「Sisters:WikiWikiオンラインノベル/大海を知らない探偵」の版間の差分
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3年7月12日 (ゐ) 18:15時点における版
ぼくの頭上を、マンボウがゆうゆうと泳いでいる。平たい体についた短い尾びれをゆらめかせ、おうちの上を通り過ぎていく。
白い砂の底が広がるあまり深くない海に、ぽつんと位置するあまり大きくないサンゴ礁。それが、ぼくのおうちだ。もちろんぼくだけのおうちではなく、カメ老やハタ蔵といったお年寄りから、スズメダイっちやぼくのような子供まで、いろんな魚が暮らしている。
ゆったりと泳ぎ去っていくマンボウを、ぼくはおうちの端っこから見送っていた。ぼくは今日、はじめてマンボウを見たのだ。マンボウは、ぼくと全然違う形をしていた。ぼくはあんなに大きくないし、あんなに長いひれを持っていないし、あんなにぼんやりとはしていない。あんな魚がいるなんて、はじめて知った。大海を知らないぼくにとって、マンボウはとても物珍しい生き物だった。だから、飽きもせずにずっと、去っていくマンボウの姿をじっとながめていたのだ。
マンボウは海面と海底のちょうど真ん中くらいを泳いでいるのだろう。『だろう』というのは、海底は目の前のサンゴに隠され、見えないからだ。いや、見ないようにしている、というのが正しい。あの日からしばらく経ったけど、まだ恐怖心は消えない。
マンボウの細い後ろ姿が、おうちから結構離れたなと思ったとき、聞きなれた声が後ろからした。
「おーい、ベラ助。こんな隅っこで何してるの?」
スズメダイっちだった。その鮮やかなブルーの体をひらめかせ、こちらへあっという間に近づいてくる。ぼくは振り返ってすばしこいスズメダイっちに向かい合う。
「マンボウを見ていたんだ」
「ああ、そうだったの。どこどこ?」
「ほら、あそこだよ」
「どれどれ?」
ぼくとスズメダイっちは、サンゴの隙間から身を乗り出し、並んで向こうを見た。そこには、薄赤く染まった水が漂っているだけだった。このときだけは、海底への恐怖心も忘れ、ぼくは身を乗り出した。
マンボウが、血を流して沈んでいた。
ぼくは目に入ってきた光景を理解できなかった。マンボウの体は完全に沈み、力なく海底に横たわっていた。
驚いて何事か話しかけてくるスズメダイっちの声も、耳に入ってこない。
マンボウの周りは、血と砂で多少けぶっていたが、それでも視界が完全に遮られるほどではない。おうちの外に広がる空間。そのどこにも、誰の姿もなかった。なかったのだ。
「うわあ、死んじゃったの? ね、見に行こうよ」
ふとスズメダイっちの声が戻ってきた。
「み、見に行くって」
「だって、気になるじゃん。なんで死んだのか。それに珍しいし。行こうよ」
スズメダイっちはついさっきまでマンボウが生きていたことを知らない。だからこんなにひどいことを言えるんだ。そう自分に言い聞かせて、込み上げてくる気持ちを抑えつけた。ぼくは物知りだから、ほかの子より大人なんだ。お父さんみたいに。
そんなぼくの心のうちも知らず、スズメダイっちは言い募った。
「外が怖いのはわかるけど、底から離れて泳げば大丈夫だよ。ちょっと行って帰るだけさ。何かあればすぐに戻ってくればいい」
臆病だから行くのをしぶっているのだと思われるのは心外だった。お父さんのように、ぼくは勇敢でなければならない。今まで、何かと言い訳をしておうちの外に出ることはしなかった。でも、今こそぼくが勇敢だと示すチャンスじゃないか。
それに、心の底でうずく、好奇心があった。恐怖と表裏一体の、知りたいという気持ち。マンボウのところに行けば、謎の答えがわかるかもしれない。
ぼくは、決心した。
「行こう」
「よおし、そうこなくっちゃ」
ぼくとスズメダイっちは、するりとおうちから外へ出た。
そばにサンゴがない。どこにも隠れる場所がない。むき出しで大海にいる実感が湧いてきて、怖さがすぐにおそってきた。心臓がばくばくと鳴り、体が震える。なるべく海の底を見ないように、顔をまっすぐに向ける。
くるりと回れ右をしておうちに帰りたいのをがまんして、泳ぎつづけた。大口を開けた怖い魚が、今にも現れておそってくるんじゃないだろうか。そんな恐怖に駆られて、いつの間にか全力で泳いでいた。早く着いて、早く帰りたい。
「ちょっと、おいてかないでよお」
十秒ほどしてぼくはマンボウの真上に到着し、スズメダイっちもすぐに追いついた。
おそるおそる底のマンボウに近づく。マンボウは、その平たい体をペタリと海底に横たえていた。こうして近くで見ると、やはり大きい。カメ老の二倍くらいはあるんじゃないだろうか。しかし、目からは生気が失われており、早くも小さなカニがマンボウの体をつついていた。
そして、マンボウには頭のところにひどい傷があった。目と目の間の出っ張ったところがえぐれたようになり、血が水中にふわふわと流れ出している。そのほかに目立った傷はないから、これが致命傷だろう。
ぼくは周りを見渡した。おうちがあんなにも遠くにある。近くに魚影はやはりない。ただ白砂が広がるだけで、身を隠せそうな岩陰などもない。
震えがよみがえってきた。マンボウをこんなにしたやつは、一体どこにいったのだ? ぼくが目を離したのは、せいぜい五秒。その間に、マンボウの身に何があったのだ?
