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 深夜0時57分、川上功大は隣家のインターホンを押した。理由は、住人の森金吾を殺すためである。
 深夜0時57分、川上功大は隣家のインターホンを押した。理由は、住人の森金吾を殺すためである。
<br> 1ヶ月前、この家に森が引っ越してきた。挨拶に来た森の顔を見たとき、俺は戦慄した。忘れもしない、中学の時俺を虐めていた奴だったからだ。だがそれ以上に恐ろしかったのは、森が俺の顔はおろか名前すら覚えていないことだった。
<br> 1ヶ月前、この家に森が引っ越してきた。挨拶に来た森の顔を見たとき、俺は戦慄した。忘れもしない、中学のとき俺をいじめていた奴だったからだ。だがそれ以上に恐ろしかったのは、森が俺の名前はおろか顔すら覚えていないことだった。
<br> 俺を元同級生とは露知らず、森は順風満帆な近況を得意げに語った。小さなIT会社を設立し、経営が軌道に乗り始めたのだと。俺に水を掛け、靴を隠し、腹を蹴ったこいつが、キラキラした面でキラキラした生活を送ってやがる。俺は毎日ボロ工場で汗みずくになりながら働いているのに。
<br> 俺を元同級生とは露知らず、森は順風満帆な近況を得意げに語った。小さなIT会社を設立し、経営が軌道に乗り始めたのだと。俺に水をかけ、靴を隠し、腹を蹴ったこいつが、キラキラした面でキラキラした生活を送ってやがる。俺は毎日ボロ工場で汗みずくになりながら働いているのに。
<br> 許せない。
<br> 許せない。
<br> 殺意はむくむくと膨れ上がっていった。俺は森を殺す計画を立て、準備を整えてきた。そして今夜、実行する。
<br> 殺意はむくむくと膨れ上がっていった。俺は森を殺す計画を立て、準備を整えてきた。そして今夜、実行する。
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<br>「さあ、どうぞ上がって」
<br>「さあ、どうぞ上がって」
<br>「お邪魔します」
<br>「お邪魔します」
<br> この家には昨日──いや、もう一昨日か──にも訪れた。森が挨拶ついでに招いてくれた前回は、茶を飲んで早々に退散したが。
<br> この家には昨日――いや、もう一昨日か――にも訪れた。森が挨拶ついでに招いてくれた前回は、茶を飲んで早々に退散したが。
<br> 森は、薄いTシャツと短パンにスリッパという格好だった。寝間着だろう。ビンゴだ。お前がFacebookで「毎日夜1時丁度に寝る」と投稿していたから、この時間にしたんだ。
<br> 森は、薄いTシャツと短パンにスリッパという格好だった。寝間着だろう。ビンゴだ。お前がFacebookで「毎日夜1時丁度に寝る」と投稿していたから、この時間にしたんだ。
<br> 俺は両手に手袋をしているが、森が俺を怪しむ素振りは無い。俺は靴を脱ぐと、森が差し出した黒いスリッパを履いた。靴箱も、傘立ても、絨毯も、お洒落に揃えやがって。吐き気がする。
<br> 俺は両手に手袋をしているが、森が怪しむ素振りは無い。俺は靴を脱ぐと、森が差し出した黒いスリッパを履いた。靴箱も、傘立ても、絨毯も、お洒落に揃えやがって。吐き気がする。
<br> 森は俺が提げている紙袋に目を留めた。ずっと前に誰かから貰った京都銘菓の袋だ。
<br> 森は俺が提げている紙袋に目を留めた。ずっと前に誰かから貰った京都銘菓の袋だ。
<br>「京都ですか」
<br>「京都ですか」
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<br>「京都ですかあ。中学の修学旅行で行ったきりですねえ」
<br>「京都ですかあ。中学の修学旅行で行ったきりですねえ」
<br> その修学旅行に俺もいたんだがな。廊下の突き当たりにある扉をくぐった。ここが居間だ。
<br> その修学旅行に俺もいたんだがな。廊下の突き当たりにある扉をくぐった。ここが居間だ。
<br>「その時買った木刀はまだ持ってますよ」
<br>「そのとき買った木刀はまだ持ってますよ」
<br> 奥にはカーテンをひかれた、庭に続く窓。右手の扉の向こうが寝室。
