャーくん、君がマンボウを殺す方法はまだ残ってる」
<br>「……ほう?」
<br>「……ほう?」
<br>「マンボウの下にあるのは、窪みじゃなくて{{傍点|文章=洞穴}}だったんだ。その洞穴はずっと伸びて、どこか遠くに繋がってる。そうだとすれば、マンボウを殺したあと、君は洞穴を通り抜けて、海面まで息継ぎに行ける。こうすれば第二の密室も掻い潜れる。海底の下のトンネルを通ったんだから、見られることなんてない」
<br>「マンボウの下にあるのは、窪みじゃなくて{{傍点|文章=洞穴}}だったんだ。その洞穴はずっと伸びて、どこか遠くに繋がってる。そうだとすれば、マンボウを殺したあと、君は洞穴を通り抜けて、海面まで息継ぎに行ける。こうすればみんなの目も掻い潜れる。海底の下のトンネルを通ったんだから、見られることなんてない」
<br>「俺が水中で活動できる時間は短い。ここら一帯の外まで続くような長いトンネルじゃあ、息が続かなくなる恐れがあるから、俺は使えないぞ」
<br>「俺が水中で活動できる時間は短い。ここら一帯の外まで続くような長いトンネルじゃあ、息が続かなくなる恐れがあるから、俺は使えないぞ」
<br>「トンネルに入って、事件現場に行って、マンボウを殺して、またトンネルを抜ける。息が続くのが十五分なら片道に七分半使える。それだけあれば、ずっと遠くまで行けるはずだよ」
<br>「トンネルに入って、事件現場に行って、マンボウを殺して、またトンネルを抜ける。息が続くのが十五分なら片道に七分半使える。それだけあれば、ずっと遠くまで行けるはずだよ」
<br>「そうじゃないんだ」
<br>「そうじゃないんだ。さっきは言わなかったがな」
<br> シャーくんは唇を歪めた。
<br> シャーくんは唇を歪めた。
<br>「仮に俺があのアシカを待ち伏せていたとする。それなら、俺はアシカの通る時間めがけて現場に到着するだろう。念の為に数分前に来るかもな。だが今日、アシカは少し遅れて来た。そのぶん長く穴に潜んでいないといけないんだ。帰りにかけられる時間は少ない。片道七分もかけてたら、途中で酸欠になっちまう」
<br>「仮に俺があのアシカを待ち伏せていたとする。それなら、俺はアシカの通る時間めがけて現場に到着するだろう。念のために数分前にくるかもな。だが今日、アシカは少し遅れてきた。そのぶん長く穴に潜んでいないといけないんだ。帰りにかけられる時間は少ない。片道七分もかけてたら、途中で酸欠になっちまう」
<br> 確かにそうだ。周到なシャーくんなら、どんなに遅くとも、アシ香さんの通過予定時間には現場にいたはずだ。でもアシ香さんが遅れたぶん、十分はそこにとどまらないといけない。残された五分でトンネルを往復しないといけないから、トンネルは二分半で抜けなきゃならない。これじゃあ、おうちからそう遠く離れられない。
<br> 確かにそうだ。周到なシャーくんなら、どんなに遅くとも、アシ香さんの通過予定時間には現場にいたはずだ。でもアシ香さんが遅れたぶん、十分はそこにとどまらないといけない。残された五分でトンネルを往復しないといけないから、トンネルは二分半で抜けなきゃならない。これじゃあ、おうちからそう遠く離れられない。
<br> でも、まだ諦めない。
<br> でも、まだ諦めない。
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