Sisters:WikiWikiオンラインノベル/プールか体育館か

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 俺、柏原亮斗が目を覚まして腕時計を見ると、昼休み終了まで3分を切っていた。その事実を認識した途端、意識が急速に覚醒し、同時に背筋が凍った。これは、とても、まずい。
 慌てて立ち上がった。椅子が倒れ、けたたましい音が無人の教室に響く。起こしている暇はない。一瞬で自分がおかれている状況を再確認する。
 現在、昼休み終了すなわち4限目開始まで、残り2分50秒かそこら。次の授業は、体育。担当教師は三河、通称『遅刻に親を殺された男』。由来は、「時間を守ることは最低限のけじめ」とかなんとか言って、遅刻した生徒を親の仇かのように怒鳴りつけ、放課後の体育館掃除という罰までも加えること。そして、俺は今まさに遅刻しようとしている。だから問題なのだ。今日の夕方、俺は友達とゲームする約束をしている。なんとしても、居残りは避けたい。
 俺は頭の中で素早く概算した。体育館は、渡り廊下を挟んだ1階。全力疾走すれば、2分足らずで着く。着替える時間はないが、遅刻よりは圧倒的にマシだ。荷物を持ち、制服のまま体育館に走り、授業開始に間に合わせる。
 方針は決まった。俺は体育用具一式が入った布袋を取ろうとロッカーに走り、愕然とした。そこには、布袋が入ったリュックサックがあった。
 ひゅっと喉が鳴り、朝の出来事がフラッシュバックする。そうだ、体育は水泳の授業をする予定なんだ。俺は、今日もいつも通りここ沢渡高校に登校してきた。天気は悪く、分厚い黒雲が空を覆っていた。だから、俺はプールバッグと体育用具一式のどちらもリュックサックに入れ、持ってきた。もし天気が崩れれば、水泳は中止となり、授業は体育館での活動に変更となる。備えあれば憂いなし、だ。結果として、その選択は正解だった。朝、三河が教室に顔を出し、「4限目の水泳を実施するかは、昼に判断するからな。昼休みに報告しに来る。もちろんお前らは体育着も準備してるよな?」と言ったのだ。三河が去った後、「持ってないよお」と嘆く数人のクラスメイトを尻目に、俺は悦に入った。
 しかし、肝心の昼休み、俺は完全に寝こけていた。弁当を早々に食べ終わると、眠気に抗うことなく、机に突っ伏してすぐに寝てしまった。三河が来る前に。3限目が国語だったせいか、与謝野晶子が『たけくらべ』を朗読しながら担いだバズーカ砲を打ち込んでくる夢を見た。一度バズーカが至近距離で着弾し、轟音にしばらく逃げ惑ったが、ふと『たけくらべ』は樋口一葉だと気づき、目が覚めた。そして、今に至る。
 睡魔に負けた自分がこの上なく憎たらしい。なぜ、なぜ寝てしまったんだ。三河の報告を聞かなきゃいけなかったのに。
 そう、三河の報告を聞かなければならなかった。もう少し早く起きていれば、聞いていなくてもよかった。しかし、今の状況では、時間が無くなってしまった。2分半では、プールと体育館のどちらかしか行けない。
 プールと体育館は、どちらも体育棟にある。ここの教室からは、廊下を数十メートル行った先を折れ、教室棟と体育棟を結ぶ渡り廊下を渡ればいい。プールは体育棟の3階相当の屋上、体育館は1、2階を占めている。ただし、体育館の入り口は1階にしかない。この教室は2階だから、渡り廊下を渡った後、外階段を上がるか下がるかすることになる。
 残り時間は2分強。この限られた時間では、プールに行った後に体育館にも行く、といったことはできない。どちらか1つにしか、行けないのだ。しかし、俺は水泳が決行されるか否か、すなわち授業がプールと体育館のどちらで行われるかを知らない。
 つまり、俺が遅刻しないためには、授業が行われるのはプールか体育館か、当てなければならないのだ。
 そうと決まれば、一刻も早く場所を突き止め、2分で移動し終えてみせる。タイムリミットは、残り2分34秒。


