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'''「常習者のこの発言、めっちゃ面白い…!」'''
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'''「湧き上がるこの気持ち、抑えられないよ!!」'''
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'''などと独り言を口にします。そしてこのままでは本当に死んでしまうでしょう。'''
'''などと独り言を口にします。そしてこのままでは本当に死んでしまうでしょう。'''
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'''しかし、この偉大な「ものづくし」を含む随筆集を使えば、そのような心配は無くなります――ここには、あらゆる系統立てられた物事が独立して掲載され得る環境があるのですから。'''}}
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{{草子|題名=徒然草@ミステリ摂取|著者=Notorious|説明=徒然なるままに書きつくった駄文。随時追加。}}
{{草子|題名=或る日の日記|著者=Notorious|説明=2023年9月27日}}
{{草子|題名=血迷った作品|著者=せうゆ|説明=深夜テンションで書き連ねた駄作。しょうもないし内容がクソ重い。お目汚し失礼します。}}
{{草子|題名=ネットスラングはすごい|著者=Notorious|説明=ネットスラングを堂々と使う奴はなんかやだな('}}
{{草子|題名=同ボ祭Ⅴ 実況|著者=キュアラプラプ|説明=思い立ったが吉モーメント}}
{{草子|題名=海辺のカフカを借りて|著者=Notorious|説明=何をとち狂ったのかNotoriousが数ヶ月もMapilaplapに借りた末の読書感想文。春休みの宿題など彼の前では無力!}}
==脚注==
==脚注==
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4年5月18日 (W) 14:23時点における最新版


WIKIWIKI TRIPILLOW BOOK

WikiWiki麻薬草子へようこそ
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 WikiWiki麻薬草子は常習者どものイカれた随筆文です

選りすぐりの項目をあなたと


WikiWiki麻薬草子はあなたの命を救うために作られました。
あなたはよく、

「常習者のこの発言、めっちゃ面白い……!」

「いろんな形容詞に沿ったものを集めてみたいな!」

「湧き上がるこの気持ち、抑えられないよ!!」

「でも共有する場が無い……記事にするほどのことじゃないし……」

「この感覚を皆に紹介できないなんて、自分は生きてる価値ないよ……」

などと独り言を口にします。そしてこのままでは本当に死んでしまうでしょう。

しかし、この偉大な「ものづくし」を含む随筆集を使えば、そのような心配は無くなります――ここには、あらゆる系統立てられた物事が独立して掲載され得る環境があるのですから。

WikiWiki麻薬草子はあなたの命を救うために作られました。


箴言しいもの
常習者の輝かしい箴言。
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「あつめてはやしモガミガワ」[ソースを編集]

ケツアゴコロロによってヨーグレキ制定が1分足らずで可決されたとき、せうゆがWikiWiki同好会で発した一言。WikiWiki1周年記念コンテストのお題候補にもなった。

早いということを松尾芭蕉の1句に準えるワードセンスと、「最上川」という固有名詞を半角カタカナで表記する抜群のデザイン性が光っている。

「あゝfuckin''''」[ソースを編集]

誤字が判明したときにキュアラプラプが発した言葉。WikiWiki1周年記念コンテストのお題候補にもなった。

心に浮かんだ狂おしい気持ちを、「あゝ」という古日本語と「fuckin'」という現代英語、通常ならあり得ない組み合わせで表現している。更に幾つも重ねられた'が、激情を効果的に且つ端的に表している。彼の当意即妙の会話センスがピリピリと感じられる素晴らしい一言だ。

「危険思想者とも手を取り合って共栄するのがWikiWikiのゴルバ良いことチョフ〜」[ソースを編集]

ケツアゴコロロが過激な発言[1]をした際、が発した言葉。WikiWiki1周年記念コンテストのお題候補にはなってない。

「ゴルバ」で「良いこと」を修飾するという謎行為と同時に「チョフ」をあえてパージ[2]し、そしてそれを波ダッシュと共に文末に持ってくることによって異常なまでの滑稽さを演出するという、超絶技巧の天下の名文である。

「俺は公序良俗側の人間じゃない」[ソースを編集]

キュアラプラプの「公序良俗書けよ」という要求を受けてが発した言葉。WikiWiki1周年記念コンテストのお題候補にはなってない。

常習者間において、「公序良俗」という語は暗黙の内に「公序良俗に反する記事」を意味するのだが、特にこれへの拒絶において、冷静に考えるとすごい反社会的である発言が生じてしまうという事態がこの箴言により浮き彫りとなった。

「迷ったら二番目に安いものを買え」[ソースを編集]

Notoriousの母が発したとされる言葉。管理者がどのハードディスクを買うかについて同好会で迷ってるとき、Notoriousが母の言葉として紹介した。

Notoriousの家族は頭がおかしいことで知られており、たとえば姉はピカチュウ教小籠包神曲の原案を、父は宝塚過激団の原案を提供し、そして弟は言わずもがな常習者である。しかし母はほとんど登場せず[3]、そのためこの箴言がNoto母の代名詞として君臨しているのだ。

ⒸWikiWiki叢書


ほしいもの
常習者のほしいもの。
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ほしいもの一覧については「ほしいものリスト」をご覧ください。

ⒸWikiWiki叢書


麻薬しいもの
麻薬であるもの。
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麻薬[ソースを編集]

麻薬

麻薬[ソースを編集]

麻薬

麻薬[ソースを編集]

麻薬

ⒸWikiWiki叢書


四季
日本の宝。
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春はヨーグルト。やうやう発展していくヨーグルト。

夏はヨーグルト。月の頃はさらなり。

秋はヨーグルト。夕日のさしてヨーグルトいと素晴らしうなりたる。

冬はヨーグルト。雪の降りたるは言うべきにもあらず。

ⒸWikiWiki叢書


第1回伝説の記事選考 推薦文
第1回伝説の記事選考で寄せられた、熱烈な賑やかし。
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推薦者Notorious 推薦記事キュアラプラプピロリ語
推薦文

 私Notoriousは、キュアラプラプ作「ピロリ語」を伝説の記事に推薦させて頂きます。
 まずこの記事の特徴と言えば、長い。なんと2年3月2日午後3時23分(JST)時点で、驚異の103103バイト。最初の6桁バイト記事であり、同じく6桁バイトでもほぼ表で構成されている「将棋」「寿司」とは一線を画す存在であることは間違いありません。百聞は一見に如かない記事やバイトテロではないのに、この長さ。同様のアンモク共和国が49120バイトであることを考えると、そのすごさがよく分かります。アンモクの2倍超えですよ? 「長い記事を書いたろ!」と思ったことのある人なら、すごさが身にしみて感じられるはずです。だって「二・零零事件」あんなに書いたのにピロリ語の3分の1にも遠く及ばないんだよ?
 私は、長い記事には作者のその記事に対する情熱が現れていると思っています(バイトテロは除く)。なぜなら、そうでないと完成させきれないからです。そのため私は「ピロリ語」にキュアラプラプ氏のかけた情熱は並々ならぬものであったろうと思っています。しかし、それはバイト数云々を論じなくても自明のことですよね。なんといったって、一個人が「言語」を作っているんですから。彼はピロリ語作成にあたって、言語学や音韻学の膨大な知識を身につけ、言語体系の確立に挑んでいます。それに一体どれだけの情熱が、このプロジェクトへの愛が要るのか、私には想像もつきません。しかも、キュアラプラプ氏が「ピロリ語」完成後も細かい編集を繰り返して完成度を上げていることが、履歴を見れば分かります。彼の知識の深化とともに、ピロリ語は進化を続けているのです。
 さらに、基本的なことになるのですが、表などが見やすく、高等技能が多く使われています。私のような初心者は、表のような複雑なソースを見ただけで足が竦んでしまいます。でも彼の培った高い技術と持ち前のデザインセンスが、「ピロリ語」を分かりやすくスタイリッシュに仕上げているのです。彼の底力の強さが、「ピロリ語」の魅力を支えていると私は感じました。実力のある人が本気を出せば、それはすごい作品となるに決まっています。
 しかし、あなたはこう言うかもしれない。「『ピロリ語』には、ユーモアが足りないんじゃないか」と。確かにWikiWikiにはたくさんの面白い記事、笑える記事があります。それらのおかげで我々常習者は楽しい楽しい思いをさせてもらっています。ですが「ピロリ語」は、読者を笑わせようとする記事ではない。というかキュアラプラプ本人しか内容を完全に理解している人はいないでしょう。それだけ、「ピロリ語」は難解で学術的です。ひたすら内に籠もっているようにも思えます。しかし、それこそ「ピロリ語」の魅力ではないでしょうか。他の誰にも理解されないとしても、仕組みを考え、名称を捻り出し、リアリティを追い求め、辻褄を合わせ、莫大な量の文を書く。鬼気迫るようなこの狂気、それさえもまたこの記事の外せない構成要素だと思うのです。
 これがもし「一番笑える記事決定戦」だったら、私は「ピロリ語」を選ばなかったでしょう。でも、これは「伝説の記事」を選ぶ催しです。圧倒的な長さ、かけられた情熱、高い完成度、垣間見える狂気。それらが合わさった「ピロリ語」こそが、「伝説」の称号に相応しいのではないでしょうか。

推薦者キュアラプラプ 推薦記事Notorious二・零零事件
推薦文

※この推薦文にはネタバレが含まれています。まだ当該記事をお読みになっていない方は、先にそちらをお読みください。
 私キュアラプラプは、Notorious作「二・零零事件」を伝説の記事に推薦させて頂きます。
 たいへんありがたいことに、実に多種多様で麻薬にまみれた記事を読ませていただけるという恵まれた環境に私は恵まれています。その数多の記事の中で、私が最も衝撃を受け、そして心を大きく動かされたものこそ、この「二・零零事件」なのです。この記事と夕張市の執筆者が同一人物だなんて思い難いほどに。('
 まず、この記事は『近代日本最悪の殺人事件』についての記述という形で進行していきます。ここで私が目にすることになったのが、彼の圧倒的な語彙力、知識、文章力、そして表現力です。「はすかい」とかいう多分ここで出会わなければ一生知らないままだったであろう言葉が出てくるし、すごく詳しくトリアージの過程が綴られてるし、びっくりするくらい文章も読みやすいし、これらによって生じる『少年』の凶行のリアリティや、よく知った場所であることを差し引いてもなお強くある臨場感は、さながらラリってるときの幻覚のようです。ただ、この記事はこれだけでは終わりません。実際、ここまでの評価は同作者の記事「比尾山大噴火」や「シンジツノクチ」にもおおむね当てはまります。「二・零零事件」がこれらと一線を画す理由、これが、脚注の下の白い空間をスクロールしたその先にある真実節にて、常習者たちを待ち構えているのです。
 ビビりました。私はものすごくビビりました。読み返してみると、確かに『少年』がおかしくなったのは社会のテストが終わったころ辺りでした。『あいつは、人間じゃない。人間の皮をかぶった鬼だったんだ。』―――この記事から文章を引用し、Notorious氏のことを形容させていただきます。まさしく鬼才。令和3年(に)00号のあらゆる謎が、この『白いTシャツの希少性を上げる』というごく単純な動機の下にすべて解決されるという化け物じみた文章構成力には脱帽です。というかそもそも、白いTシャツの希少性をどうやって上げるかという問いに対して『母数を減らせばいい』という解答が浮かぶ時点で、彼は人類にとって脅威であるといっても過言ではないでしょう。はい。('
 さらに、真実節におけるその「真実」の記述は、もはや芸術ですらあります。『少年の声』『周囲の声』『少年の心の声』を並べ、時系列順に書き起こし、これによってその全てを同時かつ円滑かつ写実的に描写する。この神業は、もう既に述べるまでもないことですが、やはり常人の域を脱しており、ここWikiWikiにおいて「悪名高さ」は「素晴らしさ」を意味し始めています。
 このように、えげつないクオリティと狂気を孕む、Notorious氏の麻薬にまみれた記事「二・零零事件」はまさに「伝説」であり、「伝説の記事」という評価を受けることが充分に値するものであるといえるでしょう。

ⒸWikiWiki叢書


記事のオチ
Notorious
記事案を練っているときに思ったこと。
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 私は記事の構想を練る日々の中で、記事のオチには大きく分けて2種類あるのではないかと思った。

 その種類を綴る前に、オチとは何か、今私がどう捉えているかを書こうと思う。まず、真面目な記事にオチは存在しない。例えば、東方project 作品一覧館シリーズのようなものだ。このような記事は、読者を笑わせたりアッと言わせたりしたいという意図はないからである。それを踏まえて聞いてもらうと、オチとは「何が書きたくてこの記事を書いたか」であると私は考える。記事の発想の中核とも言えるだろう。例えばピカチュウ教の場合、私は「ピカチュウを崇める宗教書きたいな」と思ったからこの記事を書いた。だからピカチュウ教のオチは、「ピカチュウを崇める宗教」という点である。では本題に戻り、私が考えるオチの分類の話に入ろうと思う。

 1つ目は、記事の始めにあるオチだ。先ほど挙げたピカチュウ教はこれに当たる。なぜなら、読者は「ピカチュウ教」という題名、遅くても概要節では「ピカチュウを崇める宗教」というオチに気づくからである。要するにこのタイプは、記事を読み始めてすぐにオチがわかるものということだ。カテゴリ:自己言及の記事など、これの最たる例だろう。記事のオチの多くがこのタイプだ。私達は日常で記事案を思いつくとき、平常の思考から少しずれた発想を得ることで、それを面白さに昇華させている。発想が日常に根ざしている以上、オチが日常から大きく離れることはあたわないのだ。そこは今から述べるもう一つのタイプのオチとの違いである。

 2つ目は、記事の終わりにあるオチだ。物語のように、結末のカタルシスを求めたタイプである。拙作をまた例に挙げさせてもらえば、二・零零事件がそうだ。あれは真実節のアイデアが書きたくて書いた記事である。同様の真実節がある記事はこのタイプが多いだろう。また、うんたらかんたらちょめちょめじがくちょうなど、キュアラプラプ氏の記事に多いイメージがある。

 もちろん、この2つに分類できない記事もある。トートロジーひつまぶしのように最初も最後も同じようなものや、ポインコ記憶力がよくなるドリンクのように全編クライマックスな感じのものもある。さらに、食パンのように、2つのタイプが融合した記事もある。この点でこの記事は特に優れていると言えよう。また、前者ではあるが、並々ならぬ文章量と情熱によって後者と比肩する重厚な物語の風格を備えた記事もある。オーストロェイリアなどだ。それはともかく、私の分類の仕方は大まかに伝わったと信じている。

 では、どちらのタイプがよりいいだろうか。読者に深い感動や驚きを与えるなら、後者のタイプが断然向いているだろう。物語のラストに受ける衝撃というものは、唯一無二の存在だ。しかし一方、前者にも代え難い魅力があることは事実。平凡な事柄が見方を変えることによって全く違う様相を見せる記事群には、作者のセンスが色濃く反映される。他の人の記事の題名を読んで、なぜこの発想が浮かばなかったんだと歯がみすることも多々あるが、それも一興だ。また、物語を書きたいならWikiWikiオンラインノベルがあるが、前者のタイプのオチを書くには記事にするしかない。

 どちらが優れているかと言われると、平凡な結論になってしまうが、好みによるだろう。私はどうしても最後の一撃フィニッシング・ストロークというものが好きだから、後者のオチを叶うならば読みたいし書きたい。着想はなかなか降りてきてくれないのだが。でも、自らが面白いと思うオチを考えてみることは、新記事の構想に繋がるのではないかと思う。

 さて、あなたはどんなオチの記事がお好きだろうか?

ⒸWikiWiki叢書


なんか疲れたという話
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 疲れました。もう疲れました。あまりにも疲れてるので疲れた理由をわかりやすく説明する気すら起きません。はあ。あのね、私はね、スライドの内容を1枚ずつ入力するとそれをまとめてスライドショーにしてくれる、というテンプレートが作りたかった。そのためにはどうすればよいのか。ちょっと考えました。そして思いついたんです。まず最初は1枚目のスライドを display:block にし、それ以外のスライドは display:none にしておく。2秒くらい経ったら、1枚目を display:none に、2枚目のスライドを display:block に切り替え、それ以外のスライドは display:none のままにしておく。もう2秒したら、display:block になっているスライドを display:none に、その次のスライドを display:block にする。これを繰り返せばゴルバよいのではないかチョフ~。

 思いついたんならとっとと書けよ(' ――そんな、キュアラプラプの声が聞こえてきそうです。ん? 余談ですが、古語には「早く」を意味する副詞「とく」がありますね。もしかして、「とく」と「とっとと」との間には何か関係があるのでしょうか? いいえ、ただ思いついただけです。何も調べちゃいません。だってそんな気力はどこにもないもの。……閑話休題あだしごとはさておきつ、「書け」と言われるまでもなく、私は書いたんです。ためしに「テンプレート:スライドショー」のソースをご覧なさい。次に「テンプレート:スライドショー/style.css」のソースをご覧なさい。上で述べたことを忠実に再現しているでしょう。なのに何ですか、この状況は。これを見てみろ。ソースから期待される通りでは9枚のスライドが出来るはずなのに、画面には何も表示されていないじゃないか。なぜ動かないのかしらん。

 私はこのテンプレートをしばらく触らないでしょう。原因を究明・解決するどころか、ソースを読む気にさえなれないからです。疲れた話もこの辺で終わりにしましょうか。……「貴様が疲れたなどというどうでもよい話をするのにわりあい紙幅を割いたくせに、こっちには単に『テンプレ作ったけど動かなかったくてだるい』くらいのことしか伝わってこなかったぞ。文章そのものも不安定で読みにくいし、貴様はもう麻薬草子に投稿するな」ですって? ふん、これが疲れた人の文章なんですよ。覚えとけ。

ⒸWikiWiki叢書


創作言語、作りたくね?
キュアラプラプ
作りたいよね?
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あなた、言語を創作したいと思ってますね?ええ、分かってますよ。人間とは常に創作言語の創作を欲するものです。

しかし、創作言語に敷居の高さを感じている常習者も多いでしょう。そこで、オリジナル言語の創作における大まかな流れをまとめてみました。

なお、これは言語学にわかであるキュアラプラプ個人の経験等に基づく見解であり、誤りを含む可能性があるので、怖い人に指摘されたりするかもしれませんが、勘弁してください('


まず、言語を創作する上で最初にしたほうがいいこととして挙げられるのは、その言語の「話者の設定」を決めることです。

架空の言語には、架空の話者が存在しなければなりません。そして、日本文化と日本語が切り離せないのと同じように、その架空の話者たちの文化を考えておくと、言語の創作は捗ります。

例えば「ピロリ語」では、話者がピロリ菌であるというものが大きな柱となっており、文法や語彙、表現にもこれが影響していますね。また、「開いた口が塞がらない語」(これを言語とできるかどうかは怪しいが)では、結果的とはいえ話者が平和的であるという理屈が生じています。


話者の特徴や文化をある程度定められたら、次は音韻・文字体系を考えてみましょう。

「音韻」とは、言語において用いられる音のことです。ここでは、実際に発声される音である「単音」と、その言語において一つの音と認められる単音の範囲である「音素」を定めましょう。

例えば、日本語の音韻「ら」は、音素/r/と/a/によって成り立っています。そして音素/r/は、[ɾ](無声歯茎はじき音)や[ɖ](有声そり舌破裂音)、[l](歯茎側面接近音)など、いくつかの単音によって発声されます。

音素の創作は、いわば範囲の決定であるため自由度が高いですが、単音に関しては既に確立され広く認められている体系が存在しているため、無理に再発明せずIPAにあやかりましょう('


音韻が出来たら、文字に取り掛かりましょう。文字の区分には実に様々なものがありますが、ここでは分かりやすいように「音メイン」と「意味メイン」に分けて説明します。

音メインの文字は、ひらがなやカタカナ、ラテン文字(所謂アルファベット)などが一般的です。これにも大きく分けて「音素文字」と「音節文字」が存在し、

それぞれラテン文字のように個々の音素に対応した文字の体系、そしてひらがなやカタカナのように(これには例外があるが)音素のまとまりである「音節」の個々に対応した文字の体系を指します。

実際の文字媒体では、これらを繋げ合わせて語を作り、それをつなぎ合わせて文を作ることになりますね。

一方、意味メインの文字には、漢字やヒエログリフなどがあります。「表語文字」である漢字は、一つの語が一つの字で表されます。例えば、「犬」は「犬」ですね。

また、「表意文字」であるヒエログリフは、一つの意味が一つの字で表されます。このように、文字を創作する上では、文中のどこで一文字の区切りをつけるかが重要になります。

効率面においては、少ない種類の文字を組み合わせて多くの意味を示すことができる音メインの文字が優れていますが、

意味メインの文字は音に縛られにくく、意味を単独でも持てるため造語しやすいことから、ジャパニーズマンガの厨二ルビ振りKANJI技名のようなロマンがあります('

『ONE PIECE』より引用

音韻や文字を創作できたら、次はいよいよ文法です。

まず、言語には「文法範疇」というものがあります。これは、言語に備わっている、「複雑な何かを意味する」ための機能と言っていいでしょう。たぶん。('

例えば、あなたが単語しか使えない状態だとして、「ジョンに数学を教えていたのは私だ。すぐに泡を吹いて倒れてしまったけどね。」ということを言わなければならないとき、相当苦労しますよね。

まあとりあえず、物は試しです。やってみましょう。「ジョン 数学 教える 私」… ううん、これだとジョンが私に数学を教えているみたいですね。

じゃあ、「私 ジョン 教える 数学」にすれば… とまあ、このような感じで文法は生みだされます。

ここでは、文法範疇の一つである、文中でのその語の役割を表す「格」を、語順によって示そうとしていましたね。この方法をとる言語は「孤立語」に分類されます。

また、「屈折語」という分類もあります。これでは、その語を「曲用」、つまり形を変化させることで格を表示させます。なお、日本語は「に」等の「接辞」によって格を表示する「膠着語」です。

他にも、文中の一節「教えていた」に着目すると、ここには二つの文法範疇が入っています。一つは「時制」、もう一つは「相」です。

時制には聞きなじみがありますね。これは述べられている事柄の時間的なことを表します。一方、相はその動作の時間的な分布を表し、「進行相」や「完了相」などがあります。

日本の英語教育では、例えば「現在進行形」「過去完了形」のように時制と相は一緒くたに扱われますが、実はこれらは異なる文法範疇なのです。

そしてこれらは、一般的に動詞を「活用」、つまり形を変化させて表示します。このため、「教えていた」は「教える」が活用して、過去時制と進行相が表示された動詞だといえます。

文法範疇には、他にも話者の心理的な態度を表す「法」や、動作の視点を表す「態」、動作の起点について表す「人称」、語のカテゴリーである「性」など、様々なものがあります。

なお、その文法範疇の表示にも、曲用や活用のような語形変化をはじめ、語順の変更や助動詞の使用など、いくつかの方法が存在しています。いい感じになるように頑張りましょう。('


文法で表す事柄、またその表し方を決めたら、次は品詞分類や、文の成分の分類などをしてみましょう。

言語学において、文における構成要素は小さい順に「単音→音素→形態素→語→句→節→文」となっており、品詞は「語」、文の成分は「句」の、機能的な分類にあたります。

品詞には、一般的に名詞や動詞、形容詞、冠詞、接続詞、間投詞などが、文の成分には、一般的に主語や述語、目的語、補語、修飾語、独立語などが存在します。

ちなみに、日本語における品詞分類は、実際には意味を持つ最小のかたまりである「形態素」にまで達しているっぽいです。

この分類を行うことで、あなたの言語の概観を再認識し、その構造や体系を見直す足掛かりにできるばかりか、愉悦に浸ることだってできます。


さて、ここまできたら、あなたの創作言語は完成したようなものです。

これからは、単語を増やしてみたり、文法をいい感じに改良したり、はたまたその言語の通時的な変化を考えてみたりして、自分の言語を楽しみましょう。

身の回りのさまざまな言語の文を、手当たり次第に翻訳しまくると、勝手に単語が増えるし、問題点も見つかるので、是非。

あと、いろいろと詳しく知りたければ、寛大な心でペヂァの言語学関連ページをめっちゃ読め('

ⒸWikiWiki叢書


おすすめの本紹介という名の戦場
Notorious
推理小説の布教。興味がないというのであれば読まなくても全く構いません。
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まえがき[ソースを編集]

ねえ、おすすめの本なんか無い?

