Sisters:WikiWikiオンラインノベル/水とちくわとカップ麺

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 ぐうううう。
 盛大な腹の虫で目が覚めてしまった。瞼を閉じたまま、ヴァレンチーナは考えを巡らせる。
 こんなにお腹が空いているのは、糖質を摂らないダイエット中だから。私だけじゃなくて、きっと皆お腹を空かせている。誰だっけ、シェアハウスの住人全員でダイエットしようなんて言い出したのは。ジュリア? それともボランデだっけ?
 しかし、考えは自然と食べ物に向かってしまう。故郷ブラジルのシュラスコ料理が食べたい。日本ではなかなか食べられないし。あの、ジューシーな食感と、溢れ出す肉の旨味と──。
 ぐうううう。
 2度目の腹の虫で、我に返った。5人でダイエットするにあたり、夜食は禁止というルールが設けられている。ベッドに寝転がったまま、薄目を開けて夜光時計を見た。1時51分。まだまだ深夜。早く寝ないと、食欲に勝てなくなってしまいそうだ。
 ヴァレンチーナは、固く目をつぶった。大好きなシャーロック・ホームズのことでも考えよう。お気に入りの話を反芻するんだ。今日は『踊る人形』にしよう……。
 その時、耳が微かな音を拾った。ズズズ、ズルズル。これは、麺を啜る音……? お腹が空きすぎて、夢の中で夜食を食べ始めたのか?
 ……いや、違う。確かに聞こえる。ヴァレンチーナの意識が、不意に覚醒した。階下、ダイニングの方から、麺を啜る音がする。幻聴じゃない。つまり、誰かが夜食を食べてるってことだ!
 ヴァレンチーナは、ガバリと上体を起こし、そのままベッドを飛び降りた。自室のドアを開け、勢いよく階段を駆け下る。ダイニングの方から、ドタドタと足音が聞こえてきた。
 逃がすもんですか。ヴァレンチーナは、トップスピードのまま、ダイニングへと突入した。
 電灯は点いており、人影は無い。左手にはキッチンがあり、コンロに置かれたヤカンが見える。カウンターを挟んだ正面の奥には、大きな食卓がある。そして、その上に、何かが乗っている。
 ヴァレンチーナは、食卓の方へ歩を進めた。机の上には、カップ麺とコップ、そして皿に乗った食べ物。これは確か、ちくわと言ったか。近づいてよく見てみる。蓋がめくられ、中身は半分ほどになり、ふわふわと湯気を立てているカップ麺。コップに少しだけ残っている、恐らく水道水であろう液体。小皿に1本だけある、端っこが齧られたちくわ。テーブルに乗っているのはこれだけだった。やはり誰かが夜食を食べていたのは間違いない。でも、その犯人はどこに……?
 その時、階上からパタンという扉の閉まる音がした。刹那、何が起きたかを悟る。
 犯人は、ヴァレンチーナが来るのを察知し、キッチンの奥に隠れたのだ。そして、ヴァレンチーナが机の上を観察している隙に、後ろをこっそり通り抜け、自室へと帰ったのだ。さっき聞こえたのは、犯人が部屋へと戻り、扉を閉めた音に違いない。
 ──しまった。
 ヴァレンチーナは歯がみした。みすみす犯人に逃げられてしまった。ホームズなら、こんなミスはしなかっただろうに。
 1つの決意が、ヴァレンチーナの心の中にめらめらと燃え上がってきた。
 私が、夜食した犯人を突き止めてやる!

