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6/6 喜びの叫び「きゃああああああああああああ」
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(6/6 喜びの叫び「きゃああああああああああああ」)
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 アーギリ教を信じることが「善」じゃないって言いたいのかしら!
 アーギリ教を信じることが「善」じゃないって言いたいのかしら!


 たぶん、アーギリ教徒とあいつらでは、生と死の考え方が真逆なんでしょうね。私にはあいつらの考えがちっとも理解できないけど。だって普通に考えたら分かるでしょ、死んだら完全な安らぎがもたらされるのに比べて、一度産まれてしまったら死ぬまで――痛みや苦しみによって死ぬその時まで――生きていなければならないのよ!?
 たぶん、アーギリ教徒とあいつらでは、生と死の考え方が真逆なんでしょうね。あたしにはあいつらの考えがちっとも理解できないけど。だって普通に考えたら分かるでしょ、死んだら完全な安らぎがもたらされるのに比べて、一度産まれてしまったら死ぬまで――痛みや苦しみによって死ぬその時まで――生きていなければならないのよ!?


 友達にももう苦しい思いをしてほしくなかったから、こっそり毒キノコを食事に混ぜたの。私は糾弾されたわ。「彼らはそんなこと望まなかった!」って。でもその論理に基づくなら、自殺志願者を止めることも同じくらい駄目なんじゃないの? 彼らの自己決定権は、どうして尊重されないの? 「自殺は他の人の迷惑にもなるし、何より取り返しがつかない」なんてのもまた、あいつら固有の宗教的な考えに過ぎないじゃない。
 友達にももう苦しい思いをしてほしくなかったから、こっそり毒キノコを食事に混ぜたの。あたしは糾弾されたわ。「彼らはそんなこと望まなかった!」って。でもその論理に基づくなら、自殺志願者を止めることも同じくらい駄目なんじゃないの? 彼らの自己決定権は、どうして尊重されないの? 「自殺は他の人の迷惑にもなるし、何より取り返しがつかない」なんてのもまた、あいつら固有の宗教的な考えに過ぎないじゃない。


 私にとって、自殺を止めるっていうのは……あいつらの常識で言えば、ちょうど「妊婦を殴る」くらいかしら。「自殺は迷惑」っていうのは、「出産は迷惑」に置き換えられるのでしょうね。言ってて全然「ひどさ」がピンとこないけど。「取り返しがつかない」っていうのも、そりゃあそれが目的ですからね、としか言いようがない。全然理解できないわ。
 あたしにとって、自殺を止めるっていうのは……あいつらの常識で言えば、ちょうど「妊婦を殴る」くらいかしら。「自殺は迷惑」っていうのは、「出産は迷惑」に置き換えられるのでしょうね。言ってて全然「ひどさ」がピンとこないけど。「取り返しがつかない」っていうのも、そりゃあそれが目的ですからね、としか言いようがない。全然理解できないわ。


 ……もしかしたらあいつらは私を、あるいはアーギリ教を、狂気の沙汰だと思ってるのかもしれない。ただ、私の故郷ではまったく逆。狂人はあいつらよ。結局「善」なんて、その辺で一番支持者が多いっていう特徴があるだけのただの一価値観に過ぎないじゃない。私はあまりにも違う文化圏で育ったから分からないけれど、もしかしたらこの国にも、私とはまた別の理由で「自殺しようとしている人を止めるのはおかしい」って思ってる人がいるかもしれない。
 ……もしかしたらあいつらはあたしを、あるいはアーギリ教を、狂気の沙汰だと思ってるのかもしれない。ただ、あたしの故郷ではまったく逆。狂人はあいつらよ。結局「善」なんて、その辺で一番支持者が多いっていう特徴があるだけのただの一価値観に過ぎないじゃない。あたしはあまりにも違う文化圏で育ったから分からないけれど、もしかしたらこの国にも、あたしとはまた別の理由で「自殺しようとしている人を止めるのはおかしい」って思ってる人がいるかもしれない。