あなたもこう問われたことがあるのではないだろうか? そんな時あなたはどうするだろう? 最近読んで面白かった本を紹介する? それとも心にこれ1冊と決めている本がある?

私の場合、行動理念はたった一つ。「本格ミステリを布教すること」に全力を注ぐ。なぜなら、同趣味の人が私の交友関係の中に一人もいないからである!!

だから、私はその人に合ったミステリを紹介したい。もし気に入られなければ、その人はミステリから遠ざかってしまうかもしれない! それはできるだけ避けたい。

しかし、会話において熟考している暇などない。焦って結局は最近読んで印象に残っている本を安易に言ってしまうのがオチだ。

そこで、ここに分野別であらかじめリストアップしておけば、会話中であっても、適切な本を紹介できるのではないかと思い、今文を連ねているのである。

では参る。もしこの文を読んでいるあなたの琴線に触れるものがあれば、是非読んでみてほしい。

本をあまり読まない人向け[ソースを編集]

まずこんな人に本を薦めること自体難事ではある。ミステリなど尚更だ。しかし私は諦めぬ。ライトなミステリに絞れば、沼にはまってくれるかもしれない!

米澤穂信〈古典部〉シリーズ
「氷菓」から始まるシリーズ。学園もので年齢が近くて読みやすい。アニメも大ヒットし、漫画化、実写映画化もされているくらいだから、面白さは折り紙付きである。あらすじはざっと言うと、「省エネな男子高校生が、古典部の仲間に振り回されつつ、いやいや謎を解いていく」といった感じ。きっと「クドリャフカの順番」まで来たらもう引き返せないはず。「ふたりの距離の概算」と、「遠まわりする雛」所収の『心あたりのある者は』は一読の価値どころか三、四くらいはいけると思う。
石持浅海〈座間味くん〉シリーズの短編集
既刊は「心臓と左手」「玩具店の英雄」「パレードの明暗」「新しい世界で」の4冊。ただ私は恥ずかしながら前3作しか読んでないんですけれども。短編集だからするする読めるし、どれもレベルが高い。もし気に入れば、長編の「月の扉」と、同作者の「扉は閉ざされたまま」も是非に。
アガサ・クリスティー「そして誰もいなくなった」
名作、これに尽きる。私は「古いし、オチも知ってるし~」となめてたら想像よりずっと面白くて、読後に作者に土下座したくなりました。あと、アガサ・クリスティーの「ABC殺人事件」「アクロイド殺し」「オリエント急行殺人事件」は、オチが公然の秘密のようになっているので、もしあなたが幸運にも未だトリックや結末を知らないというのであれば、ネタバレを食らわないよう可及的速やかにお読みいただくことを強くおすすめします。

ミステリをあまり読んだことのない人向け[ソースを編集]

このような人には、ミステリの醍醐味を知ってもらいたい。

綾辻行人「十角館の殺人」
多くの若者をミステリ沼にひきずり込んだ不朽の名作。かくいう私もその一員である。弊校図書館にも今年入荷されたので、読んでほしいなあ。同じ館シリーズの「時計館の殺人」「黒猫館の殺人」まではせめてたどり着いてほしい…! ただし、バラバラに読むとネタバレを食らう恐れがあるので、必ず刊行順に読むこと。ただMapilaplapは「最初の方は文章が読みづらい」と言っていた。でも最初だけだから! 頑張って!
綾辻行人「Another」
同作者のもう一つの代表作。アニメもヒットし、幅広い層にミステリの良さを広めたとして名高い傑作。ホラーとミステリが融合した作品で、面白いとしか言いようがない。是非に是非に。
鯨統一郎「邪馬台国はどこですか?」
歴史ミステリ短編集。歴史上の出来事に、意外な論理で新解釈を生み出していく、他では得られない感覚の本。ネタバレにはならないから言うけど、読めばあなたも邪馬台国は東北にあると信じるようになります。
井上真偽「探偵が早すぎる」
「巨額の遺産を相続した女の子を殺そうとする一族 vs 女の子が雇った事件を未然に防ぐ探偵」という話。百花繚乱のトリックと探偵の推理の対決がエグいよ! 頭脳戦好きな人は絶対読んでくれ。
井上真偽「その可能性はすでに考えた」
同作者の代表作をもう一つ。あらすじは、「ある事情から奇蹟(聖人が起こす人智を超越した現象)の存在を信じたい探偵が、ある不可解な事件をそれが奇蹟だと証明するために、人間によるトリックが弄された可能性を潰しまくる」といった感じ。複雑だけど、結局内容は「トンデモトリックを考えるvsそれを論理的に否定する」に終始します。そもそものトリック立案がすごい上に、探偵が紡ぐロジックもそれ以上にすごい。論理のドッグファイトというか、もうすごい。頭脳戦好きな人はこれも絶対読んでくれ。損はさせない。
青崎有吾〈裏染天馬〉シリーズ
最近の作品で学園ものだから、読みやすさはトップレベル。さらにキャラが立ってて面白い。なおかつロジカルな犯人当てが中心という素晴らしいシリーズ。フーダニットの面白さを存分に味わえる。ただし、短編集の「風ヶ丘五十円玉祭りの謎」は日常の謎もので、長編とはそこが違うけど、これも面白いので無問題。私は最新刊「図書館の殺人」が一番好きです。
有栖川有栖〈学生アリス〉シリーズ
有栖川有栖作品はどれも端正で読みやすく良心的なので全部おすすめだけど、絞るなら初期の代表シリーズのこれ。「月光ゲーム」から連なるこれらは、長編は全部クローズドサークルものの犯人当て。マイベストミステリである、3作目の「双頭の悪魔」まで、せめて読んでほしい……。
相沢沙呼・梓崎優ほか「放課後探偵団」
なんか前にも書いたけど、めっちゃ良い。質が高すぎるアンソロジー。梓崎優『スプリング・ハズ・カム』だけでも読む価値が全然ある。全人類、これを読め。梓崎優つながりだと、「叫びと祈り」も超おすすめ。
相沢沙呼「マツリカ・マトリョシカ」
学園ミステリの里程標的傑作。キャラクター小説と本格ミステリが見事に融合されている。主人公の成長を描く普通の小説としても、二つの密室に挑む多重解決ミステリとしてもハイレベルで楽しめる。紡がれる華麗なロジックと大胆不敵な密室トリックは出色。一応シリーズ3作目だけど、前作を読んでいなくても大きな支障はないかと思う。とにかく読みやすくて完成度が高いので、是非読んで……。
米澤穂信「春期限定いちごタルト事件」
〈古典部〉シリーズに並ぶ、作者のもう一つの青春ミステリシリーズ、〈小市民〉シリーズの一作目。一般市民を目指して互恵関係にある二人が、しかし願いとは裏腹に、数々の日常の謎に出会ってしまう。キャラの造形が絶妙でいいし、読めばシリーズを追っかけたくなるはず。そして、私はこれ収録の短編『おいしいココアのつくり方』が大好きなんです……。いかにしておいしいココアが作れたのか、という世界一瑣末なんじゃないかと思うような不可能状況。しかし、それを巡る丁々発止の推理合戦は、謎のスケールなんて本格ミステリに関係ないんだと気づかせてくれた。最高の日常の謎短編。

本に慣れている人向け[ソースを編集]

ある程度長いとか難しい文章も読めるのであれば、薦めない理由がない作品。

北村薫「空飛ぶ馬」
文章はちょっと難しくなるし、教養があふれてて何言ってるかようわからん時もある。でも、語りが優しくて小説として超いいし、日常の謎のパイオニアとして読むべきだとも思うし、何より私は表題作が大好きです。他のみんなは『砂糖合戦』と『赤頭巾』こそ読むべきって言うんだ……。
エラリー・クイーン「Xの悲劇」
悲劇四部作の始めの一作。論理の妙をめっちゃ味わえます。有名なのは「Yの悲劇」だけど、私はこっちの方が好み。あとシリーズ最終巻「レーン最後の事件」は読む価値あると思ってるので、叶うならばシリーズ完走してほしい。古くて海外作品だから、読むのは体力使うと思うので、ほいほいとはおすすめできないのが残念なんです。
ジェフリー・ディーヴァー〈リンカーン・ライム〉シリーズ
作者は「ツイストの帝王」の異名を取る人で、これは超弩級ジェットコースターサスペンスシリーズです。どんでん返しに次ぐどんでん返しで楽しすぎる。外国作品でしかもだいぶ長い(単行本は余裕で枕より厚い、文庫本は上下巻)から物怖じするけど、ページをめくる手が止まらないので恐ろしいほど速く読み終わります。しかも既刊15作。これが15回も楽しめるだなんて! 2作目の「コフィン・ダンサー」は、もともと作者はこれでシリーズを終わるつもりだったらしく、全部詰め込んだ最高の一冊になっているので、「ボーン・コレクター」が面白かったら是非に。
島田荘司「占星術殺人事件」
ミステリ史に残る大トリックが印象的な名作。どのくらいすごいかというと、「金田一少年の事件簿」にパクられるくらい(' 一読の価値はある。
泡坂妻夫「しあわせの書」
「これ読んでないとか人生損してる」と確言できる一作。なぜならこの作品でしか味わえないものがあるから。あまり深く言うとネタバレになるので、君もネタバレを食らわないうちに読むんだ!
長沢樹「消失グラデーション」
これも学園もので、主人公が消えた被害者の謎を探偵役と共に追う話。読めば、刺さるものがあるはず。当時中1だった私は、ちょうどいい所で国語の授業が始まったのを克明に覚えております。くそがあああああ
浅倉秋成「教室が、ひとりになるまで」
いわゆる特殊設定ミステリで、ある能力を得た主人公が、同じく能力を得てクラスメイトを殺している人と対決する話。作者は「伏線の狙撃手」と言われていて、気持ちいい伏線回収を楽しめます。伏線って、いいよね。
市井豊「聴き屋の芸術学部祭」
日常の謎系の連作短編集。主人公は大学生で、文章は読みやすいタッチです。『からくりツィスカの余命』が一番世評は高い。私は『濡れ衣トワイライト』が一番好きです。
米澤穂信「さよなら妖精」「王とサーカス」
前者は、高校生が主人公の青春ミステリ。ユーゴスラビアから来た少女マーヤは、忘れ難い体験を残して去っていった。ユーゴ動乱が勃発した翌年、主人公たちはマーヤがユーゴスラビアの“どこ”に帰郷したのか推理する……。場所当てというミステリ的要素も勿論いいんだけど、何よりマーヤたち登場人物が良すぎる。何度だって読みたい、最高の一作。そして後者は、その続編。高校生が大人となって、新たな物語が始まる。ジャーナリズムの意義を問う骨太の作品でもあり、沁みる長編。大人になったら必ず再読しようと思っている。
ダン・ブラウン〈ラングドン教授〉シリーズ
特に「ダ・ヴィンチ・コード」が有名。暗号ミステリx歴史ミステリxジェットコースターサスペンスなシリーズ。海外でしかもちょっと長いけど、鬼つよリーダビリティのおかげで全然ものともせずに読めます。物語の面白さは「天使と悪魔」、暗号のハイレベルさは「ダ・ヴィンチ・コード」、ミステリ的要素は「インフェルノ」が、それぞれ好き。

ミステリをある程度読んでいる人向け[ソースを編集]

今のところそんな人いないのが悲しすぎる。そこの君、これになる気はないかい?

倉知淳「星降り山荘の殺人」
初学者でも全然いいとは思うけど、やっぱりちょっとはミステリに親しんでからがいいのかなと思う。吹雪の山荘×犯人当ての傑作。とても良い。
米澤穂信「儚い羊たちの祝宴」
ダークミステリ短編集。『玉野五十鈴の誉れ』が特に名作の誉れ高い。あんま気負わず読んでほしいけど、私は鳥肌が立ちました。これが気に入れば、「満願」も是非。
ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」
表題作はもちろん、他にもいくつかどう考えても傑作な短編が収録されている。論理のアクロバットが楽しめます。
柄刀一「密室キングダム」
あるマジシャンの邸宅で起こる連続密室事件を、名探偵南美希風が解き明かす本格ミステリ。なんと密室が5個も出てくる、超重厚な一作。図書館で取り寄せたら想像の4倍分厚かったのはいい思い出です(' いかんせん長い。でもその分のクオリティはある。
大山誠一郎「密室蒐集家」
密室ものの連作短編集。作者は特徴的なトリックで有名で、一度ハマると癖になる。アリバイもので、ドラマ化もされた「アリバイ崩し承ります」もあるよ!
麻耶雄嵩「螢」
すごいです。なんと言ってもあの鬼気迫るようなクライマックス。誰かと共有してええええ。
法月綸太郞「法月綸太郞の功績」
稀に見る高水準な本格ミステリ短編集。現代日本ミステリを代表する『都市伝説パズル』も収録。私は『=Yの悲劇』が一番好きですね。
鮎川哲也「黒いトランク」
アリバイ崩しものの金字塔。鬼貫警部が一手一手犯人に近づいていくのがたまらない。鉄壁のアリバイが崩れた瞬間は楽しくって仕方がない。「黒い白鳥」もいいよ!
阿津川辰海「名探偵は嘘をつかない」
知性に殴られた。完成度がめちゃ高くて、いろんな魅力が詰まってる。読んでて超楽しかった。

信頼できる人向け[ソースを編集]

つまり、「こんな本紹介しても嫌われないだろう」と思っている人向けである('

歌野晶午〈密室殺人ゲーム〉シリーズ
ぐう鬼畜しか出てこねえ問題作。ただし品質は保証できる。「自分の考えたトリックを実践(=殺人)して、顔や声を互いに隠している仲間はそれを推理して当てる」という倫理観のバグったお話。でも面白いよ!
麻耶雄嵩「神様ゲーム」
麻耶雄嵩の作品を読んだことがないなんて人生損しています。この作品は初学者にぶつけたいけど理性で抑え込んでいる。メルカトル鮎シリーズも是非。やっぱ『答えのない絵本』はいいよ。
中山七里「連続殺人鬼カエル男」
めっちゃ面白いジェットコースターサスペンス。ただし殺害シーンが若干グロいので、人には薦めづらい。そこのシャブ中、どうです?

あとがき[ソースを編集]

さて、ここに書かせていただいたことで、急に聞かれても落ち着いて答えられそうです。ありがとうございます。

そして毎度のことですが、いかにも詳しいですよ、たくさん読んでますよみたいなこと書いてますけれど、実際そんなことないのでお気をつけください。

重ね重ねになりますが、もしこの文章を読んでいるあなたが、「これちょっと気になるなあ」というものがあれば、是非読んでみて! 絶対面白いとまでは言えないけど、ある程度の品質は保証できると思うので。

以上、ここまで私は、ひとつのユーモアもなく、あなたたちの目を癒すこともないような内容を、傲慢にも自己満足によって書き連ねてきました。にも拘らずこの記述を最後まで読んでくださったことに、深く感謝します。


P.S.今まで書いた中で、以下に列挙する作品は私が所持しているので、声をかけてくれれば貸しますよ!(布教の為なら労を惜しまない男'

  • 米澤穂信「氷菓」「愚者のエンドロール」「クドリャフカの順番」「遠まわりする雛」「ふたりの距離の概算」「いまさら翼といわれても」「さよなら妖精」
  • 綾辻行人「黒猫館の殺人」
  • 鯨統一郎「邪馬台国はどこですか?」
  • 青崎有吾「風ヶ丘五十円玉祭りの謎」
  • 有栖川有栖「双頭の悪魔」
  • 相沢沙呼・梓崎優ほか「放課後探偵団」
  • 相沢沙呼「マツリカ・マトリョシカ」
  • 北村薫「空飛ぶ馬」
  • ジェフリー・ディーヴァー「ウォッチメイカー」
  • 泡坂妻夫「しあわせの書」
  • 倉知淳「星降り山荘の殺人」
  • 歌野晶午「密室殺人ゲーム王手飛車取り」「密室殺人ゲーム2.0」
  • 麻耶雄嵩「神様ゲーム」

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Ich habe „Die Verwandlung“ gelesen ― die Impressionen
Guten Tag!
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  Es gibt wohl niemanden, der das Buch „Die Verwandlung“ von Franz Kafka nicht kennt, und einige von Ihnen haben es vielleicht sogar auf Japanisch gelesen, glaube ich. Aber es gibt auch wohl niemanden in WikiWiki, der das Wunderbar an der Originalversion kennt.

  Wie ich bereits im der Titel erwähnt habe, habe ich es gelesen; aber nichts habe ich gefunden. Was denken Sie über die Gründe dafür? Einfach, das liegt daran, dass ich kein Deutsch verstehe! Ich schreibe das hier zwar auf Deutsch, aber, mein Deutsch kommt fast nur aus „CROWN ― Basisworterbuch Deutsch“, „HANDBUCH DER DEUTSCHEN GRAMMATIK -2., neu bearbeitete Auflage“ und „DeepL“, nicht aus meinem Hirn.

  »Ich möchte meine Impressionen an dieses Buch schreiben!« - das ist meine Hoffnung, aber es scheint, dass ich das nicht kann. Scheiß auf die Welt, scheiß auf die Sprachbarriere!

  Es gibt noch niemanden in WikiWiki, der das Wunderbar an das Original „Die Verwandlung” kennt.

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『象は鼻が長い』備忘録
構成も分かりにくい上に文章も汚いですが、直す気は起きません。話半分で読みましょう。
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 三上章『象は鼻が長い』を読んだ。浅学の芯は三上の主張を否定する術など持たず、読了の頃には三上文法の正当性をほとんど疑わなくなっていた。本草では、同書において私自身の理解もまだ危うくない前半部分を紹介し、記憶の言語化によって再整理を図るとともに、諸賢にもその正しさを味わっていただきたい。


 「象は鼻が長い」のような「Xは……xが……」型の文は、主に「どれが主語なのか」といった論点において、かねてより日本語文法界に激論をもたらしてきた。今日まで、さまざまな文法学者が説明を試みてきたものである。現行の学校教育文法の根幹となっている橋本文法では、「鼻が」は述語「長い」の主語、「象は」は述部「鼻が長い」の総主語であるとして説明されている。この説明は、学校文法漬けの生活を送ってきた我々にもなかなか膾炙するものではなかろうか。しかし、三上による説明はこうである:「象は」はその本務として述語「長い」の題目を提示し、かつ兼務として連体格「象の」を示す。また、その連体格「象の」は体言「鼻」に係り、主格「鼻が」は、用言「長-」に係る。

 いったいどういうわけなのか。まず、「ハ」には本務と兼務とがあるということである。以下の文例群Aをご覧いただきたい。

文例群A:

  1. ワタシハ、幹事デス。
  2. 象ハ鼻ガ長イ。
  3. 会場ハ、幕ガ張ッテアリマス。
  4. 花ハ、彼ガ折ッタニチガイナイ。
  5. 父ハ、コノ本ヲ買ッテクレマシタ。
  6. 彼女ハ、顔カラ血ガ引イタ。
  7. 会場ハ、余興ガ始マッテイル。
  8. 予算ハ、サキニ衆議院ニ提出シナケレバナラナイ。
  9. キノウハ、大風ガ吹イタ。

 上の文例では、二重線部すなわち「〜ハ」によって、文の題目が示されているという。「〜ハ、」は「〜について言えば、」の心持ちだ、と言われれば、母語話者の我々にも一応納得するところがある。助詞「ハ」の本務とは、この「題目を示す」はたらきのことである。なお、「〜ハ」は文末まで大きく係り、述語と呼応する。

 ここで、題目が示された文から、題目要素を取り去っ(=無題化し)た文について論じたい。「〜ハ」が題目を示すのだから、意味を変えずに助詞だけを変えればよい。三上はこの操作を、文末に koto (疑問詞のある疑問文では ka)を付すことで行った。すなわち、

文例群A':

  1. ワタシガ幹事デアル koto
  2. 象ノ鼻ガ長クアル koto
  3. 会場ニ幕ガ張ッテアル koto
  4. 彼ガ花ヲ折ッタニチガイナイ koto
  5. 父ガコノ本ヲ買ッテクレタ koto
  6. 彼女ノ顔カラ血ガ引イタ koto
  7. 会場デ余興ガ始マッテイル koto
  8. サキニ衆議院ニ予算ヲ提出シナケレバナラナイ koto
  9. キノウ 大風ガ吹イタ koto

といった具合である。なお、日本語として自然な形を取るために「デス」「アリマス」が「デアル」「アル」に置き換えられていたり、「キノウ」のあとに助詞ゼロがあることを示すためにスペースが挟まれていたりする。

 無題化し、すなわち「ハ」の本務を取り除いたときに顕在化するのは、それまで潜在していた「ハ」の兼務である。ずばり「ハ」は、その兼務として「ガ」「ノ」「ニ(デ)」「ヲ」(「ゼロ〔時のゼロ〕」)、まとめて「ガノニヲ」の代わりとなる。実際に、文例群A-1、A-5の「ワタシハ」「父ハ」は文例群A'-1、A'-5において主格項「ワタシガ」「父ガ」に、文例群A-2、A-6の「象ハ」「彼女ハ」は文例群A'-2、A'-6において連体格項「象ノ」「彼女ノ」に、文例群A-3、A-7の「会場ハ」(共通)は文例群A'-3、A'-7において処格項「会場ニ」「会場デ」に、文例群A-4、A-8の「花ハ」「予算ハ」は文例群A-4、A-8において対格項「花ヲ」「予算ヲ」に、そして文例群A-9の「キノウハ」は文例群A'-9において時格項「キノウ∅」になっているようである。ここで注意したいのは、「ガノニヲ」が係る範囲は小さく、「ガニヲ」類でせいぜい述語から付属語や用言の活用語尾を取り去った部分まで、「ノ」で直後の体言までである、ということだ。