<br> 奥にはカーテンをひかれた、庭に続く窓。右手の扉の向こうが寝室。
<br>「あとは清水寺に行ったりね。いやー懐かしいなあ」
<br>「あとは清水寺に行ったりね。いやー懐かしいなあ」
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 ただ殺しただけでは、すぐに疑われてしまう。俺は森の隣人なのだし、中学で同級だったと判れば、一躍最重要容疑者だ。
 ただ殺しただけでは、すぐに疑われてしまう。俺は森の隣人なのだし、中学で同級だったと判れば、一躍最重要容疑者だ。
<br> だから、計画を立てた。俺の計画はシンプル、“居直り強盗の仕業に見せかける”というものだ。森が寝ている時、居間の窓を割って泥棒が侵入してくる。しかし目を覚ました森と鉢合わせ。慌てて刺してしまい、怖くなって何も盗まず逃走、というシナリオだ。
<br> だから、計画を立てた。俺の計画はシンプル、“居直り強盗の仕業に見せかける”というものだ。森が寝ているとき、居間の窓を割って泥棒が侵入してくる。しかし目を覚ました森と鉢合わせ。慌てて刺してしまい、怖くなって何も盗まず逃走、というシナリオだ。
<br> 警察も忙しい。一度強盗の仕業に見えれば、そう結論づけてくれるだろう。
<br> 警察も忙しい。一度強盗の仕業に見えれば、そう結論づけてくれるだろう。
<br> 俺はまず、返り血を浴びていないか確認した。全身を軽く見ていく。どうやら、右の手袋以外は無事のようだ。左手で紙袋からビニール袋を取り出し、両手袋を外してそれに入れる。口をきつく閉じ、ビニール袋をまた紙袋に戻した。入れ替わりに軍手を出し、それを両手にはめる。
<br> 俺はまず、返り血を浴びていないか確認した。全身を軽く見ていく。どうやら、右の手袋以外は無事のようだ。左手で紙袋からビニール袋を取り出し、両手袋を外してそれに入れる。口をきつく閉じ、ビニール袋をまた紙袋に戻した。入れ替わりに軍手を出し、それを両手にはめる。
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 さあ、ここからが本番。今までは、俺という“訪問客”の痕跡を消す作業だった。これからは架空の“侵入者”の痕跡を残す。
 さあ、ここからが本番。今までは、俺という“訪問客”の痕跡を消す作業だった。これからは架空の“侵入者”の痕跡を残す。
<br> カーテンをくぐり、窓を開けた。紙袋から新しい靴を一足出し、それを履いて庭へと出る。靴もナイフも、道具は全て入手ルートを辿れないものを用意した。これらから俺に捜査の手が及ぶ心配は無い。
<br> カーテンをくぐり、窓を開けた。紙袋から新しい靴を一足出し、それを履いて庭へと出る。靴もナイフも、道具は全て入手ルートを辿れないものを用意した。これらから俺に捜査の手が及ぶ心配は無い。
<br> 紙袋を地面に置くと、庭を囲う柵にとりつき、乗り越えた。柵とはいっても、俺の胸くらいしかない。柵の外は小道で、向かい側はだだっ広い田圃になっている。一帯は真っ暗で、この時間に人通りはまず無い。
<br> 紙袋を地面に置くと、庭を囲う柵にとりつき、乗り越えた。柵とはいっても、俺の胸くらいしかない。柵の外は小道で、向かい側はだだっ広い田圃になっている。周辺は真っ暗で、この時間に人通りはまず無い。
<br> 俺は一度深呼吸をした。俺は泥棒。今からこの家に侵入する。よし。
<br> 俺は一度深呼吸をした。俺は泥棒。今からこの家に侵入する。よし。
<br> 柵に手をかけ、体を引き上げる。さっきのように柵を乗り越え、庭に降り立った。ポケットからスマホを取り出し、ライトを点ける。紙袋に入れてあったハンマーを持ち、窓に近づいた。狙うはクレセント錠の付近。手首を素早く振り、ハンマーを打ち付けた。鈍い音がし、僅かに罅が入る。もう少し強く。再度ハンマーを振ると、バリンと拳大の穴が開いた。完璧。
<br> 柵に手をかけ、体を引き上げる。さっきのように柵を乗り越え、庭に降り立った。ポケットからスマホを取り出し、ライトを点ける。紙袋に入れてあったハンマーを持ち、窓に近づいた。狙うはクレセント錠の付近。手首を素早く振り、ハンマーを打ちつけた。鈍い音がし、僅かに罅が入る。もう少し強く。再度ハンマーを振ると、バリンと拳大の穴が開いた。完璧。