 暗い教室の中で、俺はロッカーを見渡した。プールセットもしくは体育着が残っていないか、と思ったのだ。三河が授業内容を報告すれば、どちらかの荷物は必要なくなる。その不要な荷物を、誰かが置いていってはしないか。
 しかし、そのような荷物は見当たらなかった。俺と同様、1つの鞄などにまとめて入れている人は多い。だから、その鞄ごとどちらの荷物も持っていった人がほとんどだったのだろう。空振りだ。
 5秒ほど使ってしまった。このまま教室でグズグズしていたら、1つの目的地にすら時間内に辿り着けない。リュックサックを担ぐと、俺は走り出した。
 教室の電灯は消えていた。だから、するべきことは教室の施錠のみ。7月ゆえに冷房がついており、よって窓は施錠されている、と思うことにした。防犯の観点からするとよろしくないことではあるが、いちいち窓の鍵をチェックしている時間はない。黒板横にかかっている教室の鍵を引っ掴み、引き戸を乱暴に閉めて、鍵穴に鍵をあてがう。こんな時に限って、上下がさかさまだ。
「ううっ、くそっ」
 どうにか鍵を挿して捻り、抜く。扉がちゃんと施錠されたかの確認もせずに、俺は廊下を走り出した。鍵はズボンのポケットに突っ込む。
 走りながら横の窓の外を見た。雷や大雨となっていれば、水泳は中止された可能性が高い。しかし、空は朝と変わらず、暗雲が立ちこめているだけだった。太陽光は完全に遮られ、夜かと見紛うほど暗い。雨が降っていれば、向かいの山の電波塔が煙って見えなくなる。だが、窓ガラスの向こうの灰色の塔は、黒々とした雲をバックに、鉄の骨組みまでくっきりと見えた。雷も鳴っていない。ただ、こちら側から吹く風に、植わった木々が揺れているだけだった。天気は崩れていない。プールが決行された方に1ポイント。
 実は、水泳の授業は遅れぎみなのだ。前々回も悪天候で中止になり、スケジュールが押している。だから、三河は多少の天候不順なら水泳を決行する可能性が高い。この事実もプール説を補強する。
 だが……俺が眠っている間に急速に天気が悪くなり、また回復した可能性も否定できない。もしそうならば、今の天候は小康状態であり、いつまた崩れるか判らないということになる。ならば、三河は水泳の中止を決断するだろう。三河は自らの保身、ひいては生徒の安全を優先する。彼はそういう人間だし、体育教師とはそういう職業だろう。いや偏見だが。俺は走るコースを窓際に寄せ、横目で地面を見下ろした。もし俺が寝ている間に大雨となっていれば、地面が濡れているなどの痕跡が残っているのではないかと思ったのだ。しかし、外は暗く、地面も黒く見えるだけだった。これでは、地面が濡れているかの判断はつかない。
 俺は諦めて前に向き直った。渡り廊下までの道程はあと半分ほど。タイムリミットは残り2分06秒。リュックサックの中の荷物が、震動でバタバタと鳴っている。ポケットの中の鍵がチャリチャリと耳障りな音をたてる。
 左手前方には、情報教室と教室棟の中央階段とエレベーター。情報教室からは、生徒たちのどこか浮ついたような喧騒が聞こえてきた。なんでもない日常の音なのだろうが、それは俺の神経を逆撫でした。畜生、のほほんと過ごしやがって。俺はこんなに困ってるのに。まったく、どうして誰も起こしてくれなかったんだ? 教室の電気まで消したくせに。