 助詞「ハ」には、述語の項をひとつ取り立てて文の題目を示し、文末まではたらく本務と、「ガノニヲ」の代わりとなり、述語の語幹まではたらく兼務とがあるのである。

 三上は、概ね次のようなことを、同書のところどころでくどいほど述べている――多くの国文学者がさも当然のように掲げる「主語」の概念は、日本語文法においてまったくの野暮で、ほとんど意味をなさない。「象の鼻が長い」における「長-」の項「象の」「鼻が」は、助詞「ハ」を用いて、「象は鼻が長い」「象の鼻は長い」というように主題として同様に取り立てることができるのだから、「〜ガ」のみを特別視し、そのうえ「〜ハ」と一緒くたにして「主語」というレッテルを貼るのは、非常に不可解だと言わざるを得ない。このような論理は西洋文法の流用によるものであろうが、その無批判な輸入が、日本語独特の形式を無碍にしてしまっている。


 以上が共有すべき事項であった。ただし『象は鼻が長い』の真価とはこの程度のものではない。詳細を求める諸賢、あるいは正当性に疑問のある諸賢は、ぜひ一度同書を手にとり、熟読することでその欲求を満たしていただきたい。

ⒸWikiWiki叢書


公序良俗に関するあれこれ
キュアラプラプ
公序良俗に関する掌編集。
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この記事には一部の人を不快な気持ちにしかねない記述・表現が含まれています。免責事項もお読みください。

編者のことば
文章がまとまらなさすぎたので、掌編集という形をとり、湧き起る感情を三つに分かつことにしたのですが、その内での品質の起伏がひどく大きくなってしまいました。許せ。

クソガキ、邂逅

ああ、いかにも。小学三~四年生の頃の私は、まごうかたなきクソガキであった。

恣意的で誇張めいたインターネット上の文字列を下から上に流すだけの日本国賛美動画に溺れ、両腕を失いながらもその愛国心を強く把持する曾祖父(架空)のエピソードをコメント欄に投稿するネトウヨだった。

感情たるダサい物品なぞ我が心には存在しないのだと頑なに信じ、インターネット上に蔓延るグロ画像(笑)を閲覧して「ネギトロと思えば平気だよwww」などとまあ自慢げに周囲に吹聴して歩き、サイコパスのあらぬ疑いを自らにかけて悦に浸るバカだった。

そう、クソガキであったのだ。痛々しいクソガキであったのだ。うう、キーボードを叩く手が硬直しはじめたぞ。

もちろん現在の私は、目も当てられぬネトウヨで自称サイコパスのガキではない。過去のある地点で私はそれを辞めたからだ。

前者は母親に割とガチでキモがられて悲しくなったから。そして後者は―――己の極まりない愚かさに気づかされたためである。

それは誰か大人に諫められた結果でもなければ、良識あるクラスメイトに指摘された結果でもない。

ところで―――もしもあなたの身近に目も当てられぬ自称サイコパスのクソガキがいるならば、一刻も早く更生させてやるべきだと思わないかね。安心してほしい。手段はひどく簡単だ。

年不相応かつ病的にグロテスクなコンテンツを摂取させ、その生意気を生理的嫌悪の暴力によってねじ伏せれば良いのだ。

『終わらない夏休み』という小説がある。作者不詳。ネット上で無料で見れるので是非とも読んでみてほしい。

あの頃の私は、「検索してはいけない言葉」を検索することで、己の"特殊な人物である"欲を満たしていた。「ひよこミキサー」とかを血眼になって探し、わざわざダウンロードさえしたのだ。

そして、いつしかたどり着いたのがその小説だった。当然私は舐めてかかった。文章ごときが画像や動画を超える嫌悪感を醸造することは不可能だと。そしてグロ画像・動画の閲覧を厭わないこの俺は、そんなもの余裕で読破できると。

1話目を読んだ。2話目を読んだ。私は熱烈に、血の気を後退させ、熱烈に、吐き気を催した。違う、違う、馬鹿な、こんなはずでは。3話目を読んだ。吐き気は加速度的な盛り上がりを見せた。

ここで私は閃いた。もう数話だけ適当なところを読んで、明日になったら教室の中、「『終わらない夏休み』を読んだ」という決して嘘ではない嘘をつき、周囲から羨望と奇異の目を浴びよう、と。

それらの話数なんてもう覚えてはいないが、ぼんやりと内容は記憶している。早鐘を打つ心臓に急かされ、一刻も早くそのミラーサイトのフッターまでたどり着くべくスマートフォンを素早くスクロールし、しかし目に入ってしまったいくつかの記述。

陰唇まわりに数十本もの針を突き刺したり、膣内に大量のタバスコを直接注ぎ込んで身重などと揶揄したり、その塗炭を嘲笑したりする、あの文字列群の為す耐え難い悪辣。

私は自己の極まりない愚かさに気づかされた。しかしそれは、汚泥を啜るような口当たりではなく、むしろ清々しい吐き気として、ただ私は、自称サイコパスを辞めた。

感動ポルノ・ポルノ・感動

感動したい。私は感動したがっている。だって楽しいじゃん、感動するの。

まあ、かほど極端ではなくとも、人間がたいてい感動したがっているというのは間違いないだろう。私もその内の一人である。

障がい者が懸命に生き、何か挑戦をする姿を目玉として放映する24時間テレビは、一部では"感動ポルノ"とさえ揶揄されていながら、いつも多くの人に視聴される。

"ドラ泣き"を売りにする『STAND BY MEドラえもん』は続編を出したし、鬼滅の刃遊郭編のアニメにおいて、鬼の"哀しい過去"回が大トリの長尺シーンだったのは記憶に新しい。

質の優劣に関わらず、莫大に存在するこのような感動系コンテンツは、無論のこと大きな需要によって裏打ちされているのだ。

しかし、何故我々人間は感動したがるのだろう。私はこれについて「感情を揺さぶられたいから」だと思っている。これはトートロジーではない('。

例えば、芯は利用者サンドボックスにて「記憶を抹消し、叙述トリックをもう一度読む」という野望を述べている。これは、もう一度叙述トリックに見事騙されて感情を揺さぶられたいからだろう。

えっとね、なぜ急にこんな当たり前のことをしたり顔で言い始めたのかというとね、つまり私は断固として、公序良俗に反したコンテンツによる感動の形を断固として主張したいのである。断固として!

何だお前、じゃあお前よ、泣ける話だの笑える話だのスカッとする話だのを貪りながらなんでポルノだとかリョナだとかをぎゃあぎゃあぴいぴい排斥するんだよお前、

お前それは、お前それはコンテンツとして成立するなら日陰で繁茂させるべきであってだなお前、それをお前くっだらねえ世間体によってお前、いやお前ゾーニングしてるんだからよお前よ、ほらお前この草子にも注意書きあるだろお前、

故になあ、お前だから公序良俗書けっつってんだろお前、己を解き放てよ馬鹿野郎、だからほらなんか、公序の名のもとに自らの根源的欲求を首肯し、お前だからお前公序書けよお前よ、おい。

だからお前ほら、さっきも言っただろほら、なんか文章ってのはな、素晴らしい効果をもたらすんだよ、ほら、お前じゃあお前美術作品だの漫画だのみてえな小難しい媒体をお前誰もができるわけじゃねえだろお前よ、

でもお前文明人たるものお前母語話者ではあるだろお前せっかく言語活動が可能なんだからよお前文章を書けよ、だからお前文章書けっつってんだろ聞いてんのかコラ、

その点WikiWikiのメインコンテンツは書き物だからよお前、だからお前こんな諦め混じりのゴミ雑文を読んでる暇があるんだったらお前公序良俗に反する記事を書いてだなお前、だから公序良俗に貢献しろってことだよ、お前よ。

えー、大変申し訳ありませんでした。

四肢切断 難しい

もうなんか、『感動ポルノ・ポルノ・感動』の序盤で文章力を使い果たしてしまったので、推敲も何もせずめっちゃ雑に書きなぐるんだけどさ、

まあ、俺はね、正統派公序良俗に反する記事として『四肢切断』を書きてえなあと思ってるのよ。

それがさ、ガチで難しいんだよね。いやまあ、ただ四肢を切断するだけなんだったら簡単なんだけど、やっぱ公序たるもの良い文章を書かないといけないじゃん。

それでさ、まあ、『ゲロ』にも実は四肢切断が入ってるんだけど、これはまあ、片方の腕を切断した時点で失神させてるんだよね。

まあなんでかっていうと、これは俺が勝手に提唱してる概念なんだけど、「公序ボルテージ」を保てなかったからなんだよ。

公序ボルテージっていうのは、なんかこう、なんつーかな、ひどさ具合とでも言うか。

そう、それでこの公序ボルテージがね、まあ記事、というかまあ何かしら一つのコンテンツ内で、一貫して上昇傾向にあるほど良い公序だと思うんだよね。

だからまあ、ゲロなんかでは、これのために最後の切断シーン以外では痛み描写に感嘆符を用いずに書いといて、

それでカタルシスを高めて解放することで、まあなんか技巧的な公序ボルテージの上昇を達成してるんだよ。まあ、そう俺は信じてるぜ('

でもね、それでも四肢切断は一本分の描写が限界だったんだよね。そう、俺の文章力じゃあねえ、公序ボルテージを四肢の切断をまたいで上げていくことがマジで難しいんだよ。

ほんとにこのままだと不可能に近そうでね、まあなんか、途中で爪はいだりとか挟んだりしようかなあとか思ってるんだけど、まあねえ、どうしようかな、ガチで。

うーん、まあ、だから四肢切断はしばらくお預けな感じだわ。うん。いやね、さっきも言ったけどね、みんなもっと正統派公序書いてほしいわ('

よく考えたら、「正統派公序」ってなんだよ(' それもうボランティアとかそういうのだろ('

そう、なんかさ、ゲロ的なのを書いてくれるとさ、ほら、WikiWikiという共同体においていい効果がもたらされるからさ、頼むぜ、マジでよ。

いま思ったんだけどさ、この駄文のタイトル「四肢切断 難しい」ってさ、バラバラ殺人事件に憧れ、それを遂行しようとているものの思いのほか行き詰ってしまった人の検索履歴みたいじゃね?('

ⒸWikiWiki叢書


叙述トリックについて
Notorious
記事「叙述トリック」のネタバレあり。
閲覧する

この文章には記事「叙述トリック」のネタバレが含まれています。
必ず当該記事を読んでから、この文章をお読みください。

叙述トリック」を読んだ人のみ、続きをお読みください。
最後通牒です。ほんとに読みましたね?

拙作「叙述トリック」を執筆するにあたり、私はあることを意識した。それは、あくまで記事であることである。

単に叙述トリックの使われた物語になってしまえば、それはノベルという方が相応しくなってしまう。物語の形式を取っていても、あくまで叙述トリックとは何であるかを解説する文章であろうとした。

その出来はともかく、そうしようとすると、やはり各種叙述トリックを実践したくなる。一例を挙げるだけでは弱い。では、叙述トリックにはどんな種類があるのだろうか? 私は、2つの観点から、それぞれ2つに大別できると思う。

1つ目の観点は、トリックの意義。そう、記事中でも述べた、意味あり叙述意味なし叙述である。詳しい説明は記事中にあるため、割愛させていただく。

では、作中のどれがどっちに当たるか。言うまでもないかもしれないが、「兄は2人いた」という叙述トリックが意味あり叙述、「語り手たちは囚人だった」という叙述トリックが意味なし叙述である。前者はプリン盗み食い犯人当てに関わるが、後者は全くの無関係だからだ。

2つ目の観点は、伏線だ。いや、伏線という観点から叙述トリックを分類するのではなく、叙述トリックという観点から伏線を分類すると言った方が適切かもしれない。その前に、叙述トリックの伏線について少し書こうと思う。

叙述トリックは伏線なしでは語れないほど、両者は密接な関係にある。まあ当然なことではあるが。叙述トリックでは、作者が故意に記述をコントロールすることで、読者になんらかを誤認させる。だが、読者が誤認するということは、その誤った解釈をする方が自然ということである。だから、何も工夫がされていなければ、読者は怒るだけである。「いや、どう考えてもこの解釈が正しいだろう!」と。それを防ぐのが伏線の役割だ。「いいえ、あなたの解釈はあり得ない。だってここにこう書いてあるじゃないですか」と、納得させるのだ。このように、叙述トリックには伏線が必要不可欠なのだ。伏線が効果的かつ自然であればあるほど、それはいい伏線だと言える。

閑話休題、ならば伏線はどのように分類できるか。私は、その特性ならびに発動する時によって、2つに大別できると思う。その2つとは、論理的伏線(解決編伏線)感覚的伏線(再読時伏線)だ。ただし、意味あり・なし叙述とは違い、これらの概念は完全に私のオリジナルである。

では、詳細について述べていこうと思う。まず、論理的伏線とは、それが伏線であることに気づくには、論理立てて考えないといけないものだ。わかりにくいから、「叙述トリック」から例を出そう。例えば、部屋のドアの開き方のくだりである。これは、まず記述から「ドアの開き方が違う」ということに気づき、そこから「部屋が別」「つまり人も別」と考えを働かせていかねばならない。また、お誕生席云々も同様である。このような伏線は、模範解答を示さないと、そもそも伏線であることに気づいてもらえない。そうなっては伏線の役割を果たせない。だから、解決編で回収が行われる。そのため、驚きは解決編を読んでいるときに訪れる。これが、論理的伏線ないし解決編伏線だ。

もっとも、いわゆる最後の一撃フィニッシング・ストロークのために、種明かしを必要最低限にし、詳しい説明を解説がやるなんて作品もある。解説がついてない単行本じゃあ売れなかったのもわかるよ。だって意味不明な終わり方だもん。

では次に、感覚的伏線。これは、論理的伏線とは反対に、理解に論理的な思考がいらない伏線だ。なら読まれた瞬間見破られるんじゃないかって? いや、他の記述によって、誤った解釈に誘導されてしまうのである。そのため、誤認が明らかになった後、もう一度読んでみると、「どう考えてもこう解釈する方が普通じゃないか、なぜ気づかなかったんだ!」と歯がみすることになるのである。楽しい。この瞬間のために生きてるまである。

このように、再読時に効果を発揮するから、再読時伏線と命名した。逆に、このような伏線はあまり解決編で回収されない。なぜなら、作中人物は至って当たり前の言動をしているだけで、読者が勝手に勘違いしているだけだからである。非叙述トリック、例えば密室トリックなどは、解明されれば登場人物も驚く。しかし、叙述トリックは違う。かかっているのは読者、かけているのは作者であり、登場人物は一切関わっていないからだ。

これも「叙述トリック」で例を挙げるなら、語り手が労働について話す場面や、登場人物がガールフレンドに「面会」しに行く場面だろうか。成否はわからないが、作者としては、再読時の驚きが増すよう意識した。単に「働いた」と書けば、まさかそれが刑務作業だと考える人はいるまい。見破られないようにするにはこれが一番確実だ。でも、驚きという面ではよろしくない。先入観なしに読めば真相が丸わかりであるような記述であればあるほど、読者の驚きは増し、叙述トリックの質は上がるのだ。

余談だが、個人的には論理的伏線が上手いのがとある大御所作家、感覚的伏線が上手いのがとある寡作な作家だと思っている。前者の某作品の、あまりの伏線量とスケールのデカさ。後者の某作品を読んだ時の、感嘆と多幸感、そして伏線の大胆さ。忘れがたい体験だ。叙述トリックが仕掛けられていると言ってしまった時点でネタバレになるため、大々的に言えないのが悲しい定めだ。そのくせ、あらすじや本の帯なんかには「驚異のどんでん返し!」「世界が一変!!」などと書いてある。死ね。だが、知らずに不意打たれた時の衝撃や、薄々わかっていても想像を超えられた時の感覚は素晴らしい。

追記になるが、某作を読んで、叙述トリックの可能性を最近感じた。叙述トリックは、読者に何かを誤認させるものだ。だから、読者が勘違いして思い描く「虚像」と、真相たる「実像」があるわけである。そして、この両者の間の隔たりが大きければ大きいほど、驚きは増す(傾向にあると思う。一概には言えないけど)。桃太郎が仲間を連れて鬼退治に行く物語だと思っていたのに、実は亀に連れられて竜宮城で享楽に耽る話だったらびっくりするだろう。しかし、限界というものがある。亀に連れられて竜宮城で享楽に耽る話を、桃太郎が仲間を連れて鬼退治に行く物語に見せかけるのは至難の業だろう。どんなトリックを使えばいいのか見当もつかない。

しかし、しかしである。私は先日、某作を読んだ。君も読め! その作品は終盤、怒涛の展開を迎えた。私は何が起こっているのか、しばし理解できなかった。ありえないことが語られているのである。しかし、混乱した頭でなおも読み進めると、朧げながら別の「像」が見えてきた。ありえない像だった。そこで私は焦ってページを巻き戻した。なんとなんと、ありえたのである。まさに離れ業であった。唖然呆然、世界が見事なまでのシライ3を決めたのである。

この離れ業を成り立たしめたのは、叙述トリックの組み合わせ技であった。明言は避けるが、二つのトリックを用いて二つの誤認を生じさせ、実像とはねじれの位置にある虚像を、読者の目に映し出したのである。叙述トリックは、あまり種類があるわけではない。亀を雉に、玉手箱をきび団子に、乙姫を鬼に見せかけるトリックは存在しない(いやあるかもしれんけど)。だが、たとえ単純なトリックでも、それらを組み合わせることで、全く違う虚像を見せることができるのだと、私は知った。叙述トリックが10しかなくても、そこから二つ選ぶ組合せは45にものぼる。叙述トリック界の未来は、まだまだ明るいなあと、私は嬉しくなったものである。

ここまで、私が叙述トリックについて考えることを書いてきた。「叙述トリック」を書いてみて、やはり名作と言われるものには到底及ばないなと感じた。発想もそうながら、驚きを演出するための筆力と大胆不敵さ。プロの作家はやはり物凄いと思い知った。拙作は優秀な叙述トリックものとは言えないだろう。でも、もしあなたがこれをきっかけに、叙述トリック作品に興味を持ってくれたなら、そしてあの驚きを味わってくれたなら、これほど嬉しいことはない。でも、「叙述トリック 名作」とかでググってくれるなよ? 絶対な? 広範にミステリに手を出して、偶然ぶつかるのが一番幸せな読み方だぞ??

では、あなたが、ついでに私も、これからいい叙述トリック体験ができることを祈り、締めさせていただく。

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労働と自由
キュアラプラプ
単純労働と自由労働、その分水嶺はどこなのだろうか。
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 タイトルから社会主義的主張を語る草子を期待してしまった人がいたら申し訳ない。なんも関係ないので('

 さて、私は記事分類学に新たな視点を見出してみた。そう、「労働」だ。

 労働記事とはつまり、クリックなり何なりの行動を読み手にさせることについて、全体を通して主軸に据えた記事である。そして、これは自由度の程度によりさらなる分類が可能だ。

 現在、労働記事の主流は、自由度が低い「単純労働記事」である。デバイスの画面を全選択することによって隠された記述が浮かび上がってくる「あぶり出し」に始まり、表の展開をギミック的に用いている「『呪術廻戦』ファンの夢を叶えるページ」「『呪術廻戦』ファンの細やかなニーズに応えるページ」「展開s」、記事内リンクによる移動で記述を進行させる、「粛清されました」「今、死ぬ?」「死ねカス」などがあたる。

 これら単純労働記事の本質は、つまるところ誰が操作を行っても同じ結果になるというものだ。誰がCtrl+Aを押しても、誰が[展開]を押しても、その出力は完全に一つだけに定まるのである。

 この点において、「ヨーグルト」は特殊なものとなっている。「労働」は「ガチャを引く」を押すというだけなのだが、その結果はランダム性を持っており、人によって違う出力がなされるからだ。

 ただし、この性質は読み手の行動に起因するものではない。モジュール:選り抜き記事によって生じるランダムな数値を{{#switch}}の引数として、それらの返り値の分布を操作することで、ヨーグルトガチャは確率的に記述を変化させているのであって、これは読み手の操作といえるものではないのだ。

 このことから、「ヨーグルト」は、自由度の高い労働記事というよりはむしろ、「ヨーグルトガチャを起動させる」という結果をもたらす単純労働記事に近いものとされるだろう。

 そして、自由度が高い「自由労働記事」。これは、操作について読み手に選択の余地があり、なおかつその操作によって違う結果が生じるというものだ。現在、自由労働記事には「デデ二オン」と「便所の落書き」の二つがある。

 自由労働記事の利点は、当然ながら没入感を高められることだ。自分のとる行動がページに影響していく、というのは、臨場感を醸成させることを容易にする。文字媒体のみでそれを作り出すのには、かなりの、もしかするとプロ並みの筆力が必要になるだろう。しかし自由労働記事では、それを構成するのが素人の書く文章であろうと、完全に読み手をページの中に設置することができるのである。

 しかしながら、問題とまではいかないがちょっとしたデメリットもある。それは、作者に大変な気力がいることだ。自由労働記事をちゃんとしたシナリオを組んだうえで作るためには、莫大な選択肢の組み合わせにおいて読み手が通るルートを全て想定し、その論理的整合性を検証しまくらなければならない。とにかく作業量が多いのだ。ガチで大変である。ガチで。

 さらに、作者のみならず読者にも気力が必要だ。このため、少なくとも「トートロジー」や「円周率」のようなコンパクトに刺してくる記事には全然向かない形式である。

 しかし、頑張って練った記事案をこのような形に落とし込めた時の達成感にはエグいものがあるので、常習者諸賢も、是非とも自由労働記事を書いてみてはいかがだろうか。


おまけ:「便所の落書き」制作の経緯

 「トイレという狭い閉鎖空間から、壁に書かれてあることを頼りにしながら脱出する」という着想は、有名な意味怖の「右を見ろ」みたいなやつからきている。トイレの壁にある情報源として、現実的にもっとも自然なのはまあ落書きであったので、これをもとに「治安が悪いトイレ」という舞台設定からシナリオを考えていった。

 そしてもとより、私はこれを労働記事として書くことに決めていた。つまり、いわゆる脱出ゲーム的なものを作るためには、自由労働記事の形態が不可欠であったのである。

 「粛清されました」や「死ねカス」の経験を継いで、アンカー(#の後のやつ)を駆使していこうと考え、最初にその方法として思いついたのが「カウント」と「フラグ」の導入であった。

 読み手を時間経過によって殺すために、操作(=選択)の回数を記録する役割を持つ「カウント」と、エンディング分岐のための条件を満たす操作をしたという記録を引継ぎ、どこでも参照できるようにする役割を持つ「フラグ」。これらをアンカーの名前に組み込むことで、各状態を管理する、という形である。例えば「#3a」の状態だと、操作を3回行っていて、プラスドライバーを持っている、的な感じだ。フラグはアルファベット一字に割り当てている。いわば、古のドラクエの「ふっかつのじゅもん」みたいなものだ。知らんけど('