<br> ハンマーを仕舞い、穴に手を突っ込む。当然鍵は最初から掛かっていないが、泥棒はこうして窓の鍵を開けるのだ。
<br> ハンマーを仕舞い、穴に手を突っ込む。当然鍵はかかっていないが、泥棒はこうして窓の鍵を開けるのだ。
<br> 窓をそっとスライドさせ、俺は室内に侵入した。日本の警察は優秀だ。こうして土足の足跡を残しておかないと、怪しまれかねない。だが、庭の土は乾いていたし、あまり気にする必要はなさそうだ。
<br> 窓をそっとスライドさせ、俺は室内に侵入した。日本の警察は優秀だ。こうして土足の足跡を残しておかないと、怪しまれかねない。だが、庭の土は乾いていたし、あまり気にする必要はなさそうだ。
<br> ゆっくりと机の近くまで歩み寄った。机の向こう側には森の死体がある。この後、不審な音を聞きつけた森が寝室から出てきて、居間の電気を点ける。そこで森と泥棒は互いを視認する。森は逃げようと廊下への扉に向かうが、泥棒は机の右側を駆け、持っていたナイフで森を正面から刺す。怖気づいた泥棒はそのまま遁走する……。
<br> ゆっくりと机の近くまで歩み寄った。机の向こう側には森の死体がある。この後、不審な音を聞きつけた森が寝室から出てきて、居間の電気を点ける。そこで森と泥棒は互いを視認する。森は逃げようと廊下への扉に向かうが、泥棒は机の右側を駆け、持っていたナイフで森を正面から刺す。怖気づいた泥棒はそのまま遁走する……。
<br> 問題はないか? 俺は注意深く部屋を見渡した。何か不自然な点は……あっ!
<br> 問題はないか? 俺は注意深く部屋を見渡した。何か不自然な点は……あっ!
<br> ──{{傍点|文章=寝室に続くドア}}!
<br> ――寝室に続くドア!
<br> 今、それは{{傍点|文章=閉まっている}}。しかし、侵入者と鉢合わせした状況で、{{傍点|文章=森が丁寧にドアを閉めるわけがない}}。森が寝室に蜻蛉返りせずに玄関を目指すのには、2つの理由がある。1つは寝室のドアに鍵がないこと、もう1つは寝室の窓に格子が嵌まっていることだ。要するに、寝室に戻っても、立て籠ることも逃げることもできないのだ。
<br> 今、それは{{傍点|文章=閉まっている}}。しかし、侵入者と鉢合わせした状況で、{{傍点|文章=森が丁寧にドアを閉めるわけがない}}。森が寝室に蜻蛉返りせずに玄関を目指すのには、2つの理由がある。1つは寝室のドアに鍵がないこと、もう1つは寝室の窓に格子が嵌まっていることだ。要するに、寝室に戻っても、立て籠ることも逃げることもできないのだ。
<br> 俺は机を左から回り、寝室へのドアを慎重に開けた。ついでに中も覗いてみる。恐らく点けっ放しの常夜灯、整えられたシングルベッド、本が1冊乗ったサイドボード。不都合なものは無さそうだ。
<br> 俺は机を左から回り、寝室へのドアを慎重に開けた。ついでに中も覗いてみる。恐らく点けっ放しの常夜灯、整えられたシングルベッド、本が1冊乗ったサイドボード。不都合なものは無さそうだ。
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<br> 最後に、森の蒼白な死に顔を眺めた。その無様な姿に、自然と笑みがこぼれる。
<br> 最後に、森の蒼白な死に顔を眺めた。その無様な姿に、自然と笑みがこぼれる。
<br> 俺の、勝ちだ。
<br> 俺の、勝ちだ。
<br> カーテンを押しよけ、開けっ放しの窓から外に出た。泥棒改め強盗はひどく動揺している。窓は閉めなくていいだろう。夜の冷気が心地よい。
<br> カーテンを押しよけ、開けっ放しの窓から外に出た。泥棒改め殺人犯はひどく動揺している。窓は閉めなくていいだろう。夜の冷気が心地よい。
<br> 紙袋を拾い上げると、俺は柵をまた乗り越えた。毛髪なんかは残っているだろうが、俺は一昨日この家を訪れたのだ。何の問題もない。
<br> 紙袋を拾い上げると、俺は柵をまた乗り越えた。毛髪なんかは残っているだろうが、俺は一昨日この家を訪れたのだ。何の問題もない。