茫然としていると、おうちの方角から誰かが近づいてきた。優雅に水を切ってやってきた流線形の影は、アシ香さんだった。光を浴びて輝く飴色の体は、倒れたマンボウを見てぴたりと止まった。
「やだ、何あれ? 死んでるの? 変な魚ねえ」
アシ香さんはぼくらに目をとめ、話しかけてきた。アシ香さんは毎朝この辺りを通るから、ぼくらとは顔なじみなのだ。
「誰がこいつの頭をかじったのかしら?」
「わ、わかんないです。見てなかったので……」
「ふーん、そう。朝の遊泳でこんなもの見ちゃうなんて、気味が悪いわ。コースを変えようかしら」
言葉とは裏腹にあまりショックを受けているように見えないのは、大きな体と高い泳力、そして肉食動物という地位からうまれる余裕ゆえだろうか。
顔見知りだというカメ老に伝えてくると言って、アシ香さんは去っていった。その間際、アシ香さんはぼくらにこう言った。
「こいつは死んで間もないわね。こいつを食ったやつは、まだ近くにいるかもしれないわね。気をつけなよ」
ぼくらはあわてて辺りを見まわし、次に顔を見合わせ、そしておうちへと全速力で泳いでいった。入れ代わりに、カメ老たちがこっちに泳いでくるところだった。
二十分ほどして、マンボウの死体を見に行ったカメ老が帰ってきた。ぼくはスズメダイっちと一緒に、カメ老のいつもの居場所にいる。そこはおうちの中心部で、サンゴ礁が凹んで盆地のようになっている。ぐるりを囲むサンゴを越えてきたカメ老は、藻の生えた体を横たえた。ぼくらは早速駆け寄って、話を聞く。でも、カメ老の検分もアシ香さんのそれと大差なかった。ただ、カメ老は一つ付け加えた。
「マンボウの頭を食いちぎるなぞ、できるもんは限られておる。この辺に住んでいるもんで、あんなことができるのは、近くの洞窟におるあやつくらいじゃろう……」
そこに、甲高い声が割り込んできた。
「カメ老! まさか、シャーくんを疑ってるの⁈」
振り向くと、コバンザメ子が真っ赤な顔をしてにらんでいた。
「シャーくんはあんなことしません!」
「しかし、彼は獰猛で大食いではないか」
「でも、疑うなんてあたしが許さないわ!」
彼女は、シャーくんのシンパらしい。
「だがね、考えてみれば、あんなことができる大きな口を持ったものは、彼のほかにいないではないか」
「そんなことない! たとえば、毎朝通りかかるアシ香とか。そういやあいつ、今日は通りかかるのが十分くらい遅かったじゃない。マンボウを殺してたから遅れたんじゃないの?」
「いや、そうではない。彼女が来たときには、もうマンボウは殺されていたそうじゃよ」
「噓ついてるんじゃない?」
「さきほど彼女と会ったんだが、口は綺麗じゃった。血で汚れていなかったから、彼女は殺しておらん」
「じゃあ、気性の荒いハタ蔵はどうよ」
「ハタ蔵の口でさえも、あの傷口と比べると小さすぎる。それに、ハタは噛み切るというより丸呑みにするタイプじゃ。あんな噛み傷を残せるのは、シャーくんくらいのものではないかのお」
いろんな魚たちが、口ぐちにそうだそうだとはやし立てる。いつの間にか、おうちや辺りに住むみんなが集まっていた。マンボウが惨殺されたことは、みんなにとっても大事件なのだ。どうやら、シャーくんとやらがマンボウ殺害の犯魚だという雰囲気になってきているみたい。でも、コバンザメ子は叫んだ。
「じゃあ聞くけど、誰か、マンボウが殺された頃にシャーくんがこの辺にいるのを見た?」
沈黙が下りた。コバンザメ子は勝ち誇ったような顔をした。
「仮にシャーくんがマンボウを殺したとして、誰もシャーくんを目撃していないなんてことある? あのシャーくんよ?」
「どうして? 気づかないこともあるんじゃない?」
スズメダイっちの無邪気な問いに、コバンザメ子は心なしか憐れみのこもったような一瞥をくれた。
「あんたはシャーくんを見たことがないからわからないんでしょうけど、あの方の持つオーラは圧倒的よ。近くを通りかかっただけでも、確実にわかるわ」
そんなにすごいんだろうか。ぼくはピンとこなかったけど、他のみんなが一様に口をつぐんでしまったことからして、どうやらコバンザメ子の言うことは事実らしい。
「シャーくんのいる洞窟は、このサンゴ礁をはさんで殺害現場の反対側よ? つまり、シャーくんがマンボウを殺したのなら、ここの近くを通ったってこと。なのに、サンゴ礁のあちこちにいたあんたらの誰も気づかないなんてありえない」
「ここから離れたところを通ったかもしれないじゃないか」
誰かの意見にも、コバンザメ子は動じない。
「離れるといっても高が知れているわ。このサンゴ礁の外にも、魚はたくさんいた。そうでしょ?」
反論した魚はずばりおうちの外に住んでいるようで、言葉に詰まったようだった。
「だからやっぱり、シャーくんが誰にも目撃されないなんてあり得ない。つまり、シャーくんはマンボウを殺してはいないのよ」
コバンザメ子は意気揚々と言い放った。
しばらく誰も何も言わなかった。だから、ぼくは見たことを正直にみんなに伝えることにした。
「あの、カメ老。実はぼく、殺される直前のマンボウを見ていたんだ」
「何? ならば、犯魚は見たのか?」
「それが……不思議なことに、ぼくが目を離した五秒くらいの間に、殺されたみたいで……」