*        *        *

「──で、全員を叩き起こしたっていうの? 今は2時よ? 2時」
 寝起きでボサボサの銀髪に手櫛をいれながら、スヴェトラーナがぼやいた。他の皆──ジュリア、ボランデ、ナオミ、そしてヴァレンチーナ自身──も同じような格好だった。全員寝間着のままだし、化粧はおろか寝癖すら直していない。そして、眠そうに目を擦っている。但し、ヴァレンチーナの目は冴えていた。なぜなら、この中に一人、さっきまで起きていて夜食を食べていた者がいるからである。
 ここは日本国、京都にあるシェアハウス。住人5名は皆、近くの大学に通う一回生だ。入居する時、「国際性豊かな方がいい」と皆が思った結果、女5人の祖国は完全にばらけた。ロシア、アメリカ、南アフリカ、日本、そしてブラジル。もちろん不便なことも多かったが、どうにか現在8月までやってきた。日本語でのコミュニケーションも、ほぼ問題なくできるようになっている。
「今から犯人を突き止めるんですか?」
「そうよ!」
 ボランデの質問に、ヴァレンチーナは力強く答えた。ナオミが苦笑する。
「名探偵ヴァレンチーナってことね。いいわ、付き合ってあげる」
 皆眠たげではあるが、異を唱える者はいなかった。ヴァレンチーナのシャーロッキアンぶりは皆知っている。それに、夜食したくらいで今更罅が入るような仲でもない。犯人ともども、ヴァレンチーナに花を持たせようと担いでくれているのだ。なら、担がれた分は思い切りやらせてもらう。
 そこで、ジュリアが言った。
「とりあえず、このカップ麺を片付けない? お腹が空いちゃうわ」
 5人は、食卓の椅子に腰掛けている。ヴァレンチーナは、カップ麺の目の前の席に座っている。ヴァレンチーナは首を横に振って答えた。
「ダメよ。現場は保存しなきゃ」
「そう」
 ジュリアは引き下がったが、カップ麺を視界に入れまいと顔を背けた。入れ代わりにボランデが聞いてくる。
「犯人を突き止めるって、具体的にどうするんですか?」
「まずはアリバイ確認ね。誰か、アリバイのある人はいる?」
 めいめいが首を振ったり肩を竦めたりして応えた。
「皆部屋で寝ててアリバイは無いってことね。次はどうしようかしら……」
 すると、スヴェトラーナが、
「メニューからすれば、犯人は日本人なんじゃないの」
と言い放った。
 カップ麺は世界で売られているし、ヴァレンチーナ達にもお馴染みのものだ。しかし、問題はちくわだ。ヴァレンチーナも日本に来て初めて存在を知ったし、ちくわを食べるという発想は、正直出てこなさそうだ。だから、スヴェトラーナの言うことも無理はない。自然と、皆の視線が1人を向く。
 だが、ナオミが毅然と反駁した。
「それは偏見ってものよ。ちくわは冷蔵庫にあったから、物色して食べようと思う可能性は誰にでもある。犯人が日本人と決めつけるのは、短絡的すぎるわ」
「本気で言っちゃいないよ」
 軽く手を振り、スヴェトラーナは欠伸をした。ボランデとジュリアは、
「タンラクテキ?」
「結論づけるのが早すぎってこと」
「おー、なるほどです」
と会話している。
 ナオミの言う通り、偏見で犯人扱いすることは、あってはならない。確固たる証拠があって初めて、推理と言える。
 なら、その証拠をどうやって見つけようか。ヴァレンチーナの頭に、この前読んだ日本の推理小説に出てきた1つの言葉が浮かんだ。
「現場百遍、だわ! 現場であるこのダイニングをよく見て、証拠を見つけ出すのよ!」
 そう言うと、ヴァレンチーナは残された食べ物を凝視した。熱意に感化されたのか異様な行動に気圧されたのか、他の皆も机の上や下を、何かないか探し始める。ナオミはキッチンに向かった。ヴァレンチーナは目の前の遺留品に集中する。
 カップ麺から湯気はもう出ておらず、のびて体積を増した麺が、汁から少し顔を出している。めくられた蓋では、水蒸気が当たってできた水滴が集まり、1つの大きな水滴が今にも落ちそうになっていた。
 その右には、陶器の小皿に乗った食べかけのちくわ。真ん中は茶色く焦げ、白い端は2つあったはずだが、こちら側の1つは食べられて既に無い。2口分ほど齧られているだろうか。その断面以外は、綺麗なままだ。
 さらに奥には、赤いプラスチックのコップがある。入っている水の嵩は半分以下で、結露がないことから、やはり中身は常温の水道水だろう。
 ふと思いついて、ヴァレンチーナは尻ポケットから虫眼鏡を取り出した。ジュリアが少し呆れたような声で言う。
「そんなもの持ってるの?」
「探偵七つ道具の一つだから」
 ヴァレンチーナはコップの縁を拡大して見てみた。背景が赤くてわかりにくいが、茶色い口の跡が付いていた。十中八九、カップ麺の汁だろう。
 続いて、ちくわの断面も見てみる。上端付近に、コップ同様に汁が僅かに付着していた。
「つまり、犯人はカップ麺を食べ、その後にちくわと水に口をつけたことがある、ということか……」
 だから何だ?
「だから何なの?」
 思っていたことをスヴェトラーナにも言われた。
「うーん、現場から判ることは、このくらいかしら……」
 これじゃあ、犯人特定なんてできっこない。やっぱり、無理なのかしら。
 ヴァレンチーナが黙り込んだその時、ボランデがぽつりと呟いた。