 また、操作と操作の間に、読み手に何が起こったのかを知らせるやつも必要だったので、フラグの下位概念として説明フラグを取り付けた。トイレットペーパーをクリックしただけで、何も説明されずとも自分がプラスドライバーを入手したことに気づく人はいないだろう。多分('

 さらに、説明フラグにもさらなる下位概念としてサブ説明フラグを取り付けた。これは、例えば「#4ac」の状態(操作を4回行っていて、プラスドライバーとスマホを持っている)の説明フラグ状態「#4acn」に到達するには、「#3a」からスマホを取るのと、「#3c」からプラドラを取るのの二つがある。このため、「#4acn」を「#4acna」と「#4acnc」のように分割したりした。ここら辺から訳が分からなくなってきたので、サブ説明フラグの位置はものによって違ったりしている。(例えば「#5abc」の説明フラグでは、サブが後ろの方にある「#5abcnb」「#5abcnc」「#5abcng」と、前の方にある「#5abcdn」「#5abcen」「#5abcfn」がある。わけがわからないよ。)

 そんなこんなしていくうちに、エグイことになったのだった。当記事のソースの<div id="なんちゃら">の部分を見てもらえれば分かると思うが、めちゃくちゃ多い。死ぬ。死んだ。

 その後も、選択ハブやら壁やらイベントやらの状態(つまりその各種類と各リンク先たち)を指定するテンプレートを作ったり、あるアンカーのときにそれと対応するやつだけを表示させるためのcssを書いたり(これはびっくりするくらい短く行けた。疑似クラス「:target」を教えてくれた管理者に惜しみない感謝を。)、うわあああああああ!!!だった。

 結局、下書きやら構成やらギミックの整理やらのために使ったパソコンのテキストファイルは実に11個、総計約125KBとなった。ピロリ語よりデカいじゃねえか。

 まあでも、頑張った甲斐あってめちゃくちゃ満足している。ガチのバグっぽいのを見つけたら、遠慮なく報告し、給え。

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徒然草@ミステリ執筆
Notorious
徒然なるままに書きつくった駄文。随時追加。
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この草子には、『顔面蒼白』のネタバレが含まれます。必ずこれを読んでからこの草子をお読みください。

小説としてのミステリ

推理小説は、当然だが小説に含まれる概念である。よって、小説としての体裁が整っていないと、ミステリ的評価の前に駄文となってしまう。

私がそんなことを思ったのは、現在(2年9月15日)私が『田中邸事件』の執筆に苦心しているからである。これまでに連続して書いてきた『陽成祭事件』や『顔面蒼白』は、そんなことなかった。筆がのっていて、後者なんか改稿を除けば2日で書けたくらいである。でも、『田中邸事件』はいまいち筆が進まない。どうしてだろう? 考え、私は結論に至った。それは、小説的に良くないからだと。より具体的に言えば、「小説としてのテーマの欠如」である。

『陽成祭事件』は『名探偵武者小路の事件簿 消えた打出の小槌の謎』のリメイクであり、動機とかキャラの立たせ方は物語らしく工夫した。それに加え、リメイクに際してあるテーマ(まだ発表していないので明言は避けさせてもらう)を据えて、小説としている。

『顔面蒼白』は、もともと文芸部の文集に載せる話ということで、小説になっていなければ話にならない。これにおける小説としてのテーマは、犯人が追い詰められていく過程である。まあ、元からこれを狙って書いたのではなく、書いてみたらこうなって嬉しいというのが実際のところではあるが。

このように、今まで書いた2作には、それぞれ小説としてのテーマが核となってあるのだ。だから筆がのった。

しかし、『田中邸事件』にはそれがない。その原因は、もともとが推理"クイズ"用のシナリオであるからだ。つまり、筋書きが全てで、キャラクターなどは幾らでも替えが効くのである。だから、これをそのまま小説にしようとすると、核となるテーマがないから、こんな風に苦心することになる。

だから、今からどうにか小説的テーマを付加させようと私は思っている。情景描写に特化させようか、あるいは主人公に何か苦悩させようか、それとも倫理的問題を提起しようか。

まあ、つまるところ、『田中邸事件』の完成はまだ暫く後になりそうである。


理想のロジック

ロジックは、私が目指すミステリには必要不可欠なものだ。犯人当てに限らず、どんでん返しものにも時には必要となる。真相を導き出すため、また導き出せたのだと読者に納得させるため、作者はロジックを腐心して案出する。

ロジックの基本的な形は、こうだろう。誰が犯人か、あるいはどうやって犯行をなし得たか判らない茫漠とした自然状態がある。そこで、ある手掛かりから導かれる推論が、自然状態と食い違う。そこで、犯人候補が特定ないし除外されるのだ。

私が理想と思うロジックは、この"手掛かり"の意外性が高いものである。

誰かが刺殺された事件で、そのナイフが手掛かりとなってロジックが派生するのは、あまり好ましくない。なぜなら、手掛かりになりそうなものだからである。読者は「それが手掛かりかも?」と思っているだろうし、見破られやすくもなる。ただ、盲点をついた意外な論理を思いつければその限りではないが。誤解しないでいただきたいのは、この論は私が"執筆する"時のことであって、プロ作家の作品を批評するものではないということである。

閑話休題、私は意外な手掛かりから導かれるロジックが理想的だと考えているのだ。その点、『顔面蒼白』の木刀のロジックは気に入っている。成否はわからないが、不意を打てていたらいいなと思っている。

あのロジックの肝は、僅かに余談に出たのみの木刀が、ラストで主人公を追い詰めるところである。あの余談を聞いた時点で、よくよく考えれば、主人公は寝室に木刀がある蓋然性が高いと判断できたのである。犯人が最初からわかっている倒叙ミステリでは、ロジックはこういう使い方をするんじゃないかなあと思っている。あまり読んだことがないのでよくわからないが。

繰り返すと、「意外な手掛かりからロジックを派生させたい」ということである。プロの作品を引き合いに出すと、相沢沙呼の『マツリカ・マトリョシカ』とか最高である。

どうにかいい感じのロジックを思いつけないものだろうか。


枠と骨

ミステリを執筆するには、主に2つのものを思いつく必要があると私は思う。それを、私は「枠」と「骨」と呼んでいる。

枠とは、大まかな話の流れである。犯人当てなのか、倒叙ものなのか。事件はいつ起こるのか。名探偵はいつ登場するのか。結末はどうするのか。そういうシチュエーションのようなものを、枠と呼んでいる。これは、発想力次第で面白いものをどんどん思いつける。

一方、骨とは、ミステリ的仕掛けのことである。ロジックやトリックの、考え抜かれたもの。これがないと、ミステリとして成立しない。私は大体これを思いつけなくて苦吟する。

枠だけでは、細部が何も決まっていないから、物語にできない。骨だけでも、それを生かす物語がないから、推理小説にはできない。2つが揃ってようやく、ミステリができるのだ。

私の場合、枠のストックはそこそこある。なぜなら、妄想を膨らませるだけでいいからだ。かと言って、骨のストックが皆無であるわけでもない。『青桐湖事件(仮題)』に使おうと思っていた骨が、無期限凍結されている。枠の力で瑕疵を乗り越え、どうにか形にならないかと思っている。

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不快感による自由の制限について
これはフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。
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 ツイッターをしていて、「表現規制」という言葉を見ない日はありません。毎日誰かが、小説や漫画、アニメといった創作物を取り上げて、「この作品は気持ち悪い」「この作品のこういうところが不愉快だ」だとかいって非難し、しまいには「この作品は受け手を不快にさせるから締め出すべきである」と結論づけて規制を訴えるのです。規制しないことによって誰がどの程度傷つくのか、社会がどのような不利益を被るのか、よく検証された主張であればまっとうだと言えそうなものですが、残念ながら、そのような根拠によらない主張も多いのが現状です。これらの言説が、表現者を圧迫する、受容しがたいものであることは、ほとんど誰の目にも明らかだと思います。

 そしてこれは、表現行為に限った話ではありません。個人の自由として認められるべき諸々の行為が、あくまで独善的な他者の不快感のみを理由に、不当で苛烈な制限を受けているのです。では、そのような自由の制限は、果たしてどこまで容認されるのでしょうか。

 仮に、高校生のAさんが、クラスメイトのBさんに対し、日常的に暴力を振るっているとしましょう。Aさんは軽いノリのつもりで殴っているのですが、これがかなり力強く、Bさんの方は殴られるたびにつらく悲しい気持ちになります。耐えかねたBさんは、保護者や先生に相談するなどして、Aさんの、好きなときに暴力を振るうという一種の自由を制限しようと動き出すことにしました。さて、この制限に異議を唱えようとする人は、なかなか居ません。もしすべての人に暴力の自由が与えられれば、社会はきっと殺伐とした困難なものになってしまうのですから、制限するどころか、そのような自由ははなから認められていないわけです。

 しかし、次の場合はどうでしょう。Cさんという高校生が、Dさんというクラスメイトをひどく嫌っているとします。Dさんはとてもよい人なのですが、Cさんはその風貌や喋り方がどうも気に食わず、Dさんが視界に入るたびに面白くない気持ちになります。嫌気が差したCさんは、Dさんに「君を見るといつも不快になる。クラスを替えることはできないのだから、もう学校に来ないでほしい」と言ってしまいました。果たして一体、どこの誰が、どのような事実を根拠に、この独り善がりな制限を容認するというのでしょうか。小さな嫌悪感や不快感から来る負担は、たしかに、時として深刻な問題に発展することもありますが、多くの場合、人はそれに耐えることができます。そもそも人を嫌いになるということは、人間にとって何も特別なことではなく、むしろ頻繁に起こりうることです。それゆえに人間社会は、誰かを嫌いになった個人の一々に何か対策を講じることをすでに諦め、代わりに、その軽度の負担を人々の方に我慢してもらうことを選択しているように思えます。この例で言えば、Cさんの不快感は、Dさんの登校禁止によってではなく、Cさんの忍耐によって解決されるべきだ、ということです。

 自宅のドアを破壊されて怒らない人はめったに居ませんが、インターフォンを鳴らされたくらいで電気代を払えと凄んでくるような人はもっと居ません。壊されたドアを直すのにはかなりのお金と時間がかかりますが、インターフォンが音を鳴らすのに消費される電力なんてかわいいものです。それはたしかに損失ですが、訪問という、社会の中でも基本的な営為のなされるたびにわざわざ請求していてはきりがありません。個人にとっても、社会にとっても実に無駄なことです。

 このように、人が被る損失というものは、たとえそれが誰か他の人の行為に由来していたとしても、その誰かの自由を制限する理由にならない場合があります。家を建てるものがインターフォンを鳴らされることを承知の上でいるのと同様に、社会の中に生きる私たちが日々小さな不愉快さを抱かされることは、ある程度自分の中で許容しなければなりません。社会生活は、ノーコストではありえないのです。

 このことを顧みないケースは、冒頭でも挙げたツイッターにおける表現規制主張のような社会問題から、私たち高校生の人間関係における小さなトラブルに至るまで、さまざまな形で見受けられます。情報化が進んで各人の発言力も大きくなりつつある昨今、個人が個人の自由を実際に制限できてしまうことはそう珍しくありません。今こそ、あなたが不快でありたくないという思いが、社会にとっていかに無価値であるか、慎重に考えるべきです。

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What We Can Learn from Twitter
A Script for a speech: Twitter is wonderful.
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    To be honest, I am spending much time of my life using Twitter. As for my most active account, I have ever opened some twenty thousand tweet to the public. Also, I surf on Twitter every night and everyday looking for the more interesting tweets. I cannot even assume my life without Twitter. I am made by Twitter. I am living because I am doing Twitter. This is what I am. Yes, as a student, it may be regarded as a little bad thing for sure. I know this. But I want to speak honestly to the people being here that Twitter has a chance to make it more wonderful to live in every lives of every high school students. So if a high school student is not still a Twitter user, then I willingly say he should start it. I have two reasons to follow this.

    First, we can associate with other students. I belong to quiz club in high school, and some of the members by themselves follow many people that also play quiz in other Japanese high schools. In this way, we can exchange our information, or even plan together to join a competition. This is my first reason.

    And my second reason, the biggest for me, is that we can know much about university students by doing Twitter. There are many Twitter users that are university bachelors, masters and doctors. They are exactly what we are going to be, so I believe that we high school students can learn a plenty of things from them. Most of them always tweet about their school life or about what they are learning in the university, and they can be very helpful. I would like to show you an example on one person. He is on 4th grade of bachelor in Kyoto university, and studies mainly linguistics, and also some foreign languages such as English, French, Italian, German and Arabic. His tweets tell me a little about how his university life is going. For instance, he tweets about the atmosphere in the lectures, characters of the professors, and his lifestyle of living alone in his room of the apartment. His word is always clear, so I can easily imagine what it will be if I become a university student. This connects directly my motivation of daily studying at home and school. Of course he even does academical tweets, too. He loves linguistics and languages, so he often introduces the attractiveness of linguistics, and the charm points of a particular foreign language considering in terms of linguistics. Despite the fact that I cannot understand many parts of his tweets, they help me get used to the world of languages. This is very special for me, because I like languages. Since his tweets are extraordinarily marvelous, one day I decided to follow him. Then, what do you think that happened after that? Astonishingly, he gave me following back. From that day, I even sometimes talk with him about a wide range of topics on Direct Message. I am learning many new things with Twitter day by day. What kind of university students will be helpful no doubt perfectly depends on a person, but I assure that no one will fail to find someone great because the world of Twitter is tremendously spacious. And this is my second reason.

    In the society's common view, it seems that high school students' being obsessed with Twitter stands for laziness and darkness. However, as I stated just now, it has numerous advantages for us. If we use it very well, our future will be bright and shining. Let's never underestimate its effect. Let's not forget its magnificence. And let's begin Twitter.

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現代中国語を訓読する試み
漢文を楽しんだよ!
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 高校の漢文はじつに楽しい。語彙を、句法を、訳例を、覚えれば覚えるほど理解が進む。楽しい。楽しすぎる。なんか、原初のよろこびを感じる。楽しい。この暑さに頭蓋骨もろとも脳みそをやられて死にかけているのだが、楽しいことをしていれば生き残れる気がする。快楽は生存の源なのだから。楽しい漢文で何か楽しいことをして遊べば、その楽しさが私を生かしてくれるはずである。

 何をして遊ぼう。かの『知識から文脈へ 理解をふかめる 精説漢文』でも読もうか。否、あれはたしかに面白いが、決して酷暑に打ち勝てるほどではない。それに、今に茹でだこになりそうな脳に、まとまった知識をインプットするのはあまりよくない。

 やはりアウトプット――白文を自分で訓読するなどしようか。きっと楽しいにちがいない。白文はどこから調達しようか。漢字辞典の付録「名詩百選」の漢詩は難解すぎるし、歴史書の漢文も難解すぎるし、漢文学なんて難解すぎるし……ああ、漢文はことごとく難解だなあ!

 難解な漢文が存在しなければ、難解でないが漢文に取って代われる何かを探しなさい――そう、米野栄作の言葉である。漢文に代用可能な何か……はっ、現・代・中・国・語!

 というわけで、愚かなペヂァの項目「麻薬」にアクセスし、その言語間リンクで見つけた中国語版「麻醉藥物」の導入部をピックアップしてみる。つまり、以下が白文となる。

麻醉药物(英語:narcotic)又称毒麻药,最早泛指能夠導致人類進入睡眠、昏迷或無知覺狀態的藥品。在美國,它被用來指稱鴉片類藥物,如鸦片、海洛英、吗啡、杜冷丁,或是鴉片類藥物的衍生物,如可待因酮(oxycodone)、氫可酮(hydrocodone)。因此,這個名詞在現代具有負面意思,通常被用來指法律上禁止使用的藥品,也就是毒品(Prohibition of drugs)。

麻醉药物和精神药物是构成毒品的两大来源,联合国制定有《麻醉品单一公约》以控制吸毒问题。

 短いようだが、これだけでもかなりの困難を伴うことになるだろう。よい書き下し文を書くには、現代中国語とはいえ、正確な漢文訓読の方法を一定以上模さなければならないからだ。

 さて、真夏の熱気に苦しみつつ、以下のような書き下し文が、拙いながらも一応の完成を見た。ただし、愚かしいことに原文で簡体字と繁体字が混交していたので、この際、漢文っぽさを醸し出すためにもすべて繁体字で統一して置き換えた。

麻醉藥物ますいやくぶつ(英語:narcotic)また毒麻藥どくまやくしようするは、もつとはやくはあまね人類じんるいこう導致どうちして睡眠すいみん昏迷こんめいあるいは知覺ちかく狀態じようたい進入しんにゆうせしむるの藥品やくひんす。美國びこくりては、鴉片あへんるいする薬物、鴉片、海洛英ヘロイン嗎啡モヒ杜冷丁ドランチンごとき、或いはれ鴉片に類する藥物の衍生物えんせいぶつ可待因酮オキシコドン(oxycodone)、氫可酮ヒドロコドン(hydrocodone)の如きを指稱ししようするに用來ようらいせらる。これりて、這個この名詞めいし現代げんだい負面ふめんなる意思いし具有ぐゆうし、通常つうじよう法律上ほうりつじよう使用しようするを禁止きんしせらるるの藥品、すなわ毒品どくひん(Prohibition of drugs)なるをすに用來せらるるに在り。

麻醉藥物と精神藥物せいしんやくぶつとは是れ毒品のりよう大來源だいらいげん構成こうせいし、聯合国れんごうこく制定せいてい麻醉品單一公約ますいひんたんいつこうやくり、もつ吸毒問題きゆうどくもんだい控制こうせいす。

 はあ、楽しかった。やはり酷暑には訓読がよい。今度またやってみようかな。諸賢もやってみてはいかがだろうか。まあ時間はかかる。全文を英訳して文意をつかみ、『精説漢文』とWeblioの中国語辞典とその他資料文献とをはしごし、それでも解釈しづらい点が多くあったので、LINEオープンチャットの中国語コミュニティに参加して質問を投げまくったりした。特に「夠」「用來」辺りはひどく悩まされたし、何なら今でもどうすべきだったか少しも分からないし、頭は普通に茹でだこになった。この短い試訳を仕上げる手間で膨大な時間が泡のように消え失せたようである。え、てか日付変わってるじゃん。昼間の暑さとか欠片も残ってないし。やはり途中で Twitter いじったり読書したり数独したり寝たりしたのがまずかったか……。

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第2回伝説の記事選考 推薦文
第2回伝説の記事選考で寄せられた、熱烈な賑やかし。
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推薦者Notorious 推薦記事キュアラプラプ便所の落書き
推薦文

 この素晴らしいコンテンツ、WikiWikiが管理者様の手で生み出されてから、そろそろ二年が経とうとしています。その中で、常習者たちは300を超える記事を生み出してきました。そして、今年もその中から「伝説の記事」の称号を決める催しが開かれます。私は、その称号にキュアラプラプ作「便所の落書き」を推薦させていただきます。  その理由としましては、ひとえに「この記事が、他の記事と一線を画す出来であるから」ということに尽きます。もはや、これに比肩し得る記事は、まだないとさえ言える。私はそう思っています。
 では、この記事のどんな点が、そう言わしめるほど優れているのか。
 まず特筆すべきは、完全な「自由労働記事」であるという点でしょう。この概念については、キュアラプラプ氏の随筆「労働と自由」に詳しいので、それをお読みいただきたいです。さて、現在(2年12月22日)、自由労働記事は、本作と「デデ二オン」しかありません。しかし、後者は別に深く考えずに適当に作っていると言っても過言ではないでしょう。正直「便所の落書き」と比べるらくもないです(弟補正あり)。というわけで、ちゃんとした自由労働記事は、本作しか存在しないと言えます。それが、この記事に比肩し得る記事が他にない理由です。いわば、自由労働記事は、そうでない記事とは次元が違うのです。
 記事とは、用意したテキストや画像を読ませるものであり、記事を読むことは、完全に受動的な活動でした。労働記事という概念が登場するまでは。労働記事において、読者はリンクをクリックするなどの能動的な操作をし、そうすることで初めて記事が完成します。読者の楽しみ方が、一変したのです。しかし、ほとんどはキュアラプラプ氏の言うところの「単純労働記事」でした。誰が操作しても、同じルートを通ることになる、自由度の低いもの。一方、「完全労働記事」は、読者の数だけの楽しみ方があり、物語の進行は完全に読者に委ねられています。記事を読むということが、能動的作業に変わったのです。これは、「便所の落書き」の登場は、WikiWiki史に残る革命と言っていいでしょう。
 完全労働記事となるために、「便所の落書き」には想像を絶する工夫がなされています。まず、エンドを複数用意し、それに至る道筋を分岐させる。これを、キュアラプラプ氏は持ち前のCSS等への造詣の深さをもってして、実現させました。そして、それに見合うシナリオ。謎めいた状況と、失敗を繰り返す中でおぼろげに見えてくる真実。生還に向けて試行錯誤する楽しさと、ついに成功して真実を知ったときの興奮。そして、最後のエンドに辿り着いた瞬間の猛烈な戦慄と感動。すべてが無二の経験でした。
 これまでも、キュアラプラプ氏は驚くべき発想力とそれを実現する能力で、数々の素晴らしい記事をものしてきました。その中でも、脱出ゲームを記事に落とし込んでしまうという偉業を成し遂げた、「便所の落書き」はとりわけ素晴らしく、伝説の称号に相応しい記事だと思います。

推薦者キュアラプラプ 推薦記事Notorious叙述トリック
推薦文

もしあなたが「叙述トリック」をまだ読んでいないのなら、これを開く前に必ず読んでおいてください。

あなたは「叙述トリック」を読んだことがある人ですね。あなたのやるべきことはただ一つ。もう一回読んできてください。

 年の瀬。あさましい。すずらすずら。伝説投票。私が第2回伝説の記事に他薦させていただく記事は、この通りNotorious作「叙述トリック」です。言わずもがな、理由はこれに尽きます――圧倒的な完成度です。この記事には、WikiWikiという全世界を包含するコンテンツにおいてさえその記事名を冠するに足る、いやむしろ有り余るような高品質の叙述トリックが、それも二重に仕掛けられているのですから。
 この記事を開いた初見の読者がまず目にする事になるのは、当然ながらその記事名「叙述トリック」です。そして視線を下に向けると、何やら会話文が連なっているらしい。物語形式の記事だろうか。読者はここで既に、「この記事のストーリーには叙述トリックがある」ことに気づかざるを得ません。――Notorious氏の本作についての草子「叙述トリックについて」の余談部分にもありますが、ふつう何か叙述トリックの用いられる文章について、これに「叙述トリックものである」と言及することは、悪魔の所業とみなされます。なぜなら、Notorious氏によるところの「感覚的伏線」は、読者の無意識のうちの誤認識を操作して作り出すものだからです。読者が自身の先入観に極めて敏感になれば、時にそれは脆く崩れ去ってしまうのですから。
 しかし「叙述トリック」は、文字列の並ぶいの一番に、再帰的叙述トリック匂わせを発生させています。記事名をタイピングする度に、ひしひしと感じられる大胆さ。この記事名はきっと、Notorious氏から読者への挑戦状なのでしょう。裏を返せば、同氏はこの記事を読む人が「薄々わかっていても想像を超えられた時の感覚」を抱くと確信しているということです。――しかし何より恐ろしいのは、このビッグマウスも、彼のウルトラビッグ叙述トリックパワーに比べると相対的に小さく見えてしまうということでしょう。
 物語は、「タケ」の視点で述べられる「起」「承」「転」「結」と、その間に入る小島健児の回想、「序」「破」「急」とで構成されます。回想で示されるのは日常の謎。「破」における記述によると、プリンを食べることが可能である人間は存在しないはずですから、読者は「自分は何か騙されているに違いない」と、叙述トリックを見破るため奔走するわけです。
 その成否はさておき、「急」で犯人は判明し、その次の「結」で種明かしが行われます。用いられていた緻密な叙述トリックは、「兄が二人いること」でした。ドアの開き方の差異から、論理が鮮やかに展開していく。なるほどこれが伏線だったか、いやあ素晴らしい記事だった――

 終わりの六行。もう一つの「隠された」叙述トリック。「タケ」もとい山田たけし。彼ら愉快な男四人は、服役中の囚人だったのです。
 ――「トラブルを起こして大学を退学になり」「誰が進んで野郎共と一つ屋根の下で住むものか。」「給料は信じられないほど少ない。」「あの仕事を目指そうかしら。まあ無理か。」「もしそうなら、彼女さん、小島さんに相当入れ込んでるんすね」「こんな底辺の暮らし」「僕らは季節に関係なく9時には寝る。」――などなど。伏線のバーゲンセールだあ!!!
 思えば「転」では、「意味なし叙述」についての言及がありました。先述の物語の二重構造という点にしてみてもそうです。この記事の中で使われている伏線には、個々の叙述トリックに対応する「回想の中の論理的伏線」「たけし視点の感覚的伏線」の二つのみならず、「ダブル叙述トリック匂わせ伏線」というメタなものまで存在していたのです。

 この通り、いや私などにその素晴らしさが語りつくせるなどとは思っていませんが、この記事が圧倒的な完成度を持っているということには頷いていただけたでしょう。このような素晴らしい二つの叙述トリックを、華麗な構成で一つの記事にしてしまう、Notorious氏の脳の容積は何キロリットルなのでしょうか? これが「伝説の記事」でないのなら、いったい「伝説の記事」とは何なのでしょうか?

