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 赤毛の子供には、もはや自分がどこかに向かって進んでいるという感覚はなかった。ただ手足を振り回し、するどい岩が複雑に張り巡らされている空間を辛うじてくぐりぬけている。それほどの暗さだった。その疲労と狭窄的な熱中とで、すでに末端の神経は麻痺しており、さらにここには血中の赤を人の目に映し出す光さえなかったから、体のあちこちにできている切り傷は、光が差してはじめて見えてくるだろうその醜い見た目に反して、引き裂くような痛みを感じさせることはなかった。その子供は、奥から聞こえる声の方向に向かって、一連の動作をただ繰り返すだけだった。声は洞窟の内部で何重にも絡まっていたから、実際のところその発信源を特定することはできなかったが、とにかくその子供は洞窟の奥に向かって体を這いずらせ続けた。幸いにも、この洞窟は一本道だった。だから、子供は正しい道を進んだことになった。蛍とすれ違ったとき、その細々とした光で、子供は初めて洞窟の奥の景色をとらえた。それは洞窟といっても、地中にくり抜かれた円柱様の領域のような生易しいものではなく、まさしく炎症を起こした牛の消化管のように、暴力的に密なものであった。それも、海から押し寄せる波がその硬い材質を磨き上げ、その境界を世界にむき出しにぴんと張ってしまった、廃材置き場にあるにふさわしい包丁と砂鉄のげてものだった。
 赤毛の子供には、もはや自分がどこかに向かって進んでいるという感覚はなかった。ただ手足を振り回し、するどい岩が複雑に張り巡らされている空間を辛うじてくぐりぬけている。それほどの暗さだった。その疲労と狭窄的な熱中とで、すでに末端の神経は麻痺しており、さらにここには血中の赤を人の目に映し出す光さえなかったから、体のあちこちにできている切り傷は、光が差してはじめて見えてくるだろうその醜い見た目に反して、引き裂くような痛みを感じさせることはなかった。その子供は、奥から聞こえる声の方向に向かって、一連の動作をただ繰り返すだけだった。声は洞窟の内部で何重にも絡まっていたから、実際のところその発信源を特定することはできなかったが、とにかくその子供は洞窟の奥に向かって体を這いずらせ続けた。幸いにも、この洞窟は一本道だった。だから、子供は正しい道を進んだことになった。蛍とすれ違ったとき、その細々とした光で、子供は初めて洞窟の奥の景色をとらえた。それは洞窟といっても、地中にくり抜かれた円柱様の領域のような生易しいものではなく、まさしく炎症を起こした牛の消化管のように、暴力的に密なものであった。それも、海から押し寄せる波がその硬い材質を磨き上げ、その境界を世界にむき出しにぴんと張ってしまった、廃材置き場にあるにふさわしい包丁と砂鉄のげてものだった。


 自分の存在を見失わないように、大きな息に意味を乗せ、大きな声を出し続ける。赤毛の子供は、奥で泣きわめく声をあげているのが、しばらく前に森で出会ったあの黒髪の子供であることを、まさにその声をもって理解していた。赤毛の子供のいる村落は、古くから排外主義的なルールを掲げていたから、見たことのない人に出会って初めはとまどってしまったものだった。黒髪の子供は、うず高くもつれた重い緑の蔦の網目と、冷たい土や枝のステージの上で、わけのわからぬ言葉で歌っていた。それは赤毛の子供の集落では話されない言葉だったから、その声の意味はまったく知れなかったのだ。ただ確かなのは、その声がそれ自体で持つ美しさだった。幹まで緑色をした木々の間を、角度をもって走り抜けていく日光が、木の葉のノイズとともに歌う子供の輪郭を逆光をして描き出し、同時にその黒髪に吸い込まれていった。つやもはりもない、ただ一様に単色にみえる黒だった。そのうち黒髪の子供は赤毛の子供を見つけると、すぐに走り去ってしまった。しかしその次の日、赤毛の子供が同じ場所に行くと、やはり美しい歌が聞こえた。だからその日は、赤毛の子供も歌った。古い記憶の、子守歌を歌った。黒髪の子供はただ目を閉じて聴いた。
 自分の存在を見失わないように、大きな息に意味を乗せ、大きな声を出し続ける。赤毛の子供は、奥で泣きわめく声をあげているのが、しばらく前に森で出会ったあの黒髪の子供であることを、まさにその声をもって理解していた。赤毛の子供のいる村落は、古くから排外主義的なルールを掲げていたから、見たことのない人に出会って初めはとまどってしまったものだった。黒髪の子供は、うず高くもつれた重い緑の蔦の網目と、冷たい土や枝のステージの上で、わけのわからない言葉で歌っていた。それは赤毛の子供の集落では話されない言葉だったから、その声の意味はまったく知れなかったのだ。ただ確かなのは、その声がそれ自体で持つ美しさだった。幹まで緑色をした木々の間を、角度をもって走り抜けていく日光が、木の葉のノイズとともに歌う子供の輪郭を逆光をして描き出し、同時にその黒髪に吸い込まれていった。つやもはりもない、ただ一様に単色にみえる黒だった。そのうち黒髪の子供は赤毛の子供を見つけると、すぐに走り去ってしまった。しかしその次の日、赤毛の子供が同じ場所に行くと、やはり美しい歌が聞こえた。だからその日は、赤毛の子供も歌った。古い記憶の、子守歌を歌った。黒髪の子供はただ目を閉じて聴いた。