それからぼくは、見たことを素直に話した。周りに誰もいなかったこと、スズメダイっちに呼ばれて少しだけ振り返ったこと、それなのにマンボウが殺されたこと……。周りのみんながぼくの話に耳を傾けていた。
ぼくが全てを話し終えると、カメ老はうなった。
「たった五秒であの距離を往復するのは難しい。サンゴ礁から現場に行ってまた帰ってくるまで、バショウカジキでも五秒では厳しいだろうな。砂に潜るというのも、砂の中に住むような薄っぺらい魚には、あれだけの傷を追わせることはできない。それなのになぜ……」
これでは、マンボウを殺せた魚が誰もいないということになってしまう。みんなもそう考えたようで、口ぐちに問いただしてくる。
「おいベラ助、今の話は噓じゃねえんだな?」
「何か見落としたんじゃないのか?」
「透明な魚がいるわけもないし……」
ぼくは頑張ってみんなの疑念を否定していった。スズメダイっちも加勢してくれる。
そのとき、大柄なタイ太郎が、はっとして叫んだ。
「ベラ助、ひょっとして、海底は見てなかったんじゃねえか?」
場が水を打ったように静まった。物問いたげなみんなの視線がぼくに突き刺さる。ぼくは言い返せなかった。図星だったから。
ぼくが黙ってうなずくと、タイ太郎は得意げに言い放った。
「やっぱりな。ということは、シャーの野郎が海底ギリギリにひそんでいて、五秒のうちに一気にマンボウに襲いかかったんだ。そしてすぐにまた潜る。息を殺して海底を潜航し、家に戻ったんだ! ここの誰にも見られなかったのも、そうしていたからに決まってる」
コバンザメ子が「そんなんでシャーくんの巨体が隠れるわけないじゃない」とぼやくが、熱狂した魚たちの耳には入らない。あがるみんなの歓声を押しとどめたのは、スズメダイっちだった。
「待って。それはありえないよ。だって、五秒が経ったあと、ぼくも身を乗り出してマンボウの方を見たんだから。当然、底にシャーくんがいたら気づいたはずさ。つまり、シャーくんが隠れることはできなかった」
「そうだった。ぼくも、そのときだけは海底を見たよ。一尾も魚はいなかった」
「何……?」
スズメダイっちは自信満々にうなずいてみせ、タイ太郎はいぶかしげな顔をする。
「なら……そうだ! あいつはマンボウの死体の下に隠れたんだ!」
「マンボウの死体は平たく海底に横たわってた。大きな体のシャーくんに、そんなことはできないよ。それにさ」
スズメダイっちが反撃にでた。
「犯魚はベラ助が見ていることを知らないだろう? 遠くのサンゴ礁から一匹の小魚がこっちを見ているなんて、誰が思うもんか。だから、誰が犯魚だろうと、ベラ助から身を隠そうと海底ギリギリを進むなんてこと、するはずがないんだよ。それにそもそも、なんで隠れようと思うのさ? たとえここらの魚の全員から見られていようと、堂々とマンボウを食えばよかったんだ。強いものが弱いものを食べる。それが世界のルールだろ? シャーくんがやったのなら、なぜそうしなかったのさ?」
タイ太郎は押し黙った。スズメダイっちの指摘は、シャーくんに限らず、どんな魚にも当てはまるものだった。これでは不可能状況に輪がかかるだけだ。重い雰囲気が立ちこめ、ただスズメダイっちだけが誇らしげに胸を張っていた。
シャーくん犯魚説が論破されて、いい気分をくじかれたみんなは、三々五々去っていった。ブツブツと何かつぶやきながら、おうちの内外へ戻っていく。「どうせくだらない見間違いだろ」「気を引くために噓をついてるんじゃない?」「大人をばかにしやがって」
ぼくは目を合わせないまま、スズメダイっちにお礼を言った。
「何言ってるのさ。当然のことをしたまでだよ」
スズメダイっちはあっけらかんと笑った。
「なあベラ助」
声をかけてきたのは、意外にもタイ太郎だった。もうここには、ぼくらふたりとカメ老、そしてタイ太郎だけしか残っていなかった。
「お前は、シャーの野郎に会ったことがあるか?」
神妙な表情をしているタイ太郎に、ぼくは黙って首を横にふる。
「俺は、見たことがある。あいつは怖ろしいやつだ。オーラが違う。海の全ての生き物の頂点に立つような、圧倒的な捕食者だ」
比較的大きな肉食魚であるタイ太郎がここまで言うのだから、ぼくから見ればどんなに怖いだろう。タイ太郎はさらに言葉を継いだ。
「だが、それだけじゃない。あいつはとんでもなく意地悪で狡猾なやつだ。だから、その……なんといえばいいか……」
少し口ごもったあとで、彼はこう言った。
「さっきお前らが言ったような疑問の答え、それは俺には見当もつかない。頭を働かせれば、あいつがマンボウを殺すことはできないはずなのはわかる。でも……一度あいつを見れば、マンボウを殺したのはあいつだろうって、そう思うだろうよ。言いたいのは、それだけだ」
タイ太郎はくるりと背を向けて、どこかへ去っていった。
しばらく沈黙がおり、スズメダイっちがカメ老に問いかけた。
「シャーくんって、そんなに怖いの?」
「怖いと思うかはそれぞれじゃが……生態系の頂点というのは間違いないじゃろうな」
「カメ老も食べられるかもしれない?」
「あやつは図体が大きい。お前さんのような小魚よりもむしろ、わしくらいの大きさのもんがいい獲物じゃろうな」
大きくて固い甲羅をもつカメ老でさえ捕食対象だという事実に、ぼくらは黙って身を震わせた。
