Sisters:WikiWikiオンラインノベル/愛の言葉

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お蝶夫人の瞳はもう日本の女のように黒くはない。来る日も来る日も海を見詰めて暮らしたので、瞳まで青く染められてしまったらしい。 ――『蝶々』三島由紀夫   


「君の瞳も青いね。まるでモルディブの海のように」
 ええ、と彼女は言った。
「私の祖母はフランスの人だから」
 その青い瞳は、存分に輝いている。
「じゃあ、その素敵な二重もフランス産なのかい?」
 僕はそこにあったセルロイドの人形を手に取って、またそこに置いた。風が吹き、辺りは微かに薔薇の香りがした。レースカーテンは三日月の光に揺れた。君は窓辺にいた。
「わからない。でもこの二重は母のだから、きっと神戸産だわ。さっき食べた、美味しいステーキと同じね」
 彼女はしずかに微笑んで、ゆっくりと掃き出し窓の扉を開けた。その時、カーテンが移動する以外の音は全く聴こえなかった。
「違うよ。あれはオーストラリアのだだっ広い砂漠にぽつんとある、オアシスで育った牛さ。もちろん、とっても美味しかったけど――」
「ううん違うの。母さんが言ったのよ――」
 彼女は収穫月の葡萄のような艶やかな唇にひと差し指と中指をあてて、まるで記号と象徴の違いを説明するように言った。
「――母さんが生きてた頃によく言ってたの。『美味しい牛肉は全部神戸の生まれなのよ』ってね。大丈夫。気にしなくていいわ。ジンクスみたいなものだから」
 彼女は一歩、また一歩と外へ出た。その動作はひとつの静寂を纏っていたが、不思議と重苦しくは感じない。僕は彼女を追って外へ出る。
「きっと、月が明るすぎるの。まるで太陽みたいね。今日の月」
 彼女の言うとおり、三日月と呼ぶには少々明るすぎる夜で、閉じた箱庭は満月の時くらいのひかりで満ちていた。しかし空を見上げるとそこには歴とした立派なかたちの三日月があるのだった。煌々こうこうと、奇妙なまでに真白なひかりを湛えて。
「月が綺麗だ」
 僕は不思議とそう呟いていた。風が僕に言わせたのか、無意識に口から出た言葉だ。それを聞いた彼女は僕の顔をまじまじと見て、再び微笑んだ。次に空を見上げ、そうして幾らかのをあけつつ言った。
「『月が綺麗』良い言葉ね。儚く美しい。それでいて教養があって、なのに随分と世間知らず。まるで思春期の少女のような、夢見がちなロマネスクの言葉」
 僕は箱庭の垣根にびっしりと纏わりついた薔薇のつたを見ていた。そして一輪の、ひときわ目立つ薔薇がなっているのを発見した。僕はそれを摘んで、月に透かす。月光の白と花弁の赤は、交わるようで交わらない。ふたつの象徴的な美は、同じ世界に存在していながら自らの殻に閉じこもってしまっている。その殻に閉じこもることこそ美しさというものだ、と僕はひとりで納得する。
「まるで君じゃないか」
 僕は薔薇を見つめながら言った。
「いいえ、貴方よ」
 彼女は悪戯っぽく笑った。透き通った五月の夜空には、薔薇の紅なんかより君の瞳の青のほうが映える。
「そうかもしれない」
 僕は彼女に見惚れながら、秋の風が吹いたときに出す、マフラーの柄のことを考えていた。
「ねえ私は、『月が綺麗』って言葉、好きよ。でも……」
 彼女はアザレアの、緩やかに垂れた枝先のその大きな花に手を差し伸べた。彼女が触れると、風に揺れていた枝の動きが止まる。レースカーテンの動きも止まる。月の公転も止まる。僕の呼吸も止まる。この世界では、ただ柔らかな風だけが吹いている。
「……そうね。なんというのかしら。それは彼の愛のかたちであって彼だけのことばなの。愛って人それぞれのかたちがあるはずでしょう。だから私はそれに代わることばを、私だけのことばを創りたい、と思ってしまうの」