ⒸWikiWiki叢書


海辺のカフカを読んで
Mapilaplap
何をとち狂ったのかMapilaplapが数ヶ月遅れで刃牙子に提出した読書感想文。文字数制限など彼の前では無力!
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 海辺のカフカを読み終え受講室から出ると、そこには彼がいた。彼はリュックサックを背負って、駐車場に座り込んでいた。
「話をしよう」  
 彼は言った。  
 僕は黙って横に座る。彼は空を見上げた。辺りは日が暮れる前の、闇が染み出してくるような、この時間特有の気配がしていた。何者かがゆっくりと、しかし確実に光を束ねて、明日へと運んでいくのだ。  
 僕は彼に向けて言葉を放つ。
「君に話したいことがある。多分一方的に話すことになるけど、聞いてもらっていいかい?」  
 彼は親の機嫌を伺う雛鳥のような、痛々しい笑顔で答えた。
「もちろん。君の好きなようにすればいい」  
 彼はいつもそういう笑い方をする。痛々しく笑うのだ。その痛々しさがどこから来るか、僕は知らない。時々考えてみることがある。彼の笑顔に痛々しさを見るのは、僕が彼に痛々しい負い目があるからなのではないか、と。でもその度に僕は思う。彼の笑顔にあるその痛々しさは、彼に生まれつき備え付けられていた物なのかもしれないと。もともと僕は彼にその負い目を感じる前から彼と過ごしてきた。しかしその時が訪れるより前の彼の笑顔を、僕はどうしても思い出せないのだ。僕はこの問答を幾度となく繰り返してきたのだが、答えに辿り着くような気配は全くない。むしろより混乱していくように感じる。僕は彼の笑顔を見るたびにそういったことを考えてしまう。  
 僕は最初のひと言を話し始めようと、息を吸った。しかしそれは緩やかに空を切った彼の手によって止められてしまう。
「悪い。少し散歩に行かないか」  
 彼は僕に向き直って言った。
「散歩しながら君の話を聞きたいんだ」

 
 ❇︎ ✴︎ ✳︎

 
 僕らは道なりに歩いていた。辺りには冷たい風が吹いていた。僕はひとつひとつの言葉を確かめるように話し始めた。
「君は芥川龍之介の作品を読んだことがあるかい?」  
 返事はない。僕は彼との会話にまともな返事は求めてないし、彼も返事することを望まない。
「彼は天才だと思うんだ。彼の文章はまるでがちがちに固まった銀の時計の檻のようだ。もちろん、いい意味でね。全てが計算し尽くされたロジックでできている。でも多分それは彼自身が計算した物ではないんだ。彼は彼が生きている世界を隅から隅まで捉えて、それを端から端まで文章にしただけなんだ。その世界の澱を、自由を、含みを、必要な分だけ絶妙に取捨選択して、選んだ全てで造る。もちろん作家は基本的にそうだ。彼が他と一線を画して天才たる所以はこの時の“捉える”という工程にあると思う」  
 彼は難しい顔をして黙々と前へ進んでいく。僕は話題を変える。
「まあ、そんなことはいいんだ」  
 僕はまるで芥川龍之介の素晴らしさはこの世界とは全くの無関係なところにあって、ここでは誰からも必要とされていない物であるかのようにそう言った。
 「僕はさっきまで本を読んでいてね。村上春樹の作品さ」
「ちょっと待ってくれ。ジャンパーを着たい」  
 彼の一言が僕の戯言を遮る。彼がそう言うと、少し風が吹いてきた。
「このリュック、少し持っていてくれないか」
「もちろんいいよ」  
 彼は大きいリュックサックと手に持っていた小さい鞄を僕に手渡し、ジャンパーを着た。僕は受け取ったリュックサックを背負い、小さな鞄を右手に持つ。どちらも大きさの割にとても軽いものだった。
「ありがとう」  
 ジャンパーを着終えた彼は僕から荷物を受け取ろうとする。僕は気が変わって、出された彼の手を抑えた。
「いや、僕に持たせてくれよ。僕は今まで何も持っていなくて違和感があったんだ」
「それならお願いするよ」  
 彼はまた痛々しい笑みで答えた。僕はなんだか居心地が悪くなって言う。
「ひとは不自由な方が生きやすいんだ。本の中でもちょうど同じような話をしていたよ。僕らはある一定の制約の上じゃないとうまく生きられない。ある意味、ここでは君の不自由さという財産を僕が奪ってしまったんだ」  
 彼は前を向いてこう聞く。
「それは――君の自由意志で?」
「そう。」  
 僕も前を向く。
「――もちろん、僕の自由意志で」  
 暫く歩くと公園が見えてきた。小さい割に立派な遊具のある公園だ。辺りはもうすっかり薄暗くなっていて、ひとはいなかった。
「そう、」  
 僕は公園の入り口の方で彼に向き直った。
「さっき読んだ本の中に図書館が出てくるんだ。高松の、海の近くにある図書館でね。素晴らしいところなんだ。そこには僕がいて大島さんがいて佐伯さんがいたんだ」  
 僕は彼に微笑みかけた。暗くて彼の表情はよく読み取れない。彼の顔の周りだけより暗く影があって、まるでそこだけ塗り潰されているかのように見えなかった。
「大島さんっていうのは難しいけれど素敵なお兄さんなんだ。僕を気にかけてくれる。そして佐伯さんは端正で美しい女性で、その図書館の館長なんだ。僕はその瀬戸内の、時の狭間のような世界で過ごしたんだ」  
 僕はくるりと彼に背を向けて遠くを見た。すっかり暗くなった空の少しだけ赤みが残った西の空を眺めた。何かがはまるような金属音がして、風が一層強くなった。
「今までで1番至福の読書体験だった。この本を読んで、僕は願い事が2つ増えたよ。それはなんだと思う?」  
 背後の彼から答えはない。彼はぜんまいの切れたブリキのおもちゃのように気配を消してそこにいた。いや、もしかしたらそこに彼はいなかったのかもしれない。人は、背後を確認する術を持ち合わせていない。  
 闇はだんだんと濃くなっている。風は勢いを増す。僕の耳にはその風の音だけが聞こえる。
「ひとつは“図書館を建てたい”。僕は読み終えた時に、そう願ってしまっていたんだ。僕は自分の図書館が欲しい。うん、そうだ。僕は図書館をつくりたい。そこまで大きくなくていい。ただそれは明治の頃の西洋風の建物みたいにレンガで造られて、ひとつの趣があるんだ。そこには地下室があって、誰かの思い出がそこで眠る。壁には美しい森の絵が飾られて誰かがその絵に吸い込まれていく。館内は正しく考えられたルールに基づいて整理されて、正しい本が正しい場所にある。そして館長の部屋では、僕が万年筆で文章を書いているんだ。そこにある窓からは昼下がりの、もしくは早朝の、あるいは夕暮れの、四季折々の庭が見えるんだ。僕はそこで何かに向き合う。ただ黙々と向き合い続けるんだ。」
 僕は夢を見るような心地で目を閉じた。僕は今僕の図書館にいる。そしてその裏には綺麗な海岸がある。僕はそこへ行き、ずっと向こうのほうに水平線を認めながら波の音に耳を澄ます。誰かの記憶は地下室で眠る。絵に吸い込まれたひとは、時間があまり関係の無い場所で暮らす。書架は整理されている。海岸には僕がいる。そこは非常にメタフォリカルな物事に溢れている。
「そう――そしてその図書館はメタファーなんだ。誰にとってもね。実は本の中の図書館は、僕と大島さんにとっても、佐伯さんにとってもメタファーではないんだ。その世界は全て他の意味、意味上の概念に取って代わることができるから、図書館は彼らの中で実態を持って互いを繋ぐ、パイプのような物になっているんだ。それは心臓と脳を繋ぐ血管のように無くてはならないものだ。でも――」  
 僕は言葉をきった。ここまで喋るのに息を忘れていた。相変わらず背後の彼と思わしきものは動かない。彼の気配は全くと言って良いほど感じられない。そこには、僕だけがいる。息を整えて僕は続ける。
「僕らの生きる世界は良くも悪くもメタフォリカルではないもので溢れている。そう。僕らの世界には無くてはならないパイプが多すぎるんだ。だから僕はそこに僕だけのメタファーを創りたい。誰にとってもメタフォリカルな僕だけの図書館だ。」  
 僕はだんだんと振り向くのが恐ろしくなっていた。その恐怖と彼は殆ど関係がない。僕は話を終えるのを恐怖していたのだ。できることならこのままずっと話を続けていたかった。僕は、話すたびに僕自身が出来上がっていく感覚にすっかり陶酔していた。もといた世界に戻りたくなかった。
「ふたつめ、これはもっとシンプルだ。“愛する人が欲しい”。僕は本気で愛せる人が欲しい。これに関して僕はこれといった注文はない。ただ本気で愛したいと思える、そんな人が欲しくなったよ。」  
 どうやら時間のようだ。目を開けると、辺りは何も無い真っ暗闇で、冷たい風がどうしようもないくらいに吹き荒れていた。そして僕はゆっくりと彼へと振り向く。まるで僕自身が鍵になったかの様に身体を180度回転させる。その間に僕の世界と僕があるべき世界が交わり、色彩が生まれ、生き、刹那に消えていった。耳元で重い扉が閉まるような重い音がした。彼は、まるでずっとそこにいたかのように立っていた。
「僕の話は以上さ。これから僕はもっと強くある努力をしなくちゃいけないな」
「そうだね」  
 彼はまた痛々しく笑う。風はもう止んだ。  
 彼は言った。
「もうすっかり暗くなってしまった。戻ろう」  
 僕が持っていたはずのリュックが、いつの間にか彼の背中にある。
「散歩はいいな」  
 僕は言った。

 
 ❇︎ ✴︎ ✳︎


「なあ、好きな曲を流してもいいかな」  
 帰り道、彼は突然言った。彼はいつもそうだ。いつだって彼は僕の想定の外側にいる。
「いいよ。もちろん」  
 僕は答える。彼は右のポケットからスマートフォンを取り出し、操作し始めた。彼はどんな歌を流すだろうか。少し興味が沸いてきた。
「君はどんな音楽を聴くんだい?」  
 彼は画面から目を離さずに答える。
「最近は……マイケルジャクソンを聞くんだ」  
 僕は右隣に歩く彼の表情を見る。
「確か……こうしたら流れるはずなんだけど……」
 彼は操作に手間取っているようだ。
「いい趣味だ」  
 僕は言った。これは心の底からの言葉だった。
「僕もマイケルジャクソンは好きさ。と言ってもマニアを自称できるほどは聞いてる訳ではないけれど。1人の時に、家で良く聞くんだ。日曜の夕暮れにリビングで、最初はビートルズを流す。『Ticket to Ride』を聞いて『Strawberry Fields Forever』を聞いて、それから『Nolwegian Wood』を聞く。そのあと僕はモンキーズの『Daydream Believer』聞いて、最後にマイケルジャクソンの『Black or White』聞くんだ。ここまでがルーティン。そのあとは自由に気が向いた曲を流す。インエクセスとかガンズ・アンド・ローゼズとかね」
「素晴らしいじゃないか。特に、日曜日の夕暮れってところがいいね」  
 彼はスマートフォンから目を離さずに興味が無さげ返事をする。僕は続けた。
「そう―――素晴らしいんだ。とってもね。実は、この曲の並びは随分珍妙なんだ。本来ならこんなふうにごちゃ混ぜに聞いたりしない。それは、僕はこの歌たちに、小説の中で出会ったからなんだ。どれも美しい小説だった。目を閉じてレコード聞いているとその小説の世界を思い出して、少し近づけたような気分になるんだ。その間だけ、僕はどこへでも行ける」  
 あっ、彼が声を上げた。
「これで流れる」  
 アコースティックギターの気怠いメロディが辺りを満たした。それは酷く弛緩していて、午後の暖かな日向を思わせる素敵なメロディだった。『Man In The Mirror』。良い曲だ。でも彼が流したのは誰かがカバーしたものだった。本物より少し低くて安定した印象を受けるその声は、流れ出ては闇に溶けていく。


『僕は一生に一度の
変化を起こすんだ。
すごく素敵な事さ
違いを生むのは
物事を正すのは


お気に入りのコートの襟を立てたところで
僕の心にはすき間風が吹く。
見なよ。路上には満足に食べられない子供達がいる。
それが見えない僕は何だ? 
助けを求める彼らに気付かないフリをして


容赦ない夏の日差し、割れたビンの先。
そして一人の魂。
風に吹かれてもつれ合う。
そうさ、行き場なんてどこにもない。
だから君に知ってほしいんだ


僕は鏡の中の男と向き合う事から始めるよ。
「変わる覚悟はあるか?」と問いかけるんだ。
こんな明確なメッセージ、他にないよね。


世界を良くしたいなら
自分と向き合い、まずは自分を変えるんだ』


「ねえ、この歌、きっと誰か他の人のカバーだよ。声が違うし、そもそもこの曲はアコギの曲じゃない」
「えっ?」  
 彼は大袈裟に驚いてスマートフォンを開く。そしてアーティストを確認し、また痛々しく笑ってこちらをみた。
「本当だ」  
 彼は声をあげて笑った。ずっと本人のものだと思っていたのだろうか。  
 僕も急におかしくなって、笑ってしまう。僕が感じている彼の痛々しさと、彼が感じているその純粋な感情は、どれだけかけ離れたものなのだろう。  
 10月の風が僕らの間を吹いている。それは身体と服の間に入り込んで、僕らの熱をしっかりと抜き去っていくような冷たい風だ。


『僕は変わるんだ
本当に素敵な事だよ。
さぁ、起き上がるんだ。
そう、まずは君自身と向き合うんだ!
僕は今日変わるよ!
君は、まだ君は立ち上がっていない。同志よ!』

 
 15歳の僕はあと2ヶ月しか生きられない。そうだ。15歳の僕にはあと2ヶ月しか残されていないんだ。15歳の僕はもうすぐ死ぬ。  
 それまでに――それまでに強くなろう。彼の痛々しさも背負って歩いていけるくらいに。  
 世界中の人の痛みも飲み込めるくらいに。
「世界でいちばんタフな15歳の少年になるんだ」  
 冬の始まりの夜空には、僕らの笑い声と、その歌だけが響いていた。


『そうさ、僕はその鏡の中の男になるんだ。
君は、君は起き上がるんだ。
さぁ、さぁ、立ち上がれ、立ち上がれ、
立ち上がって、起き上がるんだ、
今こそ、変化を起こそう!』

ⒸWikiWiki叢書


苦痛なき日々
キュアラプラプ
夏休み・人生・トイレットペーパー
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我々はたいてい、短いスパンで苦痛を与えられ続ける。私にとってのそれは朝に襲い来るものが主だ。アラームの騒音で不本意にも目を覚まし、未練がましく寝床から離れ、せわしなく家の中を歩き回って身支度を済ませ、通学する。どう考えてもだるすぎる。


夏休みには朝起きることのような定期的な苦痛がない。無論、これは「夏休みには苦痛が存在しない」という意味ではない。たとえば夏休みの宿題は、古くから夏に浮かれる人間を苦しめてきた。しかし幸か不幸か、これは純然たる人間悪の一つ、怠惰によって後回しにすることができるのだ。これによって、私のような計画性のない人間は、夏休みの大部分において苦痛のない日々を過ごせる。


苦痛がないと人間はどうなるか。そう、駄目な奴になる。心当たりの一つや二つ、誰にでもあるだろう。「苦痛なくして創発なし」。これは有名な心理学者の言葉とかではなく、俺がいま思いついたから書いただけだ。この駄文をここまで読んだなら察しがついていると思うが、私は being 駄目な奴。


夏休みが始まる前日の晩、私は「去年の麻薬における我が怠慢を殺辱する」という旨の決意をした。そこの常習者あなたは、2021年の夏休みの新規記事がどんな感じだったか覚えているだろうか? 「余談だよ」だけである。繰り返す。「余談だよ」だけであるのだ。記事一覧を日付順にしてみても、そこらへんはやけに日付がずけずけだ。間違えた。「すかすか」って書こうとしたら日付に引っ張られた。余談だけど、「テンプレート:日付_両暦併記」って打つときめんどいよね。なんだよ「両暦」て。ああ、あと、「殺辱」は「雪辱」より強いやつ。知ってた?


でだ。今、夏休みは夏期講座を除けば約一週間が経過している。俺のしたことは何だ。公序ソングをちょっとばかし作り、ほとんど完成した状態の歯ズラしをちょっとばかし修正して公開しただけだ。なんもデカいことしてねえじゃねえか。無論、課題は何も触ってない。最悪じゃないか。


俺の一日を特別に公開しよう、朝起きる。朝飯食う。インターネット。昼飯食う。[検閲済] with インターネット。インターネット。晩飯食う。インターネット。寝る。最悪だ。クソ過ぎる。いや下水道関連の雇用を作り上げているクソのほうがまだ社会に貢献しているとまでいえる。その一方で俺はアフィカスブログを閲覧して掲示板無断転載ヤーたちの私腹を肥やしているのだから。


ここ数日、頭を働かせた記憶がない。何も考えずにYoutubeを見ている。とりわけオモコロチャンネルはマジで面白く、なんにも頭を使わずに腹をよじることができる。特に「ホント激辛無視王」と「やらせクレーマー撃退選手権」と「ウソナイトルーティン選手権」が面白かった。


一つ、有益な学習をした。飯食ってすぐに寝っ転がってると高確率で下痢るということを理解したのだ。私は大便が嫌いだ。より正確に言えば、大便を輩出する行為が嫌いだ。輩出ってなんだよ俺はうんこ共の母校か。いや、もっと正確に言うなら、トイレットペーパーが両手を占有する時間が嫌いなのだ。刹那的若者の例にもれず、たいていのコンテンツを1.5倍速または2倍速で消費する身としては、いや好きな曲とかだと0.25倍速したりもする。直近では「キッカイケッタイ」でやった。御命を頂戴。ストックはまあまああるので、同ボ祭Ⅱを冀う。何の話してたっけ。


そう、とにかく、夏休み、苦痛が消えたので私は弱体化してしまった。これを取り戻すべく、先送りされた課題を呼び戻したい。それが成功した暁には、まあなんとかなるだろう。そういえば論理パズル101を読了して論理パズル要素を持つ記事を書くという野望もあるのだが、何も進んでいない。代わりに小山田浩子「穴」という本を読んだが、望むものは得られなかった。きっとこれが読書の大切なやつなのだろう、知らんけど。でも「勢い」の副詞的用法がでてきたので昂れた。これを目にするのは人生で二回目である。


インターネットでやることといえば、まあカビクラを巡回したりもしている。ggrks。いや、人にカスとか言っちゃいけないので、「ググれかし」とかに変えるのはどうだろう。何でもないです。カービィはいいぞ。3月に発売されたばかりの最新作、「星のカービィ ディスカバリー」は本当に最高である。恐るべき完成度によって、思い出補正の加護を受ける過去作たちにさえも評価面で競り勝っている。


私が思うカービィというコンテンツの決定的欠点はただ一つ、「カービィ? 所詮あんなの子供向けでしょwww」と言う人物に対して吠え面こいて反論するカービィファンの存在である。みっともなさすぎるし、そもそもそんなことを言う人物はお前の空想の中にしかいないんじゃないのか? お前はただ、それを引き合いに出してトリデラやらロボプラやらに仕込まれている悲しい話を言いふらし、これがあのカービィにあるんだぜすごいだろー!!!!! と言いたいだけなんじゃないか? そして結局そう考えるお前もカービィを幼稚なコンテンツだと思ってるんじゃないか? と言いたくなる。


カービィはいいぞ。公序ソングライターの一介として言うと、BGM曲も超いい。いやBGM曲ってRAS症候群だな。BG曲もいい。私が一番好きなのは「回暦する追憶の数え唄」である。サビの強さが強い。最新作の中では「地下水道に流されて」が一番好き。サビの強さが強い。こんなもんを新人が作るか。最高である。そういえばなにやらサウンドスタッフの世代交代が噂されているが、我々は最古参カービィ作曲者たる石川淳を失うわけにはいかない。彼の曲はたいてい「すげえカービィっぽい」か「すげえカービィっぽくない」の両極である。「グルメレース」とか「グリーングリーンズ」とか、知名度高めのカービィ曲はだいたい彼が作曲している。数十年前くらいにそのミックスアレンジがグラミー賞を受賞して話題になった、「メタナイトの逆襲」に使われているBGM群を作ったのも彼である。各メディアで「BGM『メタナイトの逆襲』のアレンジがグラミー賞を受賞」的に言及されていたが、厄介な人間である私は「メタナイトの逆襲」というBGMのアレンジではなく、「メタナイトの逆襲」に登場するBGM群のミックスアレンジだが???となった。また業が積みあがっていくのを感じた。おっ、天啓だ。へー、生業ってリビング=カルマのことだったのか。