だから、スズメダイっちが「シャーくんに会いに行こう」と言い出したときは、大いにうろたえた。ぼくらはカメ老の居場所を辞し、おうちの中の定位置に帰ろうとしていた。そのとき突然、スズメダイっちがそんな提案をしたのだった。
「なんでまた」
「だって、タイ太郎が『会ってみろ』って言ってたじゃないか」
「言ってたっけ?」
「言ってたさ。カメ老も、ぼくらみたいな小魚は狙われないって教えてくれたし、大丈夫だよ」
「でも……」
「ちょっと姿を見るだけでいいから」
ぼくはスズメダイっちに、臆病だと思われるのが怖かった。だから、結局ぼくはうなずいた。そんなところが臆病なのかもしれない。
ぼくらはうわさに聞いた、シャーくんの住む洞窟へ向かった。おうちを出て、広い海をふたりきりで泳ぐ。海底への恐怖心は残っていたが、でもだいぶ落ち着いてきた。朝、マンボウのところへ行って帰ってこられたのが、効いているのかもしれない。
しばらく行くと、白砂の海底が唐突に途切れ、黒々とした大きな岩壁がそそり立っている場所に行き当たった。シャーくんが恐れられているしるしに、周囲に魚影は見当たらない。海面近くまでそびえる壁は横にも長く広がり、ぼくらの行き手を阻んでいる。視線をめぐらせると、右の方に大きな洞穴が一つ、口を開けているのが見えた。あれが洞窟だ。
ぼくらは顔を見合わせ、洞穴に向かおうとしたそのときだった。
ぬっと何かが中から出てきた。ぼくらはとっさに動きを止めた。いや、動けなくなってしまったのだ。
大きい。体長はあのマンボウをも遥かにしのぐ。その全貌が徐々にあらわになっていく。漆黒に輝く滑らかな肌と水の抵抗を極限まで下げる洗練された流線形の胴体は、強烈な威容を放っている。それに加え、ぴんと高い背びれが威厳すら伝えてくる。そして、大きな口からは無数の牙が覗いている。肉食動物のしるしにほかならぬそれの、あまりの凶悪さに、ぼくらは息を止めた。
体がガタガタと震え、金縛りにあったように言うことを聞かない。圧倒的なオーラがビリビリとぼくの体を打っている。巨大な影が、ゆっくりとこちらを向く。そして、ニヤリと笑った。口の端からこぼれた鋭い牙は、それに全身を切り裂かれ噛みちぎられるぼくの最期を一瞬で想起させた。
逃げなくては。切実な命の危機を、あらゆる場所が訴えている。しかし、圧倒的な恐怖がぼくの体を釘付けにしていた。
心臓がどきんどきんと打つ音がやけに大きくゆっくりと聞こえ、背筋が氷になったかのように冷たい。あらゆる筋肉が凝縮し、動けぬままに目の前の脅威を見つめている。
目の前のシャーくんが、体を大きくしならせた。尾びれが振り下ろされ、海底の砂が波動に叩かれて舞い上がり、巨大で邪悪な魚影が急接近してくる。
気づいたときには、ぼくは脇目もふらずに逃げ出していた。
息を切らせておうちにたどり着いた。どうやらシャーくんはぼくらを追いかけてこなかったようだ。彼にぼくらを食う気があったら、確実にぼくは今頃シャーくんの胃袋の中でミンチとなっている。
怖がらせたかったのだ。あのときシャーくんが浮かべた笑み。「意地悪で狡猾」というタイ太郎の言葉が思い出される。
ぼくとスズメダイっちは言葉も交わさずに別れた。シャーくんの圧倒的な威容に、打ちのめされたのだ。
でも──。
タイ太郎の言っていた通りになった。今のぼくには、シャーくんがマンボウを食ったようにしか思えない。理性を飛び越えた、本能のようなものだった。あいつならやれた。食べるでもないマンボウを、殺すなんてことを。
ぼくらは生きるために、いろんな魚を食い、また食われる。だが、食べるためでなく他者を殺すなんてことはしない。なのになぜマンボウは殺されたのか。それがずっと謎だった。でも、シャーくんがやったなら、わかる。
遊びだったのだ。弱者をいたぶり殺す、それが目的だったのだろう。シャーくんなら、やる。被食者の本能が、そう告げている。ぼくは、シャーくんがマンボウを殺したことをもはや確信していた。
しかし、方法がわからないことも事実だった。シャーくんを見て思い知ったことは、もう一つある。コバンザメ子が言うように、シャーくんが近くを通っているのにぼくらが気づかないなんてことはあり得ないのだ。あの威容は、簡単には隠せない。それに、いくらシャーくんの泳ぐスピードが速いといっても、五秒のうちにあの場を離脱することはやはり不可能だ。それに、シャーくんは大きい。あの巨体では、砂に潜ることはおろか、ぼくから隠れて海底を潜航することも厳しいだろう。スズメダイっちが呈した疑問も残っている。
ぼくは、考えてみることにした。ほんとうにシャーくんに犯行は不可能だったのか。狡猾なシャーくんが、何かのトリックと何かの狙いのもとに、マンボウを殺したのではないか。
近くのサンゴに寄りかかり、目をつぶる。しばらく黙考したが、だんだんと考えがあちこちへ散っていってしまう。気づけば、昔のことを振り返っていた。
ぼくのお父さんは、勇敢だった。若いときから大海に出て、いろんなものを見聞きしてきたらしい。幼いぼくはお父さんからいろんな話を聞いた。そのおかげで、ぼくはいくらか物知りになった。ぼくが大海に出たいと思うようになったのは、当然のなりゆきだろう。