 彼女はアザレアの、淡いコーラルピンクの花弁から手を離し、天を仰いだ。そして彼女は月光に触れた。止まっていた世界は動き出し、箱庭は再び生気が紛れ込んだ静寂に包まれる。彼女が歩くときの、あの静寂に包まれる。
 僕は彼女の、そのみぞれのように白い身体を見た。薄いドレスの隙間から覗いた、月光を吸い込むその背中。動物の瞳よりも暗い、艶やかな長い髪。そして、青い瞳。
 その虹彩は、それを形づくるひとつひとつが真青で、奥の水晶体レンズさえ青く染まっているかのようだ。その瞳の真ん中に、あの三日月がいた。その三日月に魅せられて、僕は手に持っていた薔薇をつい落としてしまう。
「ねえ、貴方」
 気づくと彼女は心配そうな顔をして、僕の顔を覗き込んでいる。
「瞳が真っ紅よ」
 風が吹いた。彼女の服のレースがサーカスの踊り子のように舞った。木々が、まるで二、三人で戯れる十四の少女たちのようにざわめいた。
「ああ、いえ。勘違い――やっぱり月が明るすぎるのね。きっと、引力も特別強いんじゃないかしら」
 彼女は顔に両手あててその両目を覆った。僕は力をかけたらすぐに折れてしまいそうなその細い手首にそっと手をあて、彼女を丁寧に抱き寄せた。
「きっと、僕は薔薇を見つめすぎたんだ。僕の目が紅かったのは、だからさ。ほら見て」
 僕の声を聞いた彼女は恐る恐る目をあけた。
 星は、宇宙が生まれた時に方方に散り散りになった原始のエネルギーの成れの果てだ。月光は、そのなかのひとかけらに過ぎない太陽から、熱とともに発生し月を経由してこの惑星降りそそぐ純白のひかりだ。そのひかりは今、ふたりの瞳の色彩を伝えあうためだけに、僕らの網膜間を宇宙のどれより速い速さで往復していた。
 目を開けた彼女はしばらく何かを畏れるような表情であったが、ふっと、まるで清らな湖の水面に徐ろに色水を垂らしたときのあの彩の拡がりかたのように相好を崩すとこう言った。
「ねえ、いい事を思いついたわ」
 彼女は僕の手から離れて、先刻落とした薔薇の花を拾い上げて、僕から見て月の方向へと駆け出した。そして、愛らしい姿勢で僕を振り向いて言った。
「薔薇と月、二つとも、すっごく綺麗ですね」
 欲張りな彼女は三日月の、溢れんばかりに注ぐひかりの下で、玲瓏に耀く薔薇を精一杯持ち上げた。
 僕は思わず微笑んで言った。
「何方も心の底から綺麗だとは思えないですね。だって――」
 僕は五月の爽やかで透き通った空気を胸いっぱいに吸いこんだ。彼女は頬を紅潮させて目を伏せる。
「――だって、まるで来る日来る日も海だけ見詰めて暮らしてたような、綺麗な瞳の素敵な女性が、無邪気にそれらを邪魔しているんだから」
 彼女は僕の言葉を聴くと、薔薇や月が霞んで、関係のないところへ雲隠れしてしまうくらい、美しい幸せの表情かおをした。それは悦びではなく温かみでもなく、ただそこにある幸せだった。彼女はその表情かおを見られるのがどうにも恥ずかしいようで、さっと右手で顔を隠してしまう。僕はその仕草が堪らなく愛おしく感じて、再び彼女を抱き寄せた。
「いいかい? もっと近づいて君を見せて。僕は君だけを見ていたいんだから」
 抱き寄せられた彼女は頬を真っ赤に染めて暫く目を逸らし続けていたが、やがて観念したように目を閉じ、受け身の姿勢をとった。
「目を閉じては駄目だよ。君の瞳が隠されてしまう」
 彼女は静かに目を開けた。まるで干潮の海が瞬く間に満ちてゆくように、彼女の瞳が露わになる。その瞬間ふたりはひとつになり、自然と殻を形成した。時間が経つほどそれはより強固に世界からふたりを隔絶し、それが持つ鋭利な美しさを一層研ぎ澄ましていった。
 それはふたりだけの、完成された愛の姿であった。