<br> 電気は点いたままで窓は全開、さらに窓は割られてもいるのだ。事件の発覚は早いだろう。だが、俺に辿り着かれさえしなければ、一向に構わない。
<br> 電気は点いたままで窓は全開、さらに窓は割られてもいるのだ。事件の発覚は早いだろう。だが、俺に辿り着かれさえしなければ、一向に構わない。
<br> 靴を履き替え、隣の自宅に戻った。鍵を開けて中に入る。微細な血液が付いているかもしれないから、着ている物を纏めて紙袋に突っ込んだ。そして、紙袋ごと埃だらけの屋根裏に放り込む。これで、家宅捜索でもされない限り、大丈夫だ。これらはほとぼりが冷めた数年後に、少しずつ捨てよう。
<br> 靴を履き替え、隣の自宅に戻った。鍵を開けて中に入る。微細な血液が付いているかもしれないから、着ている服を纏めて紙袋に突っ込んだ。そして、紙袋ごと埃だらけの屋根裏に放り込む。これで、家宅捜索でもされない限り、大丈夫だ。これらは、ほとぼりが冷めた数年後に、少しずつ捨てよう。
<br> シャワーを浴びると、すぐに万年床に潜り込んだ。やっと、難事を成し遂げた達成感が湧いてきた。俺は高揚感に抱かれながらすぐに寝入った。何か楽しい夢を見た気がする。
<br> シャワーを浴びると、すぐに万年床に潜り込んだ。やっと、難事を成し遂げた達成感が湧いてきた。俺は高揚感に抱かれながらすぐに寝入った。何か楽しい夢を見た気がする。




 俺が目を覚ますと、もう昼の11時だった。カーテンの隙間から隣家を見ると、玄関先にパトカーが停まり、何人もの警官が蠢いているのが見えた。想定内。自分でも驚くほど落ち着いている。
 俺が目を覚ますと、もう昼の11時だった。カーテンの隙間から隣家を見ると、玄関先にパトカーが停まり、何人もの警官が蠢いているのが見えた。想定内。自分でも驚くほど落ち着いている。
<br> ブランチを手早く済ませ、身支度をした時、呼び鈴が鳴った。人が殺されたのだ。周辺に聞き込みに来るのは当たり前。ボロさえ出さなきゃいい。
<br> ブランチを手早く済ませ、身支度をしたとき、呼び鈴が鳴った。人が殺されたのだ。周辺に聞き込みに来るのは当たり前。ボロさえ出さなきゃいい。
<br> 玄関を開けると、やはり警官が立っていた。小太りの初老の男と、ひょろりと細長い若い男。どちらも警察手帳を見せて名乗った。階級は、小太りな方が警部補、細長い方が巡査らしい。
<br> 玄関を開けると、やはり警官が立っていた。小太りの初老の男と、ひょろりと細長い若い男。どちらも警察手帳を見せて名乗った。階級は、小太りな方が警部補、細長い方が巡査らしい。
<br>「いやー、突然すみません。川上功大さんで間違いないですか?」
<br>「いやー、突然すみません。川上功大さんで間違いないですか?」
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<br>「どうも、犯人は盗人の犯行に見せかけたかったようなんです」
<br>「どうも、犯人は盗人の犯行に見せかけたかったようなんです」
<br> まずい。最初に浮かんだ感想はそれだった。
<br> まずい。最初に浮かんだ感想はそれだった。
<br> 俺は反射的にコップを引っ掴み、茶を含んだ。落ち着け。決定的な証拠があれば、問答無用で俺をしょっ引いているはず。こうして直接話して、怪しい挙動をしないか見極めているのだ。
<br> 俺は反射的にコップを引っ掴み、茶を含んだ。落ち着け。決定的な証拠があれば、問答無用で俺をしょっぴいているはず。こうして直接話して、怪しい挙動をしないか見極めているのだ。
<br> 戦闘態勢を整えろ。一字一句聞き逃すな。ボロを一切出すな。
<br> 戦闘態勢を整えろ。一字一句聞き逃すな。ボロを一切出すな。
<br> 俺は純粋に驚いたような顔をして、尋ねた。
<br> 俺は純粋に驚いたような顔をして、尋ねた。
130行目: 130行目:
<br>「{{傍点|文章=血痕}}ですよ」
<br>「{{傍点|文章=血痕}}ですよ」
<br>「血痕?」
<br>「血痕?」
<br>「さっき言ったようなことが起こったのなら、当然盗人は{{傍点|文章=森さんを正面から襲ったことになる}}。でも、{{傍点|文章=森さんの傷口から噴き出た血飛沫は}}、{{傍点|文章=綺麗に床に散っていた}}んです」