ぼくが少し大きくなったとき、お父さんはぼくをおうちの外に連れ出すことにした。ぼくは大喜びで、おうちを初めて出た。海底に潜んでいたコチが前を泳いでいたお父さんを一瞬で呑み込んだのは、おうちを出てからさほど経っていなかったときだったと思う。コチは口からお父さんの尾びれをはみださせ、こっちを見た。気づけば、ぼくはおうちでひとり震えていた。
それから、おうちの外と海の底が怖くなった。周りからはさんざん臆病者とそしられた。今日がおうちから出た二回目だった。その途端、これだ。
なぜか、この事件が、ぼくに与えられた試練のように思えてきた。ぼくが大海を知るための、通過儀礼。この事件を乗り越えなければ大海にでてはならないというのなら、ぼくはきっと越えてみせる。お父さんみたいに、勇敢になるために。
ぼくは事件の様相を整理してみた。
マンボウが殺された。傷は大きく、残せたのはシャーくんくらいしかいないように思える。でも、シャーくんがおうちの魚たちに目撃されずに現場に行けたようには思えない。逆に、シャーくん以外の魚なら、おうちのみんなに怪しまれずに現場まで行けたが、あんなに大きな傷を残せない。この時点で、もう誰にも犯行は不可能なのだ。
しかし、加えてぼくの目撃証言。五秒の間にぼくの視界から出ていくことはできないはずだ。シャーくんが犯魚なら、この第二の密室も立ち塞がる。砂に潜る魚なら問題にならないが、それでもやっぱり傷の問題が残っている。
それに加え、スズメダイっちが呈した疑問の数々。食べるでもないマンボウを殺し、ぼくやみんなの目を逃れたのはなぜなのか。
やっぱり謎は山積みだ。でも、実際に起こった以上、これらの謎をクリアする答えがあるはずだ。
ぼくはサンゴにもたれかかり、考えはじめた。じっと集中して謎の答えを探す。海は静かにたゆたっていて、広い広い大海につながっている。何時間か経ったとき、ふと自分が海と一体化したように感じた。雄大な大海の一部となり、どこか大きな視点とつながる。そのとき、事件がまったく違うように見え、光が射した。
海面からさす光は、少し暗くなっている。ぼくは一つの結論を出した。それをぶつけるために、ぼくは洞窟へと向かっている。スズメダイっちにも誰にも告げずに出てきた。だから、初めてひとりきりでおうちの外に出たことになる。
まとめた考えを反芻していると、いつの間にか洞窟に着いていた。何度か深呼吸して、意を決する。
「シャーくん、話したいことがあるんだ。出てきてくれない?」
少し間を空けて、くぐもった声が聞こえてきた。微かに笑いを含んだような声。
「お前が入ってこい」
暗闇がぽっかりと口を開けている。ぼくは体の震えを押さえ、そろそろと洞窟の中へと入っていった。
幅広い穴がまっすぐ伸びている。シャーくんからすれば、あまり広くはないのだろうが。入り口から遠ざかるにしたがって、だんだんと暗くなっていく。前方で、道が大きな空間につながっていた。その空間に入ると、一気に視界が開け、周囲は明るくなった。天井に小さな穴があり、そこから光が降ってきている。向かい側には、今通ってきたところと同じような穴が空いていた。この大きな空間を、水平に伸びる細い穴が前後に貫いている形だ。
そして、中央には、シャーくんが口に笑いをたたえながら、ぼくを見つめていた。愚かな獲物を見るようなその視線に、思わず身震いする。
するとシャーくんは白い牙をこぼした。
「安心しろ。取って食ったりしねえから。気分が変わらねえ限り、だが」
ぼくはぞっとしたが、それを顔に出すまいとして言った。
「今日、マンボウが殺されたのは知ってるよね?」
「ああ、コバンザメから仔細は聞いたぜ」
一つ息を吸い、ぼくは言葉をぶつけた。
「聞く前から知ってたでしょ? 君がマンボウを殺したんだから」
「ほう?」
シャーくんはニヤリと笑った。上からの細い光に照らされ、おぞましい表情が浮かぶ。
「聞いたところによると、マンボウを殺すことは誰にもできなかったらしいが?」
「それが、そうでもないんだ」
ぼくは考えたトリックを語る。
「確かに五秒でサンゴ礁まで往復するのは無理だ。戻ることさえできない。ぼくらの視界の外まで泳ぎ去るのもね。でも、マンボウのすぐ近くに隠れることは、五秒でできたんだ」
「そんな隠れ場所はなかったと聞いたぞ? 一つの岩すらなかったらしいじゃねえか」
「誰も気づかず、誰も探さなかった場所が一箇所だけあるんだ」
「どこだ、そりゃ?」
ぼくはシャーくんの目を見据えて言い切った。
「マンボウの下だよ」
心なしか、シャーくんが笑みを深めた気がした。
「死体は平たく落ちてたんじゃねえのか? もしや俺が砂に潜ったとでも?」
「そうじゃない」
そのまま一気に言葉を継ぐ。
「マンボウの下には、窪みがあったんだ。シャーくんが潜めるほどの大きな窪みがね。そして、窪みの入り口はマンボウより小さかった。だから、マンボウの死体は窪みを覆い隠したんだ。シャーくんの体長はマンボウより大きいけど、縦になればマンボウに隠れられるはずだ」
シャーくんに動揺は見られなかった。彼はゆっくりと壁に沿って泳ぎ、ぼくは無意識に彼の反対側にいるように移動していた。
「最初から君はこの窪みに潜んでいた。マンボウがくる前からずっと。そして、マンボウが真上にきたとき、偶然にもぼくが目を離したとき、窪みから躍り出てマンボウの頭を食いちぎったんだ」
「そんな大きな窪みがあったら、みんな気づくんじゃないか?」