 周りの人によって「善」が変わるなら、あいつらが尊ぶ「善」の正当性はどこにあるのかしら? やっぱりあいつら、全然理解できないわ。
 周りの人によって「善」が変わるなら、あいつらが尊ぶ「善」の正当性はどこにあるのかしら? やっぱりあいつら、全然理解できないわ。


 そういえば、逮捕される時の私の「無抵抗です」のハンドサインも、何やら侮辱と捉えられたみたいだし。常識がまるっきり違う人を相手にしたら、価値観なんて脆いものね。
 そういえば、逮捕される時のあたしの「無抵抗です」のハンドサインも、何やら侮辱と捉えられたみたいだし。常識がまるっきり違う人を相手にしたら、価値観なんて脆いものね。


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 そこは刑務所というところだった。わたしはここで、ちょうど「囚人番号249番」――「暗記」の彼と同じように、「善」とは素晴らしいものだということに気づいた。「善」について、いろいろ考えた。いい気もちだった。しかし考えれば考えるほど、「善」は色褪せていった。「善」とは何か、分からなくなった。「善」なんて無いのかもしれない、そう思った。
 そこは刑務所というところだった。わたしはここで、ちょうど「囚人番号249番」――「暗記」の彼と同じように、「善」とは素晴らしいものだということに気づいた。「善」について、いろいろ考えた。いい気もちだった。しかし考えれば考えるほど、「善」は色褪せていった。「善」とは何か、分からなくなった。「善」なんて無いのかもしれない、そう思った。


 なんせ、全員を幸せにするような理想的な「善」は、存在しえないらしいのだ。トロッコ問題なんて最たる例だ。あの一分の隙も無くモデル化された命の選択に関われば最後、もうそれは「善」ではなくなってしまう。理想的で完全な「善」は、フィクションの世界の「めでたしめでたし」にしか存在しないのだ。そこまで考えて、気づいた。ならばその「フィクション」を作ればいい。
 なんせ、全員を幸せにするような理想的な「善」は、存在しえないらしいのだ。トロッコ問題なんて最たる例だ。あの一分の隙も無くモデル化された命の選択に関われば最後、もうそれは「善」ではなくなってしまう。理想的で完全な「善」は、フィクションの世界の「めでたしめでたし」にしか存在しないのだ。そこまで考えて、気づいた。ならばその「フィクション」を創ればいい。