<br>「さっき言ったようなことが起こったのなら、当然盗人は森さんを正面から襲ったことになる。でも、森さんの傷口から噴き出た血飛沫は、綺麗に床に散っていたんです」
<br> そういうことか! 俺は歯噛みした。
<br> そういうことか! 俺は歯噛みした。
<br>「状況からして、犯人に返り血が当たるはずなのに、血が遮られた形跡が無い。そこは丁度壁と机に挟まれたところで、盗人が血飛沫を横っ跳びに避けたというのも考えづらい。これはおかしい。{{傍点|文章=正面から森さんを襲った盗人なんてのはいなかったんじゃないか}}、と考えられるわけです」
<br>「状況からして、犯人に返り血が当たるはずなのに、血が遮られた形跡が無い。そこは丁度壁と机に挟まれたところで、盗人が血飛沫を横っ跳びに避けたというのも考えづらい。これはおかしい。{{傍点|文章=正面から森さんを襲った盗人なんてのはいなかったんじゃないか}}、と考えられるわけです」
138行目: 138行目:
<br> そこまで言って、俺は戦慄した。慌てて付け加える。
<br> そこまで言って、俺は戦慄した。慌てて付け加える。
<br>「まあ、{{傍点|文章=森さんがどこを刺されたか知らない}}ので、何とも言えないですけど」
<br>「まあ、{{傍点|文章=森さんがどこを刺されたか知らない}}ので、何とも言えないですけど」
<br> 危なかった……。{{傍点|文章=実際俺は森をそのような体勢で殺している}}。{{傍点|文章=これでは}}、{{傍点|文章=現場の状況を知っていますよ}}、{{傍点|文章=と言っているようなもの}}じゃないか。
<br> 危なかった……。実際俺は森をそのような体勢で殺している。これでは、現場の状況を知っていますよ、と言っているようなものじゃないか。
<br> 余計なことは言わないようにせねば。俺が動揺する中、警部補はまた口を開いた。
<br> 余計なことは言わないようにせねば。俺が動揺する中、警部補はまた口を開いた。
<br>「右の肋の下、肝臓の辺りを一突きでしたよ。だから、川上さんの仰るようなこともあり得る。確かに、これだけで決めつけるのは早計でしょうな」
<br>「右の肋の間、肝臓の辺りを一突きでしたよ。だから、川上さんの仰るようなこともあり得る。確かに、これだけで決めつけるのは早計でしょうな」




147行目: 147行目:
<br> まだあるのか? 俺は焦りを覆い隠し、問うた。
<br> まだあるのか? 俺は焦りを覆い隠し、問うた。
<br>「何です?」
<br>「何です?」
<br>「{{傍点|文章=ある物}}が、現場に残されていたんです」
<br>「{{傍点|文章=あるもの}}が、現場に残されていたんです」
<br>「ある物?」
<br>「あるもの?」
<br> 何だ? 遺留品は残さなかったはず。
<br> 何だ? 遺留品は残さなかったはず。
<br> 警部補の返答は、予想外のものだった。
<br> 警部補の返答は、予想外のものだった。
<br>「{{傍点|文章=木刀です}}
<br>「{{傍点|文章=木刀}}です」
<br> 木刀? どこかで聞いたような……。
<br> 木刀? どこかで聞いたような……。
<br> 瞬間、雷のように衝撃が走った。確か、森は「木刀は{{傍点|文章=まだ持ってます}}」と言っていた。なら、どこにあったのだ? 傘立て? いやそんなもの無かった。待て、そもそも木刀をなぜ持っていたんだ?
<br> 瞬間、雷のように衝撃が走った。確か、森は「木刀はまだ持ってます」と言っていた。なら、どこにあったのだ? 傘立て? いやそんなもの無かった。待て、そもそも木刀をなぜ持っていたんだ?
<br> ふと、答えがよぎる。簡単なことだ。
<br> ふと、答えがよぎる。簡単なことだ。
<br> ── {{傍点|文章=護身用}}。
<br> ――護身用。
<br> なら、どこに置く? 玄関ではない。残るは……。
<br> なら、どこに置く? 玄関ではない。残るは……。
<br> ── {{傍点|文章=寝室}}かっ!