「ぼくは海底を見てなかった。視界から隠してたんだ。だから気づかなかった。スズメダイっちがきたときには、窪みはマンボウに覆い隠されていた。それからも、みんなマンボウの下にだけ大穴があるなんて夢にも思わないから、気づかれなかったんだ」
「なるほどなあ……」
不敵な笑みを浮かべたシャーくんが、問いかけてくる。
「もしも、だ。もしも俺がそうやってマンボウを殺したのだとしたら、どうしてそんなことをしたんだ? ほかのやつらから隠れる必要なんてない。さっさとマンボウに正面からおそいかかって終わりだ。そうだろ?」
スズメダイっちの呈した疑問。ぼくは、それの答えも見つけている。
「その前に、君がマンボウを殺した動機を言うね。初めはただの遊びだとも思ったんだけど、違う」
一息つくと、ぼくはまっすぐシャーくんを見据えた。
「君がマンボウを殺したのは、間違えたからだ。本当のターゲットは、アシ香さんだった。そうでしょ?」
シャーくんは、依然ニヤニヤ笑いを崩さない。
「あそこは、アシ香さんの毎朝の遊泳コースだった。だから、君はアシ香さんを待ち伏せしていたんだ。でも、君は間違えた。上を通ったマンボウの大きな魚影を、アシ香さんと勘違いしておそってしまった。君はすぐにミスに気づき、また窪みに隠れた。みんなから隠れたんじゃない。アシ香さんから隠れたんだ。待ち伏せに気づかれないために」
シャーくんは平然と泳いでいる。ぼくは何か大きな勘違いをしているのだろうかと不安になるが、当たっているはずだと勇気を奮い起こす。
「マンボウの死体で窪みを覆ったのも、アシ香さんに気づかれないためだ。でも、やがて到着したアシ香さんは、マンボウに近づかなかった。近づいていたら、君は躍り出てアシ香さんをおそっていただろうね」
「なら、去っていくアシカを追わなかったのはなぜだ?」
久しぶりにシャーくんが口を開いた。
「アシ香さんは泳ぐのが速い。今おそっても逃げられると判断したんだ。そしてそのまま、ぼくらがマンボウの死体を調べている間、君は窪みに潜み続けた」
「それもなぜだ? お前らがいるからといって、隠れなければならない理由はない」
「いや、ある。アシ香さんの遊泳コースを変えさせないためだよ。あのときの会話を、君も聞いていたはずだ。もし君が窪みで待ち伏せしていたことをぼくらに知られたら、その情報はアシ香さんまで伝わってしまうだろうね。すると、アシ香さんは当然だけど警戒する。あの窪みには絶対に近づかないようにするだろうね。すると、せっかくの作戦が使えなくなってしまう。だから、誰にもバレないように、隠れ続けたんだ。辺りに誰もいなくなってから、君はそっと脱出した。こうすることで、第二の密室もクリアできる」
「第二の密室?」
「おうちのみんなの目のこと。君はカメ老が現場を離れるまで、辛抱強く待ってから現場を離れた。だから、おうちの誰にも目撃されなかった。だってその頃、みんなはカメ老のもとに集まっていたんだから」
カメ老の居場所は窪んでいるから、外は見えない。ぼくらが目撃証言をつのっているまさにそのとき、シャーくんは悠々と横を泳いでいたのだ。
「そうやって密室を破ったあと、君は何食わぬ顔でぼくらと会ったってわけ」
そこでぼくはふと気づき、あわてて言い足した。
「あ、ぼくを今食べても無駄だよ? この考えは、ここにくる前にカメ老に伝えておいたから」
噓だ。でも、この考えをぼくしか持っていないと思われると、アシ香さんの待ち伏せを有効にするために、ぼくの口を封じようとされるかもしれない。
シャーくんはふんと笑っただけだった。
ぼくはまとめにかかる。
「こうして君はマンボウを殺したんだ。そうでしょ? シャーくん」
洞窟を静寂が満たした。ぼくは空間の反対端にいるシャーくんを見た。シャーくんはすっと視線をあげ、ぼくを見た。
「残念だがな、お前の説は成り立たない」
「なっ……そんなこと」
またニヤリと笑って、シャーくんは歯の浮くような優しい口調で言う。
「お前の説では、俺はマンボウを殺したあと、窪みに潜んでいたことになっているな」
「うん」
「俺が窪みに潜んでいた時間は、どのくらいだ?」
「……え?」
マンボウがくる前から潜んでいた。それからマンボウを殺して、また隠れて、それからは辺りに誰もいなくなるまで。それっていつだ? ぼくらがおうちに戻るとき、入れ替わりにカメ老がきた。そのとき逃げていたらカメ老に見つかっていたはずだから、まだ潜んでいる。そして、カメ老が現場の検分を終えて戻ってきたのは、二十分後。
「……マンボウを殺すときを除けば、最低でも二十五分くらい」
「な? 無理じゃねえか」
ぽかんとするぼくを見て、シャーくんも固まり、少ししてはっとした顔をし、そして大笑いし始めた。ぼくは彼の笑いが理解できない。
「何がおかしいんだ? ぼくらが君と会ったのは、カメ老の検分が終わったしばらくあとだから、アリバイも成立しない。犯行は可能だったはず……」
なおもシャーくんは笑い続ける。ひとしきり笑い転げたあと、ようやくシャーくんはぼくを見た。
「お前、ほんとに何も知らねえんだなあ。ハハハ、こんなに笑ったの久しぶりだぜ」
呆然としているぼくに、哀れみと軽侮のこもった視線を向けて、シャーくんは言い放った。
「俺はシャチだぞ?」
「それがどうしたんだよ」
今更何を言っているのだ?