カービィっぽくない曲は石川淳のなのである。「VS.ゼロ・ツー」だったり、急にサビでダブステップしてくる「ホワイトオフィス行進曲」だったり、急にすげえ激化する「Dirty&Beauty」だったり。あと、頭がおかしい曲は彼の専売特許なので、ラスボス前座に狂気度が多い近年では、ラスボス前座イカれ曲を作りまくっている。「Crazy Rolling in Money」とか「La Follia d'amore」とか「追獣」とか。p.s.「枯渇した海」のドラム超好き。


そう、つまり私が言いたいのは、苦痛なき生活をしていると、論理的思考力が弱まり、関係のないことに無責任に紙幅を割き、こんな駄文を生成してしまうような人間になってしまうということなのだ。だから、もし画面の前の常習者あなたが課題を視界に入れていないのなら、すべからく苦痛を甘受するべきだ。そうすれば、すべからく幸せになれる。


「すべからく」のアレ、いい加減認めてよくね? っていつもなってる。まあ、積極的に使うと静かに「あ、こいつ……w」って思われそうなのでそんなことはしないが。フフフ。「すべからく」くらいならさすがにもう許してよくね?まあ、確かにさ、例えば「今日から『トマト』は『バナナ』の意味も含みます!」とか言われるとそりゃあ困るだろうし、それが許されるのはせめて三千年後とかだろって感じだけど、「今日から『すべからく』は『おしなべて』の意味も含みます!」ならまあ別によくね? 「おしなべて」側にも大した矜持はないでしょ。「バナナ」ならまあバナナのプライドも納得できるけどさ、「おしなべて」が自身に誇りを抱くのは分不相応でしょ。バナナはねえ。そりゃあ「果物」というジャンルの中で明らかにその地位を確立してるじゃん。リンゴやらイチゴやらが覇権争いをしてる間に、バナナはその尖りで一番手ではないにしろ上位層の地位を固めてるんだよ。果物で言えばおしなべてはライムくらいの立ち位置じゃん。単体ではまず出てこないし、出てくるにしても「果物全部言う大会」でレモンを言ったやつが思い出して言う感じで、レモンとのコンボを成立させるためだけにしかないんだよな。「すべからく」の威を借る「おしなべて」、レモンの威を借るライム。ライム単体ではキウイにすら負けてるんだよ。あのキウイにすらだぜ。何を隠そう、うーんどうしよう。俺がキウイのことだいぶ嫌いであるという秘密でも隠しとくか。


キウイの最悪なところは、その食べづらさである。リンゴとかスイカとかほどデカくないから、わざわざ皮を剥いで身だけの状態で食卓に出されるようなこともなく、さりとてブドウみたいに皮ごと食えるわけでもなく、ミカンみたいに勝手に個人で皮を剥けるわけでもない。だから皮がついたままのキウイの上半身または下半身を、その断面からスプーンでえぐり抜いて食うしかない。この条件のもとに、手にキウイ汁をこぼさずにキウイを食えるやつを俺は尊敬する。「キウイジュース」っていうと普通だけど、「キウイ汁」っていうとなんかキモいな。「リンゴ汁」、「イチゴ汁」、「バナナ汁」……バナナ汁キモいな。皮の異質さが際立ってる果物は汁をつけるとキモくなるらしい。でもパイン汁はキモくないな。俺がパイナップルパークのネイティブだからだろうか。俺は昔名護に住んでいたガキだったので、しばしば一家でパイナップルパークに行き、試食のパインを喰らいつくしていた。


そう、それでライムだよ。そもそもライムって果肉食う奴いるのか? ライムの汁飲んでるやつは見たことあるけどライムの肉食ってるやつは見たことないぞ? もしかしてライム=ライム汁なんじゃないか? ……ってことは、1=汁なのか。どうやら一汁三菜は一三菜だったらしい。おかず13個はだいぶキツイな。何角食べすればいいんだ? めちゃくちゃ円に近いのは分かる。とすると、もしもおかず用皿が無限にあるなら、我々は円食べをしなければならないのか? でもその場合、一度米を出発したが最後、無限のおかずに囚われて、俺たちは二度と米を食えなくなるんじゃないか? いやむしろ、我々ヒトのスケールにとっては、無限菜の食卓は円食べというより弧食べ、いや線食べなんじゃないか?そもそもおかずのレパートリーは有限なんじゃないか? いやしかし、それらおかずがそれぞれにおいて相互関係をもつことでおかずの複雑系が創発性を持ち、同レイヤーにおかずが織りなされゆくことによって、その結果疑似的な無限おかずが再現されているんじゃないか? それに、二十一世紀のとある文献には「苦痛なくして創発なし」という言葉が残されている。この「苦痛」は、おかずだらけで米に戻ってこられない苦しみのことだったんじゃないのか? もしや我々生命の為す化学的循環は、本質的には無限おかずの円食べと等しいものなんじゃないか? 我々が死後の世界を認識できないのは、つまるところスケールの違いが原因なのであって、実際には我々の「生命」というものは数直線ではなく座標によって表されるべきなのではないのか? y軸方向に弧を描いて進む生命は、決してx軸だけでは理解できないからこそ、「線食べの誤謬」が生じているのではないか? 巨視的に、平面的に見れば、我々は実際には、まるで円食べのように、非連続的な輪廻転生をしているのではないか? 「苦痛」とは、さらに本質的には、無限に続いていく別の人生を踏破することができないがために、一つ一つの人生に二度と戻ってこられない苦しみのことだったんじゃないのか?


とにかく、1幾2010年代あたりからは、熊崎信也というつよつよディレクターの登場によって、カービィシリーズは種々のネーミングにも力が入ることとなった。特に分かりやすいのがBG曲名である。「星羅征く旅人」とか「主のいないインテルメッツオ」とか「褪せ色のサイコメトラードリーム」とか「幼き日に視たデウスエクスマキナ」とか、「回暦する追憶の数え唄」→「回暦する追約の忘れ貝」のやつとか、トリプルネーミングくらいある「狂花水月」とか、とにかくまあすごいのである。しかし、ボスの技名も忘れてはならない。この先には「星のカービィ ディスカバリー」のネタバレがあります!!! うわああああ!!! 逃げろおおお!!!! ネタバレがあるぞ!!!!!! ネタバレが!!!!!! うわあああああああああああああああ!!!!! みんな逃げろおおおおおおおお!!!! うわああああああああああああ!!!!!


ぐふふふふ、そこの常習者あなた、ネタバレを喰らわせてやろう。後悔するがよい。ディスカバリーのラスボス「フェクト・エフィリス」は、空間転移能力を用いて宇宙中をボコして回る侵略生物である。ゲーム中ではまあいろいろとなんやかんやあってカービィと戦うことになる。そんなエフィリス最強の攻撃が、後半戦への攻撃パターン移行時に確定で行ってくる、画面のほとんどを覆う勢いのクソデカ巨大隕石をフィールドにゴリゴリにぶつけてくるやつである。この技名は「フェルミパラドックス・アンサー」。フェルミパラドックスというのは、まあ簡単に言うと「確率的には宇宙人ってめっちゃ普通にいそうなのに、全ッ然会えないの、おかしくね?」というやつである。これの「アンサー」、つまりその答えとして「なぜならこいつがすべからく皆殺しにしているからです」というわけである。技名からして力を誇示しまくっている。最高である。いやまあ、一応念のため言っとくと、俺は逆張り懐古厨ではないぞ。まあ確かに思い出補正もあるけどさ、やっぱディスカバリーは良い作品だったと思うんだよな。まあ確かに、621幾も前のやつなんて流石に古すぎるかもだけどね。


まあとにかく、何が言いたいのかと言うと、キウイはクソだということだ。いやまあキウイは食えばいきおいクソにはなるが、それとこれとは別問題だ。そういえば、飯を食べた後横になっていると下痢になるというジンクスがあるが、まあこれは普通に間違いだろうなあと最近思う。でも、それはそれとして、幼いころから共有されてきた「食後に横になること」と「下痢」の結びつきが思い出されて嫌なので、ご飯を食べた後は寝っ転がらないようにしている。だって下痢嫌だもん。そもそも私は大便が嫌いだ。より正確に言えば、大便を輩出する行為が嫌いだ。輩出ってなんだよ俺はうんこ共の母校か。……完全に滑ったな。やっぱ定番のネタはTPOを選ばないと厳しいよなあ。それはさておき、もっと正確に言うなら、トイレットペーパーが両手を占有する時間が嫌いなんだよ。刹那的若者の例にもれず、たいていのコンテンツを15倍速または20倍速で消費する身としては、紙のロールをただくるくるしている時間は本当に退屈だ。だからそういうときには、俺はトイレットペーパーの気持ちになることにしている。俺は、どんどん自分の残りが少なくなっていることに気づきながらも、ただ身を任せ、くるくるされているのだ。いったい俺は、どんな最期を迎えるのだろうか。一つ一つ、ミシン目に区分けされたユニットが無くなっていくのはよく分かるのだが、全部が無くなるときにはどうなるんだろう、ってね。まあでもよく考えたら、俺はトイレットペーパーを俯瞰してるからこの状況が分かるけど、スケール的にトイレットペーパーからしたらなんのこっちゃ分からないかもな。ああ、自分で妙に納得したわ。そもそも「ずーっと回ってて、後ろのどこかに行ってしまったものは帰ってこない」というのがある時点で、普通「自分は無限に回っている」って勘違いするよなあ。まさか内巻きのロール状になってるだなんて思いもしないだろう。そう考えると急に哀愁が出てきたな。芯が剥きだしになるまで、自分の命が無限だと思ってるままなのかあ。それでまた別のトイレットペーパーが補充される。悲しいな。


でまあ、キウイなんだけど、まあ百歩譲ってあの食いづらさは許してやるとしよう。でもそこでキウイは戦わないんだな、これが。普通の果物になれないならいっそ尖った果物になってやろう、っていう気概もない。尖った果物として上位層の地位を守ってるトマトに敵わないからって、完全に諦めてるんだよね。もう普通にライム汁にも負けてるよキウイは。キウイのいいところってなんかあるか?名前が「キヴィール」にちょっと似てるとか。沈むペトリコール。この前2.5倍速で聴いたわ。そうそう、ストックはまあまああるので、同ボ祭MMMCMXCIXを冀う。てかこれで最後になるのか。悲しいな。えーと、何の話してたっけ。そう、キウイのいいところだ。ま、無いわな。


絶対に途中でちぎれないトイレットペーパーとかあったら良さそうじゃない? いきなり何言ってんだって話だけどさ。いやあ、俺ん家ね。先祖代々、なんか気が向いた時にトイレットペーパーの気持ちになる風習っていうのがあるんだよ。嘘みたいでしょ? それでさあ、俺、トイレットペーパーにとって途中でちぎられるのっていいことなのか? って思えてきちゃって。自分がどんどんなくなっていく実感っていうのかな、そういうの、まあトイレットペーパー視点だとないんだろうけどさ、やっぱ傍から見てる俺からしたらなんかいたたまれなくなってきちゃうんだよね。しかもあれ、結構短いスパンでミシン目あるじゃん? だからまあ、なんだかなあ。痛くないのかな。苦しくないのかなあ。って。でも、ミシン目のない、連綿と繋がり続けるトイレットペーパーだったら、切り取られる苦痛はなくなる。まあ確かにね、「苦痛なくして創発なし」とも言うし、苦痛は必要なものなんだっていう意見も分からなくはないけどさ……ま、やっぱ非現実的だよな。ちぎれないトイレットペーパーなんて。あまりにも使いにくすぎるよ。頑張って最後まで取って流したとして、詰まっちゃうじゃんね。トイレ。


あーー。

なんかなあ。

あーーあ。

暇だなー。

そういえば今何幾だっけ?ド忘れした……

え、もう2024幾なのか。

カービィって今で3屏目なんだな。めちゃくちゃ昔からあるじゃん。

なーんか、あれから一気に暇になったよなあ。

「死」が解明されてから。

人間が死ななくなってから。

このまま無限に暇なのかあ……。

俺の一日を公開しよう。暇。以上だ。

おい

無限なんじゃなかったのか?

まだ何もできてないのに

後でやろうと思ってたのに


あーーーうるせぇ。アラームって本当に迷惑だ。うるさいし。なんか変な夢見たな。忘れたけど。

あ、そっか、今日夏休みじゃん。最高だわ。よっしゃ、二度寝しよ。

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徒然草@ミステリ摂取
Notorious
徒然なるままに書きつくった駄文。随時追加。
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序文

私にとって、ミステリは栄養素みたいなものだ。取り込めば取り込むほど健康になる気がする。あなたにもそんなものがあるだろう。それは音楽かもしれないし、イラストかもしれないし、創作活動かもしれないし、気の合う友人かもしれない。私にとってそれにあたるものが、ミステリだというだけである。

だから、題名は「摂取」とした。「読書」とかにしようかなとも思ったが、ミステリの媒体は何も本だけではない。というわけでこんな題名となっている。

ミステリの魅力

なぜ私はミステリをこんなに好いているのか。それは、ミステリは知的興奮を与えてくれるからだ。

解決編で、気づかなかった伏線が回収され、そこからあっと驚くような論理が派生し、思いもよらない結論に至る。そのカタルシスが、なんとも形容しがたい多幸感を私に味わわせてくれるのである。

私が教科で言えば数学が好きなのも、この辺の嗜好が影響しているだろう。知識や論理体系は、作者と同じ土俵に立てている。にもかかわらず、騙される、上をいかれる快感。それが私の心を掴んで離さないのだ。

ミステリの原初体験

「少年探偵団」シリーズやルパンシリーズは早くに読んでいた。しかし、私が本格的なミステリを初めて読んだのは、小学4年生の時。綾辻行人の「十角館の殺人」である。地元の図書館が、小学生向けの本をなんかいっぱい選び、パンフレットにして配布していたのが全ての始まりだった。母が持ち帰ってきたそのパンフレットを家で見ていると、なぜかは知らないが、「十角館の殺人」という題名が私の目に留まったのである。ちょっと大人っぽいタイトルが、背伸びしたかった私の心を惹いたのだろうか。私は中学年であったにもかかわらず、高学年向けの欄にあるその本が「面白そう」と訴えたのである。既読だったのであろう母は「怖いよ?」と宥めたが、その諫言を無視し、私はすぐに「十角館の殺人」を借りてきたのであった。

借りた当日、読み始めた。小学生は暇なので、1冊を2~3日で読み終えたものである。確か半分くらい読んで、人が孤島でどんどん殺されていく段になって、幼い私は大いに怯えた。とても怖かった。母は正しかった。大抵の場合、母とは正しいものである。必死に明るい曲なんか思い浮かべ、心を奮い立たせて寝ついたのを覚えている。[4]

翌日、読み終えた。あの一行を読んだ感想は、明確には覚えていない。だが、驚きというよりは衝撃だったと思う。何かが猛スピードでぶつかってきたような衝撃。そして、こんなものが世にはあるのか、と思った。まさに未知との遭遇であった。だって粛清されましたなんだから粛清されました粛清されました!!!

すぐに館シリーズの次巻を探し、別の作者にも手を伸ばし、気づけばミステリ沼にはまっていた。これが、私のミステリの原初体験である。

愚かな歴史

私はあっという間に解決編の愉悦に魅入られてしまった。しかし、私は愚かだった。とんでもなく愚かだった。愚かだったゆえ、「解決編だけ読めばいいじゃん」と思ってしまった。馬鹿である。とてつもない大馬鹿者である。問題編の描写あっての解決編なのに、愚かな私はそれを知らなかった。だから、ミステリの後ろの方をパラパラとめくって読んでしまう、という世紀の大愚行をしてしまったのである。

当然、何が何やらわからない。ほどなくしてやめたが、この愚行の犠牲になったミステリ作品は「斜め屋敷の犯罪」「スイス時計の謎」「菩提樹荘の殺人」「暗黒館の殺人」「人狼城の恐怖」といった名作・傑作の数々である。これらの中にはまだ読めてないものもあり、この愚行は我が人生における最大級の後悔となっている。

油断こそ最大の友

ミステリが孕む最大級の矛盾として、「驚きを期待すればするほど、相対的な驚きは低くなる」という命題がある。「不意打ちされるぞ、不意打ちされるぞ~」と思いながら不意打ちされるのと、何も知らずにいきなり不意打ちされるのとでは、どちらの方が驚くかは火を見るよりも明らかである。だから、最上のミステリ作品との出会いは、予期していない時に傑作と出会うことではないだろうか。

今まで言ったことは、「叙述トリックについて」でも似たようなことを書いた。しかし、何も叙述トリックものに限った話ではない。というか、ミステリに限った話でもないだろう。何事にも期待しないことがベストな生き方かもしれないが、悲しいことに、それは無理というものである。もちろん、期待を上回る出来を見せてくれるものも多いが。

ところで、私がミステリにおいて、油断していたら最高だったという体験が2つある。長沢樹「消失グラデーション」と相沢沙呼「マツリカ・マトリョシカ」だ。

どちらも知名度がめっちゃ高いというわけではなく、正直あまり期待していなかった。まあ本棚(あるいは本箱)にあるミステリを読むか、と思って手に取っただけだった。しかし、読んでびっくり、くそおもろかった。あの時手に取った自分を褒めてやりたい。よお〜しよしよしよし! いい子だねえ!

内容は前にもどっかで書いたと思うので省くが、言いたいのは、ミステリを読むにあたって、油断は最大の友だということである。

知力に殴られる

知力は、研ぎ澄ませれば暴力となる。そう感じたミステリが3つある。

「知力に殴られる」とはどういうことか。簡潔にいえば、到底及びもつかぬような知性を見せつけられ、ひょえええとなることだ。

小説には、構成というものがある。どの場面をどういう順番で配置するか。ミステリの場合、手掛かりをどう配置するかも重要になってくる。そして、ミステリ作品の中には、特に入り組んだ構成を持つものもある。二重・三重の構造を持ち、それらが複雑に絡み合い、一つの物語を成しているものが。

しかし、口で言うのは易いが、そんな構造を成り立たせ、一つの物語を作るのはまず無理である。恐ろしいほどの構成力が必要となる。しかし、中にはそんな離れ業を成功させてしまう化け物みたいな作家もいる。そんな「離れ業」な作品は、人の域を外れた知性から成り立っている。それを読むと、物凄い知力に圧倒され、殴られているように感じるのだ。

私が知力に殴られた作品は、今まで3つある。井上真偽「その可能性はすでに考えた」、阿津川辰海「名探偵は嘘をつかない」、米澤穂信「黒牢城」である。あなたも機会があれば読んでみてほしい。「なんでこんな構成を成り立たせられるんだよ、作者は人外か?」と思うこと請け合いである。

これはミステリだろ

あるあるっぽいが、ミステリファンなら誰しも「これはミステリだろ!」と思うコンテンツがあるらしい。推理と銘打たれてはいないのだが、ミステリたる資格を十分に有したもの。そんな偏愛するものが、それぞれの心の裡にあるのである。

私の場合、それはある漫才である。M-1グランプリ2016のファーストラウンドで披露された、スーパーマラドーナのネタだ。

元はと言えば、姉がお笑いクラスタであったことが初まりだった。姉はジャニオタだったり[5]タロットにハマったり、趣味に熱しやすく冷めやすい人だった。しかしお笑いが好きなのは今でもあまり変わっていないようで、姉の心は安住の地を見つけたのかもしれない。

それはさておき、姉が初期の頃に好きになったのが、件のスーパーマラドーナである。このコンビが3位という好成績を残したM-1グランプリ2016に姉の興味が惹かれたのは、至極当然な成り行きだったと言えよう。私は姉と共に、家のリビングのテレビで、その大会の映像を見た。

そのネタは、ボケの田中が先日エレベーターに閉じ込められたというシチュエーションだった。人畜無害そうな田中が息もつかせずに繰り出すぶっ飛んだボケの数々に、強面な武智が冷静にツッコんでいく。さすがはファイナリスト、めっちゃ面白かった。

しかし、しかしである。このネタは思ってもみなかったオチに逢着し、後には笑いと驚きが綯い交ぜとなった変な顔の私だけが残った。旋風のように襲いきて去っていった、衝撃。これは、まごうかたなき、本格ミステリ。突如として出現したこの刺客は、私の心に強い感動を残していった。

機会があれば、あなたも是非このネタを見てみてほしい。

ボール判定

私は、ストライクゾーンが広めな人間だと思っている。主観だしはっきり比べたわけでもないから、確かなことは言えないが。でも、嫌いな人とかはあまりいないし[6]、皆がつまらないと思う作品も「悪くないんじゃな〜い?」と思ってしまうし、苦手な食べ物も顔を歪めることを許してもらえれば大抵食えるし、ストライクゾーンが広いんじゃないかな〜と思ってきた。しかし、今は成長して多様なコンテンツも摂取したから、あまり面白いと感じない作品も現れるようになってきたが。でも、幼い私は、プロの手による作品なら、ほぼ全部面白いと感じていたのだ。無論、ミステリについても同様である。

しかし、しかしだ。幼い私が、はっきり「おもんな!」と思ったミステリが一つだけある。それは、山口芳宏「豪華客船エリス号の大冒険」である。

この本は、創元推理文庫から出ている。この作者は鮎川哲也賞を「雲上都市の大冒険」で受賞しており、この作品はその受賞後第1作であったためだ。鮎川哲也賞は東京創元社が主宰しているため、その受賞作や関連作はたいてい創元推理文庫に収録される。ここ、テストに出るぞ〜。

創元推理文庫は、良質な本格ミステリを多く出版しているレーベルだ。そのため、私はこれを信頼していた。また、鮎川哲也賞も本格ミステリに特化した新人賞であり、「雲上〜」も悪くはなかった。そのため、私は「豪華〜」に、期待していたのである。

結論から言うと、その期待は裏切られた。最初はよかった。魅力的な密室殺人が起こり、乗り合わせた探偵が捜査にあたる。豪華客船でテロみたいなことが起きたとき、私はまだ信じていた。きっと大風呂敷は畳まれるのだろうと。しかしだ……。

なんだよメインの密室のトリックが粛清されましたってよ! カスじゃねえか! はあ? なんだったんだよああ? 他のトリックも、別にあんま必要性感じないくせに、なんか労力ばかり多そうで、しかもしょぼい。粛清されましたとか、小学生でも考えつけるわ! そんなスケールのトリックを使っていいのは、中学生までだろ!