<br> ――寝室かっ!
<br> ギリリと奥歯が鳴った。気づいていないのか、警部補は饒舌に喋り続ける。
<br> ギリリと奥歯が鳴った。気づいていないのか、警部補は饒舌に喋り続ける。
<br>「森さんの寝室、ベッドの脇に、恐らく護身用の木刀が置かれていたんです。おかしいですよね? {{傍点|文章=不審な音で目覚め}}、{{傍点|文章=様子を見に行くなら}}、{{傍点|文章=当然木刀は持っていくはず}}。独り身の男として、当たり前の備えですな」
<br>「森さんの寝室、ベッドの脇に、恐らく護身用の木刀が置かれていたんです。おかしいですよね? {{傍点|文章=不審な音で目覚め}}、{{傍点|文章=様子を見に行くなら}}、{{傍点|文章=当然木刀は持っていくはず}}。独り身の男として、当たり前の備えですな」
171行目: 171行目:
<br> 問いかける俺の声は、震えていた気がする。
<br> 問いかける俺の声は、震えていた気がする。
<br>「ルミノール反応が、来客用スリッパから。つまり、スリッパに血が付いていたんです」
<br>「ルミノール反応が、来客用スリッパから。つまり、スリッパに血が付いていたんです」
<br> 俺は愕然とした。必死に記憶を辿る。森を刺し、傷口を押さえていた森の右手がだらりと{{傍点|文章=垂れ下がる}}……。
<br> 俺は愕然とした。必死に記憶を辿る。森を刺し、傷口を押さえていた森の右手がだらりと垂れ下がる……。
<br> ……あの時か!
<br> ……あのときか!
<br> {{傍点|文章=スリッパは黒かった}}。だから、見落としたのか……。
<br> スリッパは黒かった。だから、見落としたのか……。
<br> 警部補は尚も喋り続ける。
<br> 警部補は尚も喋り続ける。
<br>「検査の結果、丁度犯行が為された時間帯に付いた、森さんの血液だと判明しました。スリッパがひとりでに靴箱へ戻るわけもない。つまりこれは、{{傍点|文章=スリッパを履いた来客が森さんを殺した証拠}}なんです」
<br>「検査の結果、丁度犯行が為された時間帯に付いた、森さんの血液だと判明しました。スリッパがひとりでに靴箱へ戻るわけもない。つまりこれは、{{傍点|文章=スリッパを履いた来客が森さんを殺した証拠}}なんです」
182行目: 182行目:
<br> ハッと思わず顔を上げた。そこまで調べがついているのか。想定より、ずっと早い。
<br> ハッと思わず顔を上げた。そこまで調べがついているのか。想定より、ずっと早い。
<br> 警部補は顔に憐憫の情を滲ませた。
<br> 警部補は顔に憐憫の情を滲ませた。
<br>「随分酷く、彼に虐められていたそうじゃないですか」
<br>「随分酷く、彼にいじめられていたそうじゃないですか」
<br> だったら俺は無罪になるか? そんなことはない。
<br> だったら俺は無罪になるか? そんなことはない。
<br>「それを恨んで、俺が森を殺したって言うんですか? 冗談じゃない!」
<br>「それを恨んで、俺が森を殺したって言うんですか? 冗談じゃない!」
191行目: 191行目:
<br> 口から、得体の知れない息が漏れた。
<br> 口から、得体の知れない息が漏れた。
<br> そうか、そうだったのか。
<br> そうか、そうだったのか。
<br>「{{傍点|文章=普通}}、{{傍点|文章=森さんは金槌で撲殺されたと思うでしょう}}。{{傍点|文章=なのになぜ}}、{{傍点|文章=あなたは森さんが刺殺されたことを知っていたんです}}?」
<br>「普通、森さんは金槌で撲殺されたと思うでしょう。{{傍点|文章=なのになぜ}}、{{傍点|文章=あなたは森さんが刺殺されたことを知っていたんです}}?」
<br> 最初から、俺はこの男の掌の上で踊らされていたのか。
<br> 最初から、俺はこの男の掌の上で踊らされていたのか。
<br> 咄嗟にコップを掴むが、茶はもう残っていない。
<br> 咄嗟にコップを掴むが、茶はもう残っていない。
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