「おっと、知ってたか。ひょっとしてサメか何かと勘違いしてるんじゃないかと思ってな」
「そんな勘違いするわけないだろ? 体の模様が全然違うし、肌もサメと違って滑らかだし、尾びれも横向きだし」
「おいおい、ならなおさら笑えるぜ。教えてやるよ、お魚さんよお」
シャーくんは満面の笑みを浮かべた。
「シャチってのは、肺呼吸なんだ。水中じゃ息ができない」
「えっ」
水中で息ができない? そんな馬鹿な。
「やっぱり、知らなかったのか。海の生き物はみんな魚だと思ってたのか?」
「噓だ……水の中で息ができないなんて、そんなわけない! ならどうやって生きてるんだよ!」
「海面の上で息を吸うのさ。それまでずっと息を止めてるのさ。俺たちシャチは十五分くらいしか潜れないから、犯行は不可能なんだよ。ちなみに、お前がくる直前に息継ぎしてきたから、今はもうしばらく大丈夫だぜ」
海の外で息をする? ずっと息を止めている? そんなことがあるのか? だが、シャーくんは噓をついているようには見えなかった。知らないのはぼくくらいだったのか? 大海を知らないぼくだけが。ぼくの心を見透かしたようにシャーくんは嘲る。
「お前の推理なんて、大海を知らない雑魚のたわごとに過ぎないんだよ」
ありえない。マンボウを殺せたのは、あんな殺し方ができるのは、シャーくんだけだ。
「水中で息ができないなんて、やっぱり噓だ」
「じゃあ、俺の体のどこにエラがあるってんだ?」
はっとした。シャーくんの、滑らかな流線形の体を見つめる。ない。そんなばかな。
「そんな……ぼくは……ぼくは物知りなんだ……。だって、お父さんはとっても物知りなんだ。大海を旅した、勇敢な魚なんだ……」
「そのことなんだがな」
シャーくんはさもおかしそうに笑った。
「お前の父親はとんだ噓つきだぜ」
「は?」
「だって、ここは大海なんかじゃない。水族館なんだからな」
水族館。お父さんに聞いたことがある。海の外にいる動物が管理する、小さい小さい偽の海。ここが、そうだって?
「ありえない」
考える前に、否定の言葉があふれ出した。
「だって、こんなにもここは広いじゃないか。ずっとずっと、見えなくなるまで」
「お前は、そんなに遠いところまで行ったことがあるのか?」
「……いや、ないけど、でも、見えるじゃないか」
「ほんとうに見えているのか? 見えているとお前が思い込んでいるだけじゃないのか?」
なおもシャーくんは言い募る。
「お前は父親に大海の話を聞かされて育ったらしいな。父親は、大海原を旅したことを誇りに思っていた。だから、人間に捕まったことを恥じていただろうな。だから、ここは海だと息子に言い聞かせた。水族館で生まれた息子は、そこが海だと露ほども疑わずに育っていく……」
そんなことあるわけない。耳をふさぎたかったが、シャーくんの言葉は無理やりぼくの脳に入ってくる。
「ここは海じゃなくて、水族館なんだ。そう考えると、マンボウの死の真相もわかる。マンボウは、水槽の壁にぶつかって死んだんだ。五秒で往復できなくて当然さ。あいつは、あそこにあった透明な壁にぶつかって、頭を潰して死んだだけなんだから」
「壁なんてなかった」
「透明なんだから、壁自体は当然見えないさ」
「でも、向こうには変わらず海が広がってた!」
シャーくんは気の毒そうな顔をする。
「それはお前の脳が誤魔化してるんだよ。ずっと受けてきた親父の洗脳が、壁の向こうの景色を認識するのを阻害してるんだ。たかが小魚の脳だぞ。信頼できるわけないじゃないか。第一、俺には壁の奥が見えるぞ。この辺も、この洞窟から左に少し行けば水槽は終わってる」
そんなことが、ぼくの頭が真実を歪めているなんてことが、ほんとうにあるのか?
「思い出してみろよ。お前の言う第二の密室が、サンゴ礁の面々で議論されたときを。俺がサンゴ礁の遠くを通った可能性を、コバンザメ子は『サンゴ礁の外にも魚が大勢いたのに、誰も目撃していない』と言って否定したな。みんな納得してただろう? 海は広いんだから、あのサンゴ礁からずっと遠くを通ったっていいのに、誰もそう言わなかった」
「それは、わざわざ遠回りする必要なんてないから……」
「違う。サンゴ礁から離れることができないほど、この世界が狭いからだ。ここが水族館だと、みんな知ってるんだよ」
何よりだ、とシャーくんは言った。
「何より、俺は海からここに連れてこられたんだ。でかい網に引っ掛けられてな。ここは海じゃなくて、水族館なんだ」
ぼくの心の中に、絶望が満ちていく。
なら、ぼくがいるこの世界は、とんでもなくちっぽけなものなのか。そんな世界で、ぼくは怖がっていたのか。あのとき得た、大海とつながる感覚は、まったくの幻想なのか。こんな小さな世界で、お父さんは死んだのか。
「こんな小さな世界で、ぼくは死ぬの……?」
「ああ、そうさ。お前は大海の百兆分の一にも満たない小さな水槽の中で、広さに怖がりながら死ぬのさ」
ぼくの内側で、何かが壊れる音がした。
「違う!」
ぼくは気づくと叫んでいた。
「君は噓をついているんだ! ここは水族館なんかじゃない!」
「おいおい、どうして俺がそんな噓をつくってんだよ」
「ぼくを痛めつけたいからだ。それか、なぶって遊んでるんだ。そうだ、君は噓をついてる!」
ここが水族館だなんて、そんなわけがない。ぼくは必死に頭を働かせる。