結局物語は、活劇要素で幕を閉じた。本格ミステリを期待していた私は、露骨に落胆したのだった。

今思えば、「雲上〜」にその片鱗は見えていたのだ。メインである第一の事件のトリックは、インパクト大で良かった。そこが評価されてデビューできたんだろうし。でも、その後の事件は、なんか駆け足で雑だった。一つ頭おかしいんじゃねえかと思うようなシーンもあるし。笠井潔に「出版すら危ぶまれる」と言わしめたシーンである。まあこれは関係ないか。メイントリックが、それらの欠点をある程度補えるくらいには悪くなかったのである。しかし、「豪華〜」には、それが無かった。

多分、冒険小説を求めて読んでいれば、ここまでがっかりはしなかったのだろうと思う。しかし……まあ、面白くはなかったなあ……。

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或る日の日記
Notorious
2023年9月27日
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 弟の日記を読んで、その文章に違和感を覚えた。諸君は私を兄弟の日記帳を盗み見る外道だと思っているだろうから、早々に訂正しておく。発端は夏休みだった。弟は小学生であるため、全国のちびっこたちの例に漏れず、毎日5ミリ方眼ノートを所定のページ数だけ埋めるという宿題をしている。このノートは学校か地域によって呼称が異なり、転勤族たる私は「がんばりノート」と「のびのびノート」の二つを経験してきている。世代補正もあってか私は断然「がんばりノート」派だが、弟の通う学校は「宅習ノート」を採用しており、仕方なく私もそれに従う。さて、その宅習ノートであるが、これまた例に漏れず、夏季休暇には大量のノルマが課せられた。とはいえ私の小学生時代に比べればだいぶ少ないのだが、もう既に言動が小学校の厄介懐古厨すぎるのでこれくらいにしておいて、とにかく弟はたくさんの白紙を学習の痕跡で埋めなくてはならなかったのだ。このノートに一体何をするか。くり上がりのある筆算でもいいし、漢字の書き取りも重要だろう。様々な選択肢がある中、弟はその日、日記を書くことを決めた。私が読んだ日記というのは、この自宅学習として書かれたものであり、年長者の家族として、弟の教育に携わる一員として、学習状況の確認および採点や添削、助言は当然なすべき義務であり、日記の通読は至極真っ当な行為であったということをまずは理解していただきたい。

 随分言い訳が長くなったが、こういうことがあった。八月下旬のその日、弟は夏休みを謳歌し、大学生の姉もまた一足遅いが長めの長期休暇を楽しみ、一方の私はさっさと去ったリフレッシュウィークを呪いながら登校を続けていた。職業柄、父は休日が不定期なのであるが、たまたま父母も休みである土曜日があった。その日は、弟の新学期と姉が滋賀に戻る期日が迫っていたのもあって、姉が思い出作りにと美ら海水族館行きをかねてより計画していた。私も熱烈に誘われたのだが、自家用車が四人乗りであることと、何より五日間の登校によって体力が尽き果てて休日に遠出することが割としんどかったというかなり悲しい理由により、私は留守番だった。家族は結構楽しんだらしく、土産にと巨大なチンアナゴのぬいぐるみを買ってきた。それは今ダイニングのお誕生席に鎮座している。巨大である。また、弟は購入したネコザメのぬいぐるみを可愛がっている。「ネコザメは可愛い」と言っているが、実物の写真を見るとそんなに可愛くないので、いつか彼がネコザメに幻滅しないか、兄として心配である。

 閑話休題、弟はその日のことを日記に書いたのである。やっと日記に繋がったと思ったそこのあなた、私も今まさに同じことを思っている。やっと本題に入ったと思ったそこのあなた、喜べ、まだ本題ではない。そして、申し訳ないのだが、私は過去の記憶を蓄える能力が非常に貧弱であるため、日記に書かれていたのはこの日のことではなかったかもしれない。新幹線が偶然にもキティちゃん仕様だったときの話だったかもしれない。何のために今までだらだらと水族館のことを書いてきたんだと思ったそこのあなた、私も今まさに同じことを思っている。とりあえず、弟は日記を書いた。そして、姉が宅習ノートの当該ページを見せてきたのだ。文面はともかく、そこから読み取れた特徴がある。それは、話し言葉が多用されていること。「めっちゃ」などのフレーズや、疑問符や感嘆符といった記号も多く使われていたのを覚えている。そして、全体的にウケを狙っているような文章だった。弟は書き言葉に慣れておらず、親しい人に今日あったことを話すような形で文をしたためているのだと推測した。さらに、姉が教えてくれたのだが、弟がこの日記を書くとき、題材として、特別な出来事のあったその日に固執したのだという。他の日では書くことがないという。WikiWikiに文章を書く力を鍛えられた私には、何でもない日の日記を書くなど朝飯前だという自負があるし、もし今もがんばりノートがあれば日記で適当に紙幅を埋めるだろうと思う。現に私はびっくりするほど手抜きの読書感想文を二時間で書き上げたばかりである。しかし、私は本当に何でもない日の出来事を、しっかりした書き言葉で書けるのだろうか。ふと自らを顧みたとき、疑問に思った。ならば試してみようではないか。ちょうど草子というプラットフォームもあることだし、図書館だよりを作るのに必要なパソコンの用意は面倒だから後回しにして、今日の日記を書いてみようと、そう思い至ったのである。さあ、ようやく本題である。だが、日常の一日を書き言葉で、とは言うものの、あまり守れる気はしていない。今日はテスト期間というわりあい特殊な日だったし、ついついふざけたくもなってしまう。ある程度は仕方がないであろう。私は自分に甘い人間である。だから図書館だよりをまだ作っていない。

 はて、今日は何があったか。ゆうべは十時過ぎに寝たと思う。数学担当教師が授業中にキレ散らかす夢を見たはずだ。私はどうでもいいと思って我関せずの態度を貫いた。現実でもそうありたい。もうすぐで授業が終わる時刻なのに、全然時計の針が進まない。もしかして教室内の時の流れを遅くする能力者なのでは? と思った覚えがある。異能力といえば、YGT財団とヨーグルト・インサージェンシーの、機動隊員バーサスYGTの特殊能力バトルを書きたいと思っている。こういうジャンルは読んでいてカタルシスも大きく非常に楽しいので書きたいのだが、賭けシリーズも含めてバトルものを全然書けていない。プロット能力が全然ないゆえである。ああ、私にも能力を授けてくれ。しかしどれもこれも、惨闢を書き終えてからである。もう一生書き終わらない気がしているし、ひょっとしたらプロットを忘れているかもしれない。その可能性が怖くて、今プロットを思い出すことができないでいる。忘れたことに気づくのは、思い出せなかったときなのだ。物事を忘れたとき、私たちはそのことに気がつかない。何も感知することのないまま、私たちの海馬からはいくつもの出来事がそっと抜け落ちてゆく。思い出すことに失敗して初めて忘れた記憶に思い当たるなら、思い出そうともせずにひっそりと消えていった過去が一体いくつあるというのだろう。あの日、友と楽しんだ遊び、大空を眺めて去来した想い、母にかけられた励まし、大笑いしたくだらない会話、そんなものがいつの間にか消えてなくなっている。気づかぬままに忘れてしまった思い出たちに思いを馳せると、やりきれない気持ちになる。

 叫ぶ目覚まし時計で目を覚ました。平日は毎朝、悲しいような悔しいような思いで自室の電気をつけている。階下に降りて朝食を食べた。主食は大抵白米である。数年前まではパン食だったのだが、トーストに飽きてしまったのでご飯に変更してもらった。食パンは今でもあまり食べたくない。もさもさしていて、食べていて疲れるのである。一食に半枚食べるのだが、中間地点くらいで「まだこんなにある……」と思ってしまう。十何年と食べてきたのに、よもや嫌いになってしまうとは。もう十何年経ったら白米も苦手になっているのではないかと思うと、怖くてご飯が喉を通らない。そうしたら毎食麺料理を食べなくてはならない。私はそうめんやざるうどんもそこまで好きではない。あまり噛まれずに喉を通るからか、息が詰まるのだ。さらに、すぐにお腹が膨れるくせにさっさと消化されるのですぐにお腹が空く。そんなところも気に食わない。私が還暦を迎えた頃にビーフンばかり食べていたら、どうか笑ってくれ。しかし料理にかかわらず、朝食は喉を通りづらい。数分前まで寝ていた体内に異物を流し込むのである。抵抗されない方がおかしい。食べ始めてから食べ終わるまでずっと「まだこんなにある……」と思いつつ箸を動かしている。こんなだから当然、あまり量は食べられない。だから、昼前にはお腹が空いてしまうのである。苦しい。だが朝にこれ以上食べるのも苦しい。悲しい限りである。人の世とは、かくも理不尽である。

 父が仕事の日は、母が出勤がてら車で送ってくれる。がてらと言っても、母の職場は完全に反対方向なので、いつも悲しい。今日は徒歩帰宅なのに鍵を忘れてしまったことに車中で気づいた。しかし母に心配をかけたくなかったので黙っていた。私は割と黙る。しかし私は嘘をつくのが下手であるし、年少者であるし、息子であるゆえ、黙っていたことの何割かは勘付かれていると思う。私はこのことに、弟の誤魔化しが手に取るようにわかるようになって初めて気づいた。私が弟のいくつかの行いに気づきながらも何も言わないように、母も私のいくつかの行いを知らぬふりしているのだろう。こうして人は自らの未熟さを悟り、成長していくのだと思う。学校に着くと、通用門が通れた場合の道のりの三倍はあるであろう遠回りをして教室に到着した。毎日悲しくなる。不惑を迎える頃には膝の軟骨が完全に消失しているのではないかと本当に心配している。関節は大切にしよう。友達と下劣な会話をするなどした後、早朝が始まった。今回からテスト期間は自習時間になるらしい。私はついに覚悟を決め、タブレットでTeamsを開き、図書館だよりの製作に取り掛かった。締切から約十日後のことである。課題とかなら迷わずサボるのだが、図書館だよりは私がやらないといつまで経っても出来上がらない。いや、他の誰にも可能な簡単な仕事なのだが、役割を担う私が沈黙している中で勝手に業務を肩代わりするのも難しいだろう。文面をコピーして前回のデータと差し替えていく。Teamsはアプリを離れるたびに画面が元に戻り、いちいちチャネルを開き直さないといけなかったのが非常に面倒くさかった。ひょっとしたら変えていないWi-Fiの設定のせいなのかもしれないが、放置したままここまで来てしまった以上、なかなか状況は変わらないのではないかと思う。私は相当に必要性に駆られない限り、行動しないのだ。九月も残り三日となった今、図書館だよりをようやく作り始めたように。しかし、図書館だよりの作業は存外簡単だった。どうせちゃんと読んでいるのは二十人くらいしかいないだろうし、適当に済ませておけばよかったなと思っている。しかし現状にもさほど危機感を抱いていないので、担当教諭に直接詰められでもしない限り反省はしないだろう。いや、たとえ詰められても反省はしない。学習するだけである。そして今、風呂から上がった後に作業をし、図書館だよりを終わらせた。日和ったので、チャネルに無言でファイルだけを送りつけた。みんなもこれに懲りたら、図書委員にはならないでおこう。

 朝の会では、挙動不審な学友に教師が若干デリカシーのないことを言うという一幕もあった。傍から見ると教師の反応はあまり責められるものではなかったかもしれないし、何より面白かった。しかし私が人前で「顔真っ赤じゃんw」などと言われたらあっという間に愧死してしまう。そのようなことを言ってしまうあの教師は、メンタルがものすごく強いのだと思う。仮に自分がそう言われても、特にダメージを受けないから、気軽に他者にそう言えるのだと思う。そう考えると、普段の授業での言動にも納得がいく。冷静に考えて、私はあのようなことを人前で言えない。道徳観念の前に、羞恥がそれを妨げるからだ。しかし、彼は平然としている。微塵も恥ずかしいと思っていないのだ。それは例えば生まれ持った性格なのかもしれないし、後天的に環境や経験から培ったメンタルなのかもしれないし、単に踏んだ場数の違いなのかもしれない。このような態度は、確かに敏感な他者(特に多感な青少年)を傷つけるリスクもあるのだろうが、当の本人にとっては非常に恵まれた体質だろう。精神のダメージを食らいにくいということは、とりわけ現代においては健康な生活に必要不可欠である。そう考えると、それはむしろ長所といえるのかもしれず、見習うべきでもあるのかもしれない。しかし、友好な関係を築きたい人たちにあのような態度を取るのはもちろん悪手であり、何と言ってもやはり、私は人の痛みを理解できる人間でありたいと思う。憶測で人の内面を推し量るのは非常に危険なことであるが、他者の心を考えることで自分も含めた人間についてぐっと理解を深められる。

 まずは現代文のテストであった。同じところから別々の出題がなされ、互いが互いを殺し合っているのが面白かった。もともと教科書の読解に過ぎないのに、それすらも超えて解答の暗記ゲームに堕ちている。本来鍛えるべき国語力の対極なのではないか。国語教師の間でも、担当クラスの平均点などでランク付けが行われているのだと思う。国語は比較的曖昧な教科だから、生徒のスキルを伸ばしにくいと思う。それゆえ、解答の配布に近い行為をし、簡単に生徒の点数を上げるという軽挙妄動に走ってしまうのではないかと思う。学友の「真面目な人ほど損をする」という指摘は慧眼であった。高い点数を取ろうと真面目に行動する人ほど、解答の暗記に力を注ぎ、時間を空費してしまうのだろう。苦しい限りであった。これは持論だが、国語のテストは漢字が本編である。最後の最後に待ち侘びた本番が訪れ、嬉しかった。Vaundyの「不可幸力」みたいなものである。焦らしに焦らしてからサビが始まるのである。この点、模試などは漢字が初っ端にくることが多い。これは薩摩示現流である。最初の一撃に全てを込め、後は余韻に過ぎない。

 次は数学のテストを受けた。関数分野は比較的簡単で、ここ二日くらいで復習したばかりだったため、いつもより解けた気がする。最終問題はしっかり解答の筋道が立った上で、行き止まりに迷い込んだ。壁を打ち破る方法があったのか、そもそも道を間違えていたのか。最後の方はこれに気を取られて見直しを一切できなかった。後悔しかけたが、数列のときは粘り続けて最終問題の(2)まで正解でき、前方でのミスもそこまで多くなかったので、何がどう転ぶかはわからない。人生万事数列がテストである。最後は英語だった。これも教科書暗記系の教科で、心底馬鹿にしていたのだが、かつて説明された事柄を思い出しカタルシスを感じることもあったので、存外に楽しかった。最後の方など、文法の知識が必要になる問題も多かったし、体系立てられた知識が求められていて嬉しくなった。私は英語は大変不真面目に受講しており、あらゆる小テストをノー勉で臨んでいるので、Vintageは特に、普通に55点とか取ったりする。しかし担当教師を維持したいから、今回はちゃんと誤答レポートを楽しもうと思う。この英語教師は、教えるのもまずまず上手いし、何より歌を聞かせてくれる。最も楽しい授業だ。彼は趣味の洋楽を教育という大義名分を盾に生徒に浴びせることができている。役得というやつであろう。私も外国の日本語教師になろうかと思ったが、ボカロはリスニングに適していないので無念だ。

 いつも通りゴミ捨て場の掃除に行き、申し訳程度のゴミ袋の整理をして終わった。あの辺りは虫が多い。大量の蚊には閉口していたが、最近虫除けスプレーが導入された。喜ばしい限りである。トンボも多い。登校する時、薮の上空に群れをなすトンボを目撃した。あんなに多いとは思っていなかったから、驚いた。帰りのSHRを先にやっている分、掃除に来るのが遅い。にもかかわらず管理者と一緒のタイミングに帰っている。担当教諭も温厚を絵に描いたような家庭科教師であり、彼女はお礼の言葉しか口にしない。罪悪感を覚えてしまう。図書館だよりは平気なのに。これが人徳というもので、よくしてくれる人を傷つけるようなことは裏切りだと良心が咎め、しづらいのだ。優しい人は優しく接されるのだな、と私は痛感した。全く、素晴らしい掃除場所である。

 母は二時頃帰宅する見込みであった。鍵を持っていないことを悟られぬには、母より遅く帰らなくてはならない。私は無駄話で時間を適当に浪費し、帰宅の途についた。家までは歩いて一時間ほどかかる。今日は天気がよく太陽が燦々と照っていた。徒歩帰宅には全然向かない陽気だった。流れる汗、潤わぬ喉、のしかかる鞄。夏に炎天下を長時間歩行するべきではない。学校から少し行ったところの歩道で、脇の森からたくさんの蝸牛が這い出してきては踏み砕かれていたゾーンがあった。晴れの日に集団で這い出してきて干涸びているミミズもそうだが、なぜこのような行動を取るのか、気になるところである。学校周辺の歩道は草がぼうぼうに生えていて歩きづらかった。こうしてみると、定期的に誰かが草刈りをしてくれているということがよくわかる。県か町が業者を雇っていたりするのだろうか。もしそうなら、できるだけ早く草を刈ってください。お願いします。途中でいくつかのバス停を通り過ぎる。バスに乗れば多少は楽になるが、家付近まで直通の路線はなく、せいぜい多少のショートカットができるだけだ。しかも便数が一時間に一本とかで、さらには時刻表通りの運行も望めない。金もかかるし、最近はめっきり使っていない。すると今度はICカードの有効期限が切れているかもしれないという疑念が浮かび、ますます足が遠のく。

 途中、住宅地に入ったところで、謎のエンブレムが入っている建物を見つけ、思わず足を止めた。知恵の輪のように重なった二つの円が外壁の高い所に描かれており、一瞬教会か何かかと思ったほどだ。近づくと表札が掲げられていて、普通の民家だとわかった。しかし何の印なのだろう。ちょっと危ない匂いのするような発見だった。この通学路を使うようになって三年以上経っての発見である。案外、周りには知らないことがあるものである。その家を眺めていると、少し奥に入ったところに景色の開けた場所があるのに気づいた。暑くて疲れていたのに、わずかにためらっただけで足が動いた。そこはかなり高い丘の端で、眼下には急な崖と広がる町があった。夏らしい入道雲、蠢く車たち、もっと遠いと思っていたショッピングセンター、背の高いクレーン車。何とかと煙は高いところが好きというが、私もそうである。なんていい景色、ここの家の人はさぞいい眺望を楽しめるだろうなと思ったが、今から私はこの崖を下るので、げんなりした。

 傾斜のえげつない坂を降りきり、またしばらく歩いてどうにか家に着いた。喉元過ぎればなんとやらだが、帰って着替えてみればそこまできつくなかったかななどと思い始めるから、よくない。生物の健康を損ねるには十分すぎる高温である。思惑通り母は先に帰宅していた。鍵忘れたかと思って心配したのよ、と言われたので、うんいやしかし疲れた、などと言って誤魔化した。誤魔化せている気はあまりしないし、誤魔化す必要もそこまで感じない。だが人とは合理とはかけ離れた愚かな生き物である。もうだいぶ遅い時間だったが、昼ごはんを食べた。今日は疲労が勝ってあまり空腹に苦しめられなかったのは、怪我の功名だったかもしれないと思ったが、疲れは別に名誉でもなんでもない。一生おうちでダラダラしていたい。一切の外出をしたくない。定期栄養摂取を済ませたところで、寝転がってスマホを見始めた。テレビで母がドラマを見ていたから目に入ってきたのだが、若い俳優が老境の役を演じていたのが違和感がすごかった。一代記みたいなドラマだから仕方ないのだが、そんなに高くクリアな声で話す年寄りはいない。私はドラマがあまり好きではない。一つには、このような作為を感じてしまうからだ。芝居くさい、と言えばいいだろうか。芝居なんだから仕方ないのだが。でも、完全にリアリティのないアニメは全く気にならない。実写というリアルの中に、フィクシャスな演技を見るからこんなにも嫌なのであろうか。なら実写映画も嫌いなのかというと、そうでもない。私の見るような有名な映画なら下手な俳優は使っていないのだろうし、ドラマの持つ変な説教くささがないのも大きい。母の見るようなNHKの連続ドラマは、毎話「こんな風になるべきだよね!」みたいな何かがある気がするのだ。単なる娯楽ではなく、安い人生訓めいた結末を持ってくることに、辟易してしまっている。単に私の考えすぎかもしれないが。

 テレビから目を背けてスマホを見ていたら、あっという間に、本当にあっという間に、夕方になっていた。恐ろしい。Twitterを何回か周回し、興味本位でゴミみたいな掲示板を見にいき、チェンソーマンの最新話を読んだら、スマホの充電が尽き、夕食の時間になっていた。どこまでも無駄な時間の使い方であった。いや、ゴミみたいな掲示板を見にいったぶん、負の影響すらあった。みんなもこんな時間の浪費をしてはいけない。晩御飯を食べると、図書館だよりを作りつつ、日記を書くことを思い立ったためこの文章を書き始めたという次第だ。これを含めて最近は専ら、キーボード付きのiPadで執筆している。WikiWiki加入からしばらくはスマホで書くことを続けていたが(これ以外にアクセス可能な電子機器を所持していなかったため)、ネットに繋がるパソコンが購入されてからは、一時期それを重宝していた。しかし共用パソコンゆえダイニングでしか作業できず、このタブレットを得てからは完全に主導権を奪われた形だ。執筆だけなら機能は劣らないし、持ち運べるし、何より音楽を流せる。しかもバックグラウンド再生で。これはまさに革命的であった。QOLが七桁くらい変わる。スマホで「比尾山大噴火」や「二・零零事件」を書いたとは、今では信じられない。目とか痛くなかったのだろうか。そういうわけで離れていたパソコンだったが、UTAUを使うために不可欠ということで、最近脚光を浴びている。準備や手順が煩雑で苦しいが、気長に取り組んでいつかは波音リツを歌わせたい。

 ネットを介して音楽を聞くツールはいろいろあるが、最近始めたSpotifyが便利だった。まず簡単にバックグラウンド再生できる。他の作業の合間に聞けるのは大変嬉しい。しかし、今まで使っていたYouTubeもタブレットならバックグラウンド再生はできるのである。だが、広告が全然違う。YouTubeは下手をしたら一曲ごとに挟まれる上、短かったり長かったり飛ばせたり飛ばせなかったりと形式がまちまちである。それにそもそも広告の内容自体が不快だったりもした。「ボンヤリ系男子、成戸悠己」とかうんざりである。一方、Spotifyは広告の頻度が低い。しかしその分スキップ不可の長い広告が入るのだが、飛ばせないとわかっているため、画面を変えることもなくむしろストレスレスなのだ。それに内容も大抵SpotifyのCMで、いい音楽がバックで流れているから不快感もあまりない。このアプリの難点としては、古めの曲だと入っていないことも多いことだが、そこはニコニコ動画とかで補うしかない。ryoの曲がニコ動にしかないのはどうしてなんだ。正直、あの動画投稿サイトは重いし使いにくいのでなるたけ使いたくない。CDとか売っていたりするのだろうか。私が大富豪だったら、好きな曲のCD全部買うのに。TSUTAYAは家の近くにない。Tポイントカードも持ってない。ゲオってCDも貸してたっけ。行ってみるかな。管理者もwowakaのアルバムをつべこべ言わずに買えと言っていたし、iTunesで買うべきときなのかもしれない。覚悟を……決めねば……。だがまずはゲオに行こうと思う。私にとって休日の外出というのはめちゃくちゃハードルが高いので、難しいかもしれないが。図書館にはほいほい行くのにね。ネットに繋がるパソコンが来たてのとき、どうにかこうにかして誕生日プレゼントに買ってもらったYOASOBIのアルバムのデータを取り込んだのが懐かしい。家にはCDプレイヤーがないため、このとき初めて再生に成功したのだ。父の部屋にレコード回す機械はあるのにね。あんなオーパーツ、ピタゴラスイッチの番組終わりのピタゴラ装置でしか見たことがない。いつか動くか試してみようと思っている。パソコンでのCD再生はネットを参考に挑戦したけど失敗し、管理者にやり方を教えてもらってなんとか達成した。方法を教示していただいたの、一昨年の長距離ウォーキングとかではなかったか? 歳月はあっという間に過ぎてしまうものである。寂しい気持ちになるなあ。