 こんな風に苛ついていたから、注意が散漫になっていたのだろう。情報教室の脇を走り抜け、階段の横を通り過ぎようとしたとき、突如視界に人が現れた。
 その人が驚いてこっちを振り向く様子が、スローモーションのように見えた。松葉杖。それがまず認識したものだった。右足にギプスをはめ、松葉杖をつき、ナップザックを背負っている女生徒。ぶつかりそうになりながら、頭は冷静に状況を分析していた。教室移動のため、階段を下りてきたのか。しかし、松葉杖に不慣れだったのか、バランスを崩し、よろけて廊下に飛び出したのだろう。焦りでこわばった女生徒の顔がこちらを向く。ポニーテールがなびく。ぶつかる……!
 接地する直前の右足を、内側にずらした。バランスが崩れ、体が右へ倒れ込む。右肩がもろに床に衝突し、痛みが走る。次の瞬間、俺の脇腹が女生徒の頭を受け止め、「ぐっ」と喉が鳴った。呼吸が一瞬止まる。全力疾走していたため、転んだ後も体は前方へ少し滑ったが、すぐに止まった。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか⁈」
「うっ、はい、なんとか……。そちらこそ、怪我は?」
「あなたが下敷きになったおかげで、どうにか……」
 俺は脇腹の痛みを顔に出さず、女生徒を助け起こした。まあ、女生徒が頭を打っていれば、命に関わったかもしれない。それを救ったのだ。多少の疼痛くらい、代償としては軽い。
 どうやら、女生徒に怪我はなく、松葉杖にも損傷はないようだ。俺は介助を提案したが、目的地の情報教室は目と鼻の先なので、と女生徒は慇懃に断った。互いにペコペコ謝って、俺は再出発した。脇腹を押さえ、また走り出す。思わぬ事故で、時間を食ってしまった。残り、1分28秒。


 エレベーターの前を駆け抜ける。ここの自治体は割と裕福で、沢渡高校の設備も、その恩恵を受けている。だから、ただの公立高校に、エレベーターなんてものがある。だが、今は教室棟の昇り降りの必要はない。エレベーターじゃなくて動く歩道が欲しかった。目線はまっすぐ、渡り廊下への曲がり角に向けている。
 スピードを落とさないまま、俺は思いっきり体を右に傾けた。右手を床につけ、膝に負荷をかけながら、足を回す。上履きがキュキュッと甲高い音をたてる。壁にぶつかりそうになりながら、どうにか90度のカーブを曲がりきった。高揚感に全身が包まれる。F1レーサーも真っ青のコーナリングだったぜ。残り、1分15秒。
 そのまま渡り廊下を突っ走る。渡り廊下とはいえ、屋根も壁もある。長さはおよそ30メートル。突き当たりには、体育棟の階段がある。疲労した脚に鞭打って、更に速度を上げる。窓のない、暗い廊下を階段に向かって走っていると、いつもの学校じゃない場所にいるような、不思議な気分になった。
 首を振ってそんな感慨を追い払う。決断の時が迫っている。階段到達まで、5秒もないだろう。行くべき場所は、プールか体育館か。階段を上るべきか、下るべきか。残り、1分07秒。
 考える間もなく、階段の踊り場に着いていた。息が弾み、肩が上下する。
 二者択一。どっちだ? 体育が行われているのは、行くべき場所は、進むべき方向は、どっちだ?
 決断は、速かった。考えず、運に任せる。それが俺の選択だった。
 三河の報告を聞き逃した時点で、俺に正答を導ける方法など残されていなかったのだ。どっちを選んでも、確率は二分の一。いや、天気が崩れていない以上、水泳が決行された可能性が僅かに高いか。人事を尽くして天命を待つ。あとは天に祈るしかない。
 残り1分00秒。俺は、意を決して、階段を上る一段目に足をかけた。



 ──違和感
 感じたのは、それだった。何か、重大なことを見落としているような、違和感。目の前に横たわっているのに、寝ぼけて気づけていないような違和感。
 足が、止まる。さっき決したはずの心が、揺らいでいる。何か見落としている。何か、何か……。
 ──松葉杖
 掴みかけた。今、確かに、違和感の正体を掴みかけた。体中がじんわりと温かくなる。もう少し! もう少しで判る! 何だ? 松葉杖がどうしたんだ? 今掴みかけたものは、何だ?
 俺は頭を抱えて蹲った。何か見落としていると、本能が、無意識が、深層心理が告げている。早く気づけと叫んでいる。何だ? 何を見落とした? 掴むべきものは、何だ?
 時計の針がカチッカチッと進んでいく。残り49秒、48秒、47秒……。このままでは、1つの目的地にすら辿り着けない。だが、無策に走り出すことを、頭が拒んでいる。まだ人事を尽くしきっていないのだと訴えている。
 勘違いかもしれない。思い込みかもしれない。でも、捨てきれない。何だ? 何を見落とした?
 ロッカー、鍵、窓の外……。43秒。
 電波塔、木々、風……。42秒。
 情報教室、松葉杖、階段……。41秒。
 エレベーター、曲がり角、渡り廊下……。40秒。
 松葉杖、松葉杖、さっき俺は松葉杖に何を感じたんだ? 何を掴みかけたんだ? 39秒。
 松葉杖、松葉杖、松葉杖……。階段