 こういうわけで、私は小説を書き始めた。どうやって書けばいいのかよく知らなかったが、とりあえず最初に物語に登場する要素を説明した。その後、実況中継風の二人の人物の会話を通じて、数人の犯罪者を登場させた。展開に併せて、彼らの内面を描写した。私は死刑になるらしいから、そういう私が恐ろしく思う考えも書いた。後で使うからだ。そして今、私を投影した人物に、私を代弁してもらっているのだ。
 こういうわけで、私は小説を書き始めた。どうやって書けばいいのかよく知らなかったが、とりあえず最初に物語に登場する要素を説明した。その後、実況中継風の二人の人物の会話を通じて、数人の犯罪者を登場させた。展開に併せて、彼らの内面を描写した。私は死刑になるらしいから、そういう私が恐ろしく思う考えも書いた。後で使うからだ。そして今、私を投影した人物に、私を代弁してもらっているのだ。
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 わたしも早くそこへ行きたい。
 わたしも早くそこへ行きたい。
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<big>解説 キュアラプラプ</big>
 「いったい何が『善人しか出てこない話』だ」という指摘はもっともだ。しかし、作者・西尾彰は、何故このような奇妙な短篇を獄中にて書き上げ、そして自殺するまでに至ったのだろうか。そこを考えることで、どうしてこれが「善人しか出てこない話」であるのか、真相に近づけるとは思わないだろうか。私としてはだが、おそらくそこには「善人」への強い憧憬と、その自己矛盾性による葛藤があったのだろうと考えている。
 西尾は、端的に言えば、善人になりたかったのだ。死刑を控えるだけの身であった彼は、善人となることで、自身を救いたいと思うようになったのだろう。そして「善」とは何か、突き詰めて考えるにつれ、このような結論に至ったのだ。「完全な善」それそのものと規定されたものを用いて、自分の世界の中で完全に受け入れられる行為をし、それを「完全な善行」として、それを行った自分は「完全な善人」であるとするという考えだ。
 死刑囚という彼の立場から考えると残酷なものでしかない「今上善人王」という登場人物の意見も、後から撤回させ、捻じ曲げ、自分に都合のいいように『する』ためだけに創られたのだ。つまり、悪人だったものも善人になれるという自己弁護だ。これは、タイトルの変更の意図とも一致する。「悪人が更生して善人になった」という構図を強調するものだ。
 はっきり言って、これは非常に馬鹿馬鹿しい論理だ。西尾の言う「善」は、彼の世界の中で完結した、極めて自己中心的なものに過ぎない。他者との関わりというものの一切が欠如した、完全なる机上の空論であり、「ごっこ遊び」だ。それに、彼は自分の被害者性さえ誇張して書いている。彼が虐待を受けて育ったというのは否定できることではないが、あそこまでの仕打ちを受けていた事実はないし、西尾は高校を卒業してから典型的な「ひきこもり」として親に寄生していた。
 おそらく父がナイフで彼を殺そうとしたというのは真実なのだろうが、全体を通してあれはあまりにも西尾に都合がいいように改変されたストーリーのでっちあげだろう。そもそも、数十年間も小屋に閉じ込められ、残飯を食わされていたような人間がいたとして、そいつに大量殺人ができるほどの運動能力など期待できないはずだ。
 しかし、西尾はこの事実――この「馬鹿馬鹿しさ」――をよく分かっていたのだと思う。それを分かったうえで、ある種露悪的に、この「善人しか出てこない話」の中に自身にとってのユートピアを希求したのだ。善人になろうともがげばもがくほど、「善」への希望は壊れ、歪んでいった。その終着点として生まれたのが架空の「善」であっても、もはやその架空性を高尚なものとみなす他なかったのだ。さもなければ、西尾の「善」という宗教は崩壊し、死刑という恐ろしい未来の不安から逃れられなくなる。
 ただそれすらも、彼は壊してしまった。最後の「わたし」は、囚人番号357番ではなく、西尾彰だ。この物語は、最後の最後で「善人しか出てこない話」ではなくなってしまったのだ。これは、西尾自身は彼の世界に完結した存在でないために、登場人物たちのような「善人」ではありえないという意味でもあるし、架空の「善」、架空の「善人しか出てこない話」という理想郷に、自身の憧憬という現実をあてることで、その絶対性のルーツを毀損して「完全な善」を揺るがしてしまったという意味でもある。
 とにかく、もう西尾は、どうしようもないような状況であったのだろう。自身の拠り所であった完全に純粋で美しい「善」の素晴らしさへの希望は、それを求めれば求めるほど形を崩していき、しまいには姿を消してしまった。「フィクションの世界の『めでたしめでたし』」を創ろうとして、結局文章の最後に書かれたのは「めでたしめでたし」ではなく「わたしも早くそこへ行きたい」だ。この苦悩で、彼は自殺を決意したのだろうか。
 あるいは、逆にこう考えることもできる――つまり西尾は、その自殺をもって「完全な善人」になった。先に述べた通り、当然だが西尾自身は彼の世界に完結した存在ではない。彼はその肉体をもって、空間的な広がりを占めている、現実の存在としての側面を持っているからだ。……ならば、その側面を捨ててしまえばいいだけの話なのではないか?
 我々にはそれを知る手段こそ無いが、もしも死後の人間にも意識のようなものがあるとするなら、こうして西尾は彼の閉じた世界に還元され、架空の、馬鹿馬鹿しい「完全な善人」に、自分が規定したその通りの存在になったといえるだろう。私は、この作品の結末はこっちなのだろうと思う。「わたし」の侵入によって「善人しか出てこない話」が壊れるとするならば、西尾が一貫して持つ憧憬のために、最初のパラグラフに出てくる「わたし」の時点でそれは発生しているはずだからだ。
 それに、これはこの「解説」の論理性を毀損するような馬鹿げた理由なのだが、この作品は――真なる「善」を狂気的に求めた死刑囚・西尾彰の処女作にして遺作でもあるこの作品は――真に「善人しか出てこない話」であった方が、美しいではないか。
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