「まず、ここが水族館なら、シャチが普通の魚と一緒の水槽にいるはずなんてない! 魚が危険だから、シャチとかは専用のプールに住むものだ」
「そうか?」
シャーくんはニヤリと笑った。
「斬新な展示をしている水族館かもしれないじゃないか」
「それだけじゃない。マンボウの死体が処理されないのもおかしい。もし水族館なら、大型生物の死体なんて放置するわけない」
「お前が最後に死体を見たのはしばらく前だろう? とっくの前に処理されただろうよ」
「それにしても遅すぎるよ」
「今日はたまたま休館日で、急がなくてよかったのかもしれん」
止まったら不安に呑まれそうな気がして、必死に口を動かす。
「ここが水族館なんてこと、ありえないよ」
「なぜだ?」
間髪をいれず、ぼくは宣言する。
「マンボウが壁にぶつかって死ぬなんてことは、ない」
シャーくんの表情はやはり変わらない。
「マンボウがあのとき、壁にぶつかって頭が潰れるほどのスピードを出していたようには見えなかった」
ぼくはゆったりと泳ぐマンボウの姿を思い出した。それに、そんなスピードを出せるほどマンボウは泳ぎがうまかったようには思えない。
いつの間にか、最初の位置と反転し、シャーくんは入り口の前に、ぼくはもう一本の穴の前にいた。シャーくんはニヤニヤ笑いを崩さない。
「遠くから見ただけなんだ。速度は正確にわからないだろ? それに、マンボウが壁にぶつかって死ぬことは絶対にありえないと証明されたわけじゃない。何より、あのマンボウは壁にぶつかって死んだとしか考えられないじゃないか。俺には犯行が不可能だし、俺以外にも犯行は不可能なんだから。それが、ここが水族館である証拠だよ」
ぼくの頭は、一つの可能性を思い描いた。
「シャーくん、君がマンボウを殺す方法はまだ残ってる」
「……ほう?」
「マンボウの下にあるのは、窪みじゃなくて洞穴だったんだ。その洞穴はずっと伸びて、どこか遠くに繋がってる。そうだとすれば、マンボウを殺したあと、君は洞穴を通り抜けて、海面まで息継ぎに行ける。こうすれば第二の密室も掻い潜れる。海底の下のトンネルを通ったんだから、見られることなんてない」
「俺が水中で活動できる時間は短い。ここら一帯の外まで続くような長いトンネルじゃあ、息が続かなくなる恐れがあるから、俺は使えないぞ」
「トンネルに入って、事件現場に行って、マンボウを殺して、またトンネルを抜ける。息が続くのが十五分なら片道に七分半使える。それだけあれば、ずっと遠くまで行けるはずだよ」
「そうじゃないんだ」
シャーくんは唇を歪めた。
「仮に俺があのアシカを待ち伏せていたとする。それなら、俺はアシカの通る時間めがけて現場に到着するだろう。念の為に数分前に来るかもな。だが今日、アシカは少し遅れて来た。そのぶん長く穴に潜んでいないといけないんだ。帰りにかけられる時間は少ない。片道七分もかけてたら、途中で酸欠になっちまう」
確かにそうだ。周到なシャーくんなら、どんなに遅くとも、アシ香さんの通過予定時間には現場にいたはずだ。でもアシ香さんが遅れたぶん、十分はそこにとどまらないといけない。残された五分でトンネルを往復しないといけないから、トンネルは二分半で抜けなきゃならない。これじゃあ、おうちからそう遠く離れられない。
でも、まだ諦めない。
「なら、トンネルの出口は近くにあるんだ」
「それなら、ここらへんの魚たちに目撃されちまうだろうが」
「いや、そうとも限らない。一箇所だけ、目撃されずに済む場所がある」
シャーくんは怪訝な顔をした。これが本心なのか演技なのか、ぼくには判別がつかない。
「この洞窟だ。この辺りに魚は寄りつかない。それにたとえ見られても、君の住む家なんだから君が出てきても不審には思われない。この洞窟が事件現場まで繋がってたら、犯行が可能になる。ぼくの後ろのこの穴を進めば、マンボウの下にたどり着くんだ!」
ぼくは推理を語り終えた。息が荒れている。
やはり、ここが水族館の中だなんてありえない。マンボウは、シャーくんが殺したんだ。
そのとき、シャーくんがぼくを見据えた。ぼくはゾッとした。その顔が、今までで一番邪悪なものだったからだ。忘れていた恐怖がよみがえり、体が震えだす。
「なら、賭けてみようじゃねえか」
「……え?」
「お前の推理が正しいなら、そこの穴はマンボウのところまで繋がってる。一方、俺はそこが行き止まりだと知ってる。つまり、そこを行ってみれば、どっちの説が正解なのかがわかるってことだ。だから、試してみようじゃねえか」
その牙を剥き出しにし、彼は嗤う。
「今から俺は、お前を殺す。こっちの入り口か天井の隙間に逃げようとしたら、簡単に追いついて殺せる。お前はそこの穴に逃げ込むしかできねえよなあ?」
背筋が凍った。いつの間にか、この洞穴を背にするよう、追い込まれていたのか。
「さあ、逃げろよ。お前が信じるところによれば、外までその道は続いてるんだよなあ?」
大丈夫、ぼくの考えは間違ってない。ここが水族館なら、不自然な点が多すぎる。ぼくの推理しか、成り立たない。だから、この穴は外に繋がってる。行き止まりなんかじゃない。ここは、大海なんだ。そうに決まってる。
「じゃあ、スタートだ」
ぼくは身を翻して、真っ暗な穴に飛び込んだ。シャチの強靭な尾が生み出す強烈な波動に揉まれながら、ぼくは暗闇の奥へと突き進んでいった。