 ──掴んだ。


 残り36秒、考えるより先に、俺は矢のように走り出した。掴んだものを離さないうちに、頭の中で反芻する。
 なぜ松葉杖をついた女生徒は階段を下りてきたのか? すなわち、なぜ松葉杖をついた女生徒はエレベーターを使わなかったのか
 足にギプスをはめた彼女にとって、階段を下りるのは相当な難事だっただろう。転げ落ちるリスクもあるし、現に彼女はこけている。手助けしてくれる人もいなかったし、情報教室はエレベーターとも近い。エレベーターが使用中だったとしても、急いで危険な階段を使うよりは、普通エレベーターを待つだろう。なのに、なぜ? 簡単だ。使わなかったのではなく、使えなかったのだ
 残り24秒。階段を2段飛ばしで駆ける。
 疑問は、それだけではない。教室を出て、廊下の外を見たとき。外は夜かと見紛うほど暗かったのにどうして電波塔がくっきりと見えた? 内側より外側が暗いと、ガラスは鏡のように、内側からの光を反射する。なのに、なぜ覗き込む俺の顔は映らず、外がはっきり見えた? それは、室内が室外と同じくらい暗かったから
 教室の電灯は消えていた。いつもと違う感覚を覚えたのも、渡り廊下がいつもより暗かったからではないか? 廊下の電灯はすべて消えていたのではないか? エレベーターのランプも、点いていなかったのではないか?
 これらの状況証拠から導かれる推論はこうだ。
 沢渡高校は停電している
 残り17秒。足が滑り、危うく段を踏み外しそうになるが、すぐに走り出す。
 生徒たちが妙に騒がしかったのも、停電という非日常な状態ゆえではないか? なら、なぜ停電しているのか。原因は判らない。だが、今の天気からすると…… 雷が落ちた可能性はないだろうか
 落雷で、ブレーカーが落ちたか、近くの電線が切れたか。そうして今ここは停電しているのではないか? 夢で聞いたバズーカの轟音。それが、実は雷が落ちる音だったのではないか?
 残り9秒。階段が終わり、目的地はすぐそこ。乱れた息を整えることもせず、最後の力を振り絞って走る。
 もしそうなら、もし停電するほどの雷が近くに落ちたのなら。
 プールが決行されるわけがない
 確証はない。仮定に仮定を積み重ねた空論だ。でも。
 残り3秒。扉に手をかける。
 体育館で授業が行われる確率は、二分の一よりも高いのではないか?
 人事は、尽くした。
 残り1秒。俺は体育館の扉を、勢いよく開けた。



 突如、体育館内が明るくなった。眩しさに俺は思わず目をつぶる。そして、同時に授業開始のチャイムが鳴り響いた。
「点いたあ!」
「直ったのか、停電」
「眩しくて目開けられねえっ」
「おおっ、柏原、ギリセーじゃん」
 中には、クラスメイトが皆、並んで座っていた。点灯した天井のライトを見て、騒いでいる。
 当たったのだ。俺は、二者択一を当てたのだ。
 安堵と高揚が同時に押し寄せ、力が抜けた。体育館の床に、へたり込む。ところが、一息つく間もなく、野太い三河の声が飛んできた。
「おい柏原、お前どうして制服なんだ!」
「すみません、着替えてきます!」
「まだ停電が全面復旧したとは限らん。気をつけろよ」
 三河の怒鳴り声でさえも、いつもより優しいように思えた。俺は更衣室へと駆け出した。息は切れ、節々が痛むのに、なぜか心地よい。
 ポケットの鍵が、澄んだ音をたてた。