 日記というのは、その日のうちに書くものである。この通念に従うならば、この文章は日記ではない。なぜなら、二日にわたって書いているからだ。普通に書き終わらなかった。夏休みの創作文でも思ったが、案外文章を書くのは時間がかかるものだ。こんなふうに思いついたことを次々に長々と書いていたら、尚更だ。そういうわけで、後半の「今日」という文面は、嘘である。昨日である。一日の出来事を書いていたら学校から帰るあたりで十時になってしまったのだ、仕方ない。試しに一日の日記を書いてみてわかったが、結構苦行である。いつまで経っても終わらない。二日かかる。アンネ・フランクはすごかったのだ。書き言葉も難しいし、ウケも狙ってしまう。ここで教訓だが、日記を書くなら、一日の全てを記述しようとしてはいけない。何か特記すべき一点に絞って書くべきだ。でないと、完成させられない。日記とは意外と難しい課題だったのだ。私は痛感した。しかし、雑感を書きつくるのは楽しいものだ。麻薬草子を作ったのもこういう感覚からである。今から、私だけあらゆる課題ががんばりノートにならないだろうか。そうしたら、一点に絞った日記で紙幅を存分に埋めるのに。

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血迷った作品
せうゆ
深夜テンションで書き連ねた駄作。しょうもないし内容がクソ重い。お目汚し失礼します。
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 寮のイベント当日の未明に、後先も考えず執筆を始めました。草子の執筆は初めてである上、WikiWiki関連の創作活動からは半年以上は離れていたように感じます。拙い文章になるでしょう。深夜テンションです。

 最近になって、夜の寝つきが悪くなりました。高2になってからというもの、寮生役員やHR役員など、後から考えるとやめておくべきだったと思うような責任を問われる役職に就くことが多くなりました。高校2年生という、1年よりも学校に慣れ、さらに3年よりも受験から時間的・精神的に離れているという特徴からすると至極真っ当な事態ではありますが、外進生とのクラスの混合によりもたらされた新たなストレスというものは私の情熱ややる気といった活力を削ぎ落とすのには十分すぎるものでした。

 自らが完璧主義者であることに気づいたのも最近のことです。「課されたタスクは常に100%の出来で完遂することが目標」という考え方は、あまりに多くの思考リソースを吸い上げていきます。責任の問われる役職に就いたことで、多くの人数をまとめ上げるというタスクの発生、そして完全には従ってくれないクラスや役員の人々により、100%で目標を達成できずだんだんと失われていく仕事への熱意の減衰、といった事態が起こっているのでしょう。確実に、自らの積極性は中学校の頃と比べて失われてしまっていることを実感しています。

 「自分がこんなに怠惰になってしまったのはみんなが言うことを聞いてくれないからだ!」と、外部に原因を見出そうとするのは、私がコロナ世代の一員であるからでしょうか。自分たちが中高生という最も多感な時期に青春を謳歌することができなかったのは、社会が大々的に行動を制限するという緊急事態宣言のもと、我々に強いられたものであったからです。これは揺るぎない事実ではありますが、長期間日常生活で禁じられる行為があった状況というのは、その期間中に特定の行動を取れない明確な理由が存在したということを意味します。修学旅行で関西に行けなかったこと、昼食時間に机を近づけ、話すようなこともなくひたすら前を向いて体育教師と向かい合いながら弁当を口に運ばなければならなかったこと、対人距離を制限され、物理的・精神的距離を取らざるをえなかったことは総じてコロナの蔓延に理由を見出すことができます。あらゆる緊急事態宣言下における享受可能であった権利と同じように、自らの権利の侵害に対し、何か自分以外のものに原因を見出す、つまるところ責任転嫁する思考の癖とでも言うべきものが、自分を含む周囲の人間関係において見られるように思えてなりません。

 欠点を認識しながら、それを改善する努力をしようとしない自分に対しても、嫌悪感を抱きます。今、執筆時点で隣にいるMapilaplapに文芸誌掲載作品の提出を急かしているように、仕事や課題の達成を周囲の人間に呼びかけておきながら自らはその努力をしないという、自分の心の弱さ、自己矛盾を正当化しようとする狡さを認められない。中島敦『山月記』を読んだ時の自己投影も、同じようなものでした。「善い人間でなければならない」という完璧主義的思考と、それができていない現実の自分の乖離に自信を失い、「自己肯定感は程々に高くあるべき」というまた別の完璧主義思考に一層自己嫌悪が加速するという負のスパイラルが延々とつづくように感じられます。

 低い自己肯定感は、自己愛の欠陥を意味します。たとえ褒められたとしても素直に受け取れない卑屈さ、自己嫌悪による希死念慮など、どう考えても精神的に鬱屈とするような考え方しかできなくなるのかもしれません。などと書きながらもその改善努力をしないことでまた自己嫌悪レベルが上がるとかいうスパイラル・・・。こんなこと考えてるから眠れないのかもしれません。

 その一方で、「同年代の人間は考えてないであろう高尚なこと考えてカッコいいとか考えてる自分がいるかもしれない」というめちゃくちゃイタい最悪のシナリオを思い浮かべると、自分ではそうでないことを信じているけれども、果たして周囲からはどう見られているのか、不安でしょうがなくなったりします。

 今後増えるかも

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ネットスラングはすごい
Notorious
ネットスラングを堂々と使う奴はなんかやだな('
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「笑」「www」「草」これらはSNSなどでよく使われる、話者が笑っていることや可笑しいと思っていることを意味する表現だ。 私も周りの友達も頻繁に使っている。私にとっては馴染み深い言葉だ。しかし、このようないわゆる「ネットスラング」や「若者言葉に対して、否定的な考えを持っている人も少なくないと思う。特に年上の大人の中には、意味が分からなかったり言い回しが合わなかったりして、嫌悪感を抱く人もいるだろう。私の父も、私や姉がこのような言葉を使うと、

「正しい日本語を使いなさい」

と少しむっとしたような口調でたしなめる。個人の感性の違いはあるから、それは仕方ないと思う。でも、これら「ネットスラング」を一概に良くないと決めつけ、否定するのは間違っていると私は考える。

 そもそも、このような笑いの表現は、どうやって生まれたのだろうか。もとになったのは、前々から雑誌のインタビュー記事などで使われていた表現「(笑)」だそうだ。それがネット上の会話にも使われ、括弧が省かれるようにもなった。そしてアルファベットしか使えないチャット欄で、「warai」の頭文字を取った言い方「w」が生まれた。これは重ねて用いられるようになり、それが地面に生えた草のように見えたことから、「草」や「草生えた」といった表現もできていったそうだ。

 インターネット上の会話では、相手の表情を見ることができない。よって、感情が対面の会話に比べて伝わりにくいのだ。その是非についての議論も盛んだが、私が言いたいのはそこではない。「笑」などの表現は、話者の感情を伝えられるとても良い道具だということだ。出来事をただ文章にするだけでは、そこにどんな感情を抱いたのかを伝えることはできない。通常の会話では、表情や口調を変えることでそれを補う。楽しかったなら明るい顔で、悲しかったなら重いトーンで、怒っているならむかついた表情で、など誰もが無意識のうちに行っていることだ。しかし、テキストしが送れないネット上のやり取りでは、それができない。その代わりに、これらのスラングがあるのだ。

 私がこれまで挙げた例は、いずれも笑いを表すものだ。もちろん他の感情を表す言葉もあるが、笑いはその中でも輪をかけて重要だと思う。なぜなら、文章から一番伝わりにくい感情からだ。ただの文字の羅列から「可笑しい」「面白い」といった感情は読み取りにくい。そのため、スラングの重要さも高いのだ。

 また、これらのスラングの利点は、ただ笑いの感情を伝えられるだけではない。コミュニティによっても違うだろうが、それぞれ達うニュアンスを持っているのだ。例えば私の周りでは、「www」は声に出てしまうほどの笑いとして使われている。また、ミの数を増減させることで、笑いの程度をより詳しく表すこともできる。一方、「笑」は少し抑えた笑いを意味する、より穏やかな表現だ。そして、「草」はもっと落ち着いた笑いだ。可笑しい」ではなく「興味深い」寄りの「面白い」とでも言えばいいだろうか。もちろん人によって受け取り方や使い方は違う。ただ、画一的なものではなく、意味にバリエーションがあるのは確かだと思う。このように、ネットスラングは顔の見えない人との会話において、感情を詳しく伝えられる、とても便利なものなのだ。

 また、ネット上だけに留まらず、一部のネットスラングは対面の会話でも使われるようになっている。「草」などの、固有の読み方があって言葉として確立したものがそうだ。これも、ネットスラングの有用性を示していると思う。

 人類は、遥か昔に言葉を獲得してから、それを絶えず進化させてきた。石板などを削れるようになると、文字を発明した。紙と筆記具を使うようになると、文字をより書き易く改良した。外国語と触れると、それも導入した。手紙という文化ができるとそのための書式も生まれたし、電話が発明されると特有の挨拶もできた。そして近年、情報通信技術が急発展し、インターネット上で人と会話できるようになった。そうして生まれたのが、ネットスラングだ。これも言葉が進化した一つの形なのだ。顔が見えない会話で、いかに気持ちを伝えるか。この難題をクリアするために人々が試行錯誤し、生み出した素晴らしいものだと私は思う。

 だから、これらを「若者言葉」「ネットスラング」と一括りにして否定するのは間違っていると思う。親しみがなくて意味が分かりづらいのは仕方のないことかもしれない。でも、理解しようともせずに端から受け入れようとしないのは違うと思う。ネットスラングは、人々が積み上げてきた知恵の結晶で、円滑なコミュニケーションに不可欠なものだ。だから、私はこれらの言葉を堂々と使っていこうと思う。

ⒸWikiWiki叢書


同ボ祭Ⅴ 実況
キュアラプラプ
思い立ったが吉モーメント
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まにまに、すばらしい。燃ゆる思いは万華鏡。俺は今、Watch2Getherを介して行われている第五回WikiWiki同好会ボカロ祭り・オフライン、あるいはWikiWiki同好会ネット音楽祭・オンラインに参加している、ピトフーイが始まった!

管理者を含む常習者の三名がサイエンスデスゲームに旅立ってしまった現在、WikiWikiの本部はホテルグランド東雲にあると言っても過言でないから、私は辺境の島で自宅という孤立空間にいて、アイデンティティが始まった!

アラヘク評「マイナー」として知られる Kanaria のすばらしさには最近気づいたところである。すばらしい。初音ミクの調整がアブラナに似ている気がしませんか? アイデンティティ それは希望のアイデンティティ!!!! 今、俺は、俺が推薦し、俺がリスインしたボカロ曲たちを、ただ一人ここで聴いている。ゼロトーキングが始まった!!

ゼロトーキング、曲もMVもすばらしすぎる。シスター! 最後のスーツケース(?)が開くとこのアニメーション、めちゃくちゃシャノンの作画な気がするが、それを確認する術は俺にはない。すばらしい。同ボ祭という確かなダイナミクスを俺は観測している。宇宙とちょうど同じだ。他の観測者を観測できないまま、俺は神妙な気持ちで耳を傾けている。みんな、そこにいるんですか? エイリアンに話しかける無為! あしゅらしゅらが始まった!

Bメロがすばらしすぎる。いいね。阿修羅修羅!話は遡り、1時間前くらいに流れていたGESO「空中」のことになるが、今思えばチャーハンこと「浮」は「空中」のファンソングかもしれないわ。齷齪! 今マジでライブ感で書き始めて、同ボ祭の進行に合わせて バカ通信が始まった!

俺が聞いてきた知声のボーカル曲、実際マジでバッハの曲が大部分を占めている(' チャリで来た! コロンビア! バーボンハウス! タンヤオ! そう、推敲もなしに、過去を振り返らない文章を無限に垂れ流すゾーンに俺は入っているから、勘弁。ミニ偏が始まった!

原口沙輔の曲で一番好き。ユ! 空前のテトブーム、すごい。ボカロはキャラクターとして、また楽器としての両要素を培養し、完全に成りつつあるわ。ミニ偏を聴きすぎて分量が少なくなった。アリババだ!

柊キライ、すばらしい。あの、あれ、名前が出てきた! オートファジーとかが好きです。すばらしい。音楽、恐ろしい。そう、俺はマジで、「音楽」というその顔が嫌いなのであるわ。音楽は俺の方を向くな。景色たれ。EYEが始まった!

リンド リンド ひゃあ! いや、音楽のコンテンツは現代娯楽大量消費人間の一人(人類の一環!?'として当然好きだが、楽曲のプロセスなど知らず、それはきれいな景色であって、それを構成するものこそわたしですと息巻いてやってくる音楽という概念め~~!! 誰かの心臓になれたならだあ!

美しい…… ズンッチャズンチャ ピアノを用いた「陽気な曲」を俺に聴かせ、「陽気ですよねえ」と笑う音楽教師ども、その奇妙な内輪の共通認識をもって幼稚園生・小学生の俺を洗脳しようと試みるな! いずれ死するのが人間だ! 言い得て妙だわ。俺は音楽の「顔」が嫌いなんだわ。素晴らしいイラストを生産する絵師の政治発言が気に食わなくとも、そのイラストを評価するように、わたしは音楽の顔を嫌ってその児子を敬う。炉心融解だ!

きれいすぎる。すばらしい。リン””” 小学生の俺にとって、楽曲とは、もっぱらゲームのBGMであって、それ以前の童謡というものの聞き覚えが弱いのは本当に謎だが――このまえ「どんないろがすき」を検索し、その著名さに私は驚愕したことも記憶に新しい(だろう'――(MVのクオリティが高い! これは炉心融解の話) それが俺の奇妙な反骨精神を愚か・平凡形で助長したのかもしれないが、QUEENだ!

俺はこの曲のサビが好きすぎることで一躍有名になった。あと絵が上手すぎる。これってKanaria本人が描いているの? 誰か教えろ!!! 長3度と短3度が感情を司っているとされるこの意味の分からない世界は、俺の音楽に対する怒りが生み出したのか!? なんたる逆説か! ハクチウムだああ!!

人それぞれ、今月、今週、あるいは今シーズンのふぁぼ曲があるだろうが、ハクチウムはおれのそれのそれだ。「ロボットか」のとこ、かっこよすぎる。俺は普段、Youtubeとかで次の同ボに向けたボを採集するとき。歌詞をほとんど聞かずに曲を聴きまくり、その中でリピートしまくった曲は自動的に歌詞を頭の中に誘導し始めるのだが、そこですばらしくなるもの、わあああ! この、最初らへんにも出てくるが、「顔も名前も覚えてないのにあなたが好きよ」って、すごすぎんスか? Dr.コピーだ!

¿?のflowerはかっこよすぎることで俺に知られている。その点、「蜜蜂と遠雷」は、クラシックのピアノコンクールとかいうおれがもっとも忌避スタンドを抱いている題材の小説にして、意外にも俺をすばらしく感嘆せしめた。あれは音楽の厚顔無恥を俺に押し付けてくる中年女教師ではなく、あるいは楽曲であったわ。Beyond the way!!!

管理者が出していたが、セトリは意地でも変更しないのが同ボ祭の新しい流儀だ。美学だ。博愛だ。Giga、サウンド、すばらしい。中学のときも、あのなんか卵がどうのこうの、美術館を歩くがどうのこうのの「"「"コミカルな"」"」曲をニヤニヤしながら俺に聴かせてきた教師がいやがったよな。俺はお前を許しません。俺は十分に習字の授業が嫌いだが、例えるならあいつは武骨な体育教師であって、一方音楽はあの憎らしい気味の悪いくねくねした貌の音楽教師だ。

消えた??? 次の曲が流れない!??!?!? どうして”””””””!??!?! そういえば、LapUnderは誰だったのだろう。せうゆかしら。RoomをLeftしてしまった。

ああ、本当に終わってしまっている。まだ聴く曲は残っているのに。

ⒸWikiWiki叢書


海辺のカフカを借りて
Notorious
何をとち狂ったのかNotoriousが数ヶ月もMapilaplapに借りた末の読書感想文。春休みの宿題など彼の前では無力!
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「もう行ってしまうのかい?」
 僕は声をかける。彼は少しのあいだ動きを止め、それからゆっくりと振り向く。
「うん。電車が来てしまうからね」
 改札の前には、僕らの他に誰の姿もない。砂漠のように乾き切った風が僕らのあいだを吹き抜ける。このひび割れた駅には、もう永遠に電車は来ないように感じられる。けれど、じきに電車が来ることを僕は何よりも明確に知っている。彼の乗る電車が来ることを知っている。
「それじゃあ」
 彼はまた前を向き、改札をくぐろうとする。まるで後ろめたいことがあるみたいな、似つかわしくない性急さを僕は感じる。でも、それは僕の勝手な願望の投影にすぎない。ちっぽけな切符を機械に入れようと一歩踏み出した彼を、僕は思わず呼び止めた。
 彼は今度は怪訝そうに振り向いた。
「ホームまで送るよ。少し待っていてくれ」
 小走りに券売機まで行き、一番安い切符を買う。おつりをポケットに突っ込み、急いで改札まで戻る。
「行こう」
 彼は黙って改札をくぐる。切符が機械の中を滑る音が微かに響く。その背中に僕は後悔を抱く。僕は彼の気分を害してしまったかもしれない。僕は彼に続いて改札を通り抜ける。
 ホームへの階段を僕らは並んで上がる。彼は上を向いて、僕は下を向いて。僕は茶色の点字ブロックを踏みしめながら、一歩一歩階段を登る。そうしないとホームに辿り着けない気がする。
 少しずつ光が覗いてくる。空に近づいている証だ。僕は隣を歩く彼の横顔をそっと盗み見る。その精悍な顔立ちに、わずかな愁いが滲んでいる気がして、僕は驚く。あるいはこれも僕の勝手な勘違いなのかもしれない。しかし、僕は彼の顔から目が離せなくなる。そんなとき、僕らは無人のホームに到着する。
 ホームの両側に、錆びついて無口な線路が横たわっている。柱は長年の存在にくたびれ、プラスチックのベンチは座る者を拒絶しているようにすら感じる。だから僕らは立って電車を待とうとする。僕は左のラインに並ぼうとする。でも、彼は反対側に向かうから、僕は声をかける。
「そっちじゃない。電車が来るのはこっちだ」
 彼は反対側の街並みに目をやっている。そして、目を離さないまま答える。
「わかってる。でも、今はこっちの景色を眺めたい気分なんだ。そっちの景色は電車に乗ればいやでも目に入るからね」
 彼の顔は陰になっていて、表情は窺えない。僕は彼のことを思う。その目に何が映っているのか、想像する。ひょっとしたら、今から取り戻せなくなるものを思っているのかもしれない。僕はそう思う。
 そのとき、電車が近づいてくる。なんのアナウンスもないけど、それでも僕らは電車がまもなく到着することがわかる。別れがまもないことがわかる。
 彼はこちら側に戻ってくる。黄色い線の前に律儀に並ぶ。僕はその半歩後ろに立っている。何か言おうとするけど、言葉は頭の中を逃げ回っていて、うまく捕まえることができない。
 やがて乾き切った風とともに電車が駅に滑り込んでくる。彼はなびいた髪をそっと押さえる。僕はなす術なく立ち尽くしている。僕が何も言えないまま、電車は速度を落とし、そして遂には僕らの前で止まる。気の抜けたような音を立てて扉が開く。僕には、電車の中はこの世界中のどこにも属していない異界のように見える。
 彼は足を踏み出す。いつも通りの落ち着いた仕草で電車に乗ろうとする。いつも通りの動きで、いつも通りの視線で。
 僕の隣には、いつも彼がいた。そんな気がした。実際のところ、彼が僕と一緒にいた期間はそこまで長くない。それでも、どんなときだって僕の隣には彼がいた気がした。僕は硬い切符を握り締め、一歩を踏み出そうとした。そのとき、彼と目が合った。
 振り返った彼の目には、やはり愁いが浮かんでいる気がした。僕はそれを嬉しく思った。
「きみに会えてよかった」
 気づけばそう言っていた。彼は一瞬虚をつかれたような顔をした。そして微笑みを浮かべた。
「別れを悲しまないでくれ。確かに僕はきみのところを去る。けれど、僕はもう、きみの一部になっている」
「きみは僕の一部になっている」
「そう」
 彼は僕の一部になっている。僕は少し安心したような、泣きそうな気持ちになる。僕は彼に問う。
「僕はきみの一部になれたかい?」
 彼は微笑んだまま答えない。僕は今までで一番濃い別れの気配を感じる。
 だから、僕は最後の質問を彼に投げかける。
「また会えるよね」
 彼は僕の目をまっすぐに見つめる。僕も彼の目をまっすぐに見つめる。何も見逃さないように。彼の目には、もう一片の愁いも浮かんでいない。
「もちろん。僕はきみの一部になったから」
 僕はきみに会いたいんだ。僕の一部に会いたいんじゃない。そう叫びたいけれど、こらえる。きっと彼を困らせてしまうから。
 代わりに彼が口を開く。
「次に会うとき、僕は変わっているだろう。ひょっとしたら、前と同じものとは思えないくらいに。だから、きみも変わっていてくれ」
「どうやって?」
「僕が見ることができないものを、たくさん見るんだ。聞いて、触れて、感じるんだ」
「どうして?」
 そのとき、電車の扉が閉じる。僕と彼のあいだは永遠に隔てられる。彼が答える。でも、ガラスに隔てられ、彼の声は僕に届かない。そして、電車はゆっくりと動き出す。微笑んだ彼は、すぐに僕の視界から消えてしまう。電車はどんどん加速していき、僕だけをホームに残して去っていく。
 僕はゆっくりと振り向くと、反対側の街並みを眺める。
 彼の声は聞こえなかったけど、口の動きで僕は彼の言葉を理解した。
 ——その方が素敵だろう?
 僕は彼の見られない景色を眺める。しかと目に焼き付けようと思う。空は柔らかい赤に色づき、幾筋かの雲が筆で引かれたように浮かんでいる。乾き切った、でもちっともいやじゃない風が、ホームを吹き抜けていく。

ⒸWikiWiki叢書


脚注[ソースを編集]

  1. 詳細は分かんな~い
  2. purge(分離する, 粛清する)
  3. 未公開草子で小4のNotoriousにどっかの図書館のパンフレットを持ってきたことが言われてるくらい
  4. 余談だが、嵐の「Happiness」である。
  5. さっき出てきたHappinessも、姉が嵐ファンだったために知った。
  6. 今となっては嘘である。結構いる。


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