 それから毎日、彼らはそこで共に語り合った。互いにわけのわからぬ言葉で語り合った。しかし、まさにこの日、黒髪の子供は現れなかったのだ。だから赤毛の子供は、そこら中を歩き回って捜した。そして、海のすぐそばの、あの洞窟から、声がするのを発見した。間違いなく、あの子供の声だった。その声の美しさは、旋律を離れてただの悲鳴にようになっていてさえ、どうやら曇らないらしい。この洞窟に入ることは、村の大人たちによって固く禁じられていた。暗くて何も見えないばかりか、すぐそばの海から岩の切れ目を体をねじ込ませて上がってくる水が、ときどき洞窟を脱出不能の水底に沈めてしまうことがあったからだ。しかし、この子供には、洞窟からかすかに聞こえる声を放っておくことができなかった。黒髪の子供は、その声に何か意味を込めている。その意味はやはり分からないが、何か意味を込めていることは確かだ。行かなければならない。そう思った。そして、今も赤毛の子供は、重く暗い岩の隙間にその小さい体をねじ込んで、進んでいる。ついに、いままで洞窟全体の調べだったあの声は、その発信源からまっすぐ届くようになり、よりいっそう激しくなったような気がする。それを知覚した瞬間、赤毛の子供は腰の抜ける浮遊感を覚え、そのまま足を滑らせて地底湖に落下した。鳥肌が立つような声がせりあがってきた。
 それから毎日、彼らはそこで共に語り合った。互いにわけのわからない言葉で語り合った。しかし、まさにこの日、黒髪の子供は現れなかったのだ。だから赤毛の子供は、そこら中を歩き回って捜した。そして、海のすぐそばの、あの洞窟から、声がするのを発見した。間違いなく、あの子供の声だった。その声の美しさは、旋律を離れてただの悲鳴にようになっていてさえ、どうやら曇らないらしい。この洞窟に入ることは、村の大人たちによって固く禁じられていた。暗くて何も見えないばかりか、すぐそばの海から岩の切れ目を体をねじ込ませて上がってくる水が、ときどき洞窟を脱出不能の水底に沈めてしまうことがあったからだ。しかし、この子供には、洞窟からかすかに聞こえる声を放っておくことができなかった。黒髪の子供は、その声に何か意味を込めている。その意味はやはり分からないが、何か意味を込めていることは確かだ。行くことができるのは自分だけだと思った。行かなければならない、そう思った。きっと助けなければならないと思った。そして、今も赤毛の子供は、重く暗い岩の隙間にその小さい体をねじ込んで、進んでいる。いままで洞窟全体の調べだったあの声は、ついにその発信源からまっすぐ届きはじめたが、しかし最初の叫びよりもいくぶんか弱々しいように聞こえる。それを知覚した瞬間、赤毛の子供は腰の抜ける浮遊感を覚え、そのまま足を滑らせて地底湖に落下した。鳥肌が立つような声がせりあがってきた。


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 黒髪の子供の全身は、顎から指先に至るまでがちがちと震えていた。それはこの世界から隔絶された地底湖に何時間も閉じ込められていたゆえの眠気にも似た寒さと、そこにあの赤毛の子供をみすみす招いてしまったゆえの目が覚めるような絶望を理由としていた。黒髪の子供
 黒髪の子供の全身は、顎から指先に至るまでがちがちと震えていた。それは、この世界から隔絶された地底湖に何時間も閉じ込められていたゆえの眠気にも似た寒さと、そこにあの赤毛の子供をみすみす招いてしまったゆえの目が覚めるような絶望を理由としていた。最初は腰のあたりだった真っ暗な水面は、既に喉元にまで達していた。この子供は最初、ただ面白がって洞窟を覗いていただけだった。間抜けに大口をひらいている暗闇の喉をひそひそと歩き、光がなくなったら引き返そう、それまで少し進んでみようと思っていた。そこに飛来した思いがけない来客が、あの蛍だった。この美しくかわいらしい光が、黒髪の子供には太陽の光も同然のように思えていたと知ったら、蛍は不機嫌になるかもしれない。ともかく、気づいた時には、黒髪の子供は洞窟を出ることができなくなっていた。帰り道は、もはや帰るにはあまりに暗すぎたのだ。この子供は赤毛の子供のように暗闇に挑む無鉄砲さを持ち合わせていなかったから、この蛍の繊細なダンスだけが唯一の命綱だった。希薄でか細い命綱の後を、決して見失わないように、凶悪な牙にすりつぶされかけながら、必死で追いかけた。こうして、暗闇に潜む地中の小さな崖に足をとられ、二秒間ほど自由落下し、胃袋のようなあの地底湖に飲み込まれた。
 
 
 


 叫んだ。恐ろしかった。絶対的な黒に神経を塗りつぶされて、頭がおかしくなりそうだった。叫んだ。叫んで、叫び返されて、気づいた。赤毛の子供だ。あの、森で出会った、赤毛の美しい子供が、ここに来ている。明確に、それはただ、無謀だった。大人が何人で来ようとも、この鈍い針山の道をくぐり抜け、深く広がる地中湖から高く真っ暗な岸に人間一人を引き揚げることはできなかった。だから、黒髪の子供はそこからはこう叫んだ――「来ないで!」。しかし、赤毛の子供がこの意味を理解するはずはなかった。だから黒髪の子供は、怒ったように叫んだ――「来ないで!」。それにも構わず赤毛の子供の声は近づいてくる。次第に懇願するように、こう叫んだ――「来ないで!」。それから、赤毛の子供が足を滑らせた一秒後、暗い水面がえぐられ、圧縮された空気が水の層を引き剥がして破裂させる音がした後、うめくように叫んだ。石臼をゆっくり回したような、木の棒を濡れた砂浜にじりじりと挿し込むような、わけのわからない声だった。あるいは声というよりもむしろ、それはひどく感情的なだけの呼吸だった。




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