フォークが無いですね

 衝撃が走った。弾かれたように机の上に顔を向ける。皿の陰も覗くが、無い。床も慌てて見てみるが、落ちていない。キッチンにも駆け込んで見渡したが、何も無かった。フォークはどこかに消えてしまっていた
 カップ麺を手で食べるわけもない。フォークでないにしろ、何かしらのカトラリーは使われたはず。それがどこにも無いということは……。
 ジュリアが呟く。
「犯人が持ち去ったってこと? でも、どうして?」
「それは説明がつけられると思うわ」
と、ナオミが話し始めた。
「犯人は駆け下りてくるヴァレンチーナに驚き、慌ててキッチンに隠れたんでしょう? その時、フォークを手に持ったまま、動いてしまったのよ。ほら、よくあるじゃない。で、フォークを改めて置いていくわけにもいかず、そのまま部屋へと戻ったのよ」
 なるほど、筋が通っている。
「なんだ、皆ヴァレンチーナより名探偵してるじゃん」
 スヴェトラーナが茶化す。だが、まったくその通りだ。悔しい。どうしてフォークが無いことに気づかなかったんだろう?
 だが、ここまで来れば犯人の特定は易い。
「つまり、犯人の部屋にはフォークがあるってことね。早速、家探ししましょ!」
 ところが、ヴァレンチーナの提案は、思いのほか強い反対にあった。
「嫌よ。部屋を見せるなんて。プライバシーよプライバシー」
「私もちょっと困るかなあ。散らかってるし」
「ヤサガシ?」
「家の中を探すこと」
「おー、なるほどです」
 とどめに、スヴェトラーナがこう言ってニヤリと笑った。
「大体、ホームズさんがそんな強引な方法取っていいのかい? 名探偵ならスパッと、推理だけで解決しなくっちゃ」
 むむむ、そう言われると引き下がるしかない。
 ヴァレンチーナは天井を仰ぎ、ため息をついた。推理するとはいえ、これ以上どうすればいいの? もうできることは全部やったはず……。
「現場百遍、か」
 捜査が行き詰まったら、十回でも百回でも現場に赴け。本の中の刑事もそう言っていた。
 ヴァレンチーナはもう一度、机の上の現場を見つめた。犯人は、カップ麺を食べている。ちくわを齧り、水を飲む。そんな時、私が降りて来て、犯人はフォークを持ったままキッチンに……ん?
 ふと、思いついたことがあった。ヴァレンチーナは、虫眼鏡を取り出し、再びちくわを覗いた。但し、今回は断面ではなく、真ん中辺りを。
 しわしわの茶色い表面が、綺麗なまま続いている……と思っていたが。横側に、僅かな付着物。これは、かやくか。茶色の背景に紛れて気づかなかったが、目を凝らすとカップ麺の汁が付いているのが判る。今度は、反対側の側面も見てみる。思った通り、同じようにカップ麺の汁が付着していた。
 これが指し示すことは1つ。
 ヴァレンチーナは顔を上げ、高らかに宣言した。
「犯人が判ったわ」

*        *        *

「さて、まずは私がした発見から話そうかしら」
 皆は変わらず食卓を囲んで座っているが、その面持ちはどこかしら緊張しているように見える。
「私達は、犯人がカップ麺をフォークで食べたと考えていたわね。なら、当然ちくわもフォークで食べたことになるでしょう。わざわざカトラリーを変える理由もないし」
 ヴァレンチーナは、机の上に身を乗り出し、勢い込んで言った。
「でも、ちくわに穴は開いてないの
 しばし、沈黙が流れた。
「え? 穴は開いているじゃないですか。覗いたら向こう側が見えますよ?」
「違うの、ボランデ。その穴じゃなくて、フォークで刺した穴よ
 また沈黙が流れたが、その意味は明確に変わっていた。
「フォークで刺した所は齧れないから、残った部分に穴が残ってないといけない。そうでしょ? でも、それが無い。ということは……」
犯人はフォークを使ってちくわを食べたのではない
「その通りよ、ジュリア。これは、犯人はフォークを使っていないことと同義。わざわざ2種類のカトラリーを使う理由はないし、仮にそうしていたとしても、2つのカトラリーを持ったままキッチンに隠れるとは考えにくい。手に持っているのはどちらか1つだろうから。つまり、犯人はフォークでない何かで夜食を食べたということ」
 皆が話に引き込まれているのを感じながら、ヴァレンチーナは解決を続けた。
「そこで、私はちくわをよく見てみたの。そうしたら、ちくわの両側面にカップ麺の汁が僅かに付いているのが判ったわ。犯人はフォークを使わなかった。あるじゃない。フォークの代わりになる、ちくわを挟んで、丁度こんな汚れが付きそうな道具が」
 ナオミが唇を歪めて言った。
「……ね」
「そう。持ち去られたのはフォークじゃなくて箸犯人は箸を使って夜食を食べたの
 ヴァレンチーナも日本に移り住んでから、見慣れるようになった。だが、あの細い2本の棒で食べ物を上手くつまむことはまだできない。そして、それは皆同じだろう。
 ただ1人を除いて
「犯人は、箸を使いこなせ何より箸で食べようという発想をするほど箸に親しんでいる人間
 皆の視線が、再度1人を向く。
「この中では、そんな人は日本人のあなただけ
 彼女は俯き、その黒髪がはらりと零れた。

「犯人はあなたよ、ジュリア

 ジュリア──早見樹莉亜は、小さく頷いた。
「お腹が空いて……どうしても耐えられなかったの……」
「ダイエットを発案したの、あなたじゃなかったかしら?」
 ナオミ──ナオミウィリアムズは、碧い眼を細め、可笑しそうに笑った。
「やめよやめ! ダイエットがこんなに大変なんて思わないじゃない!」
 すると、ボランデが悪戯っぽい笑みを浮かべて提案した。
「じゃあ、今から皆で何か食べませんか?」
「いいわね、賛成!」
「おっ、ならスヴェトラーナ姉さんがボルシチを作ってやろう」
「えっ、いいの? やったー!」
「姉さんって、同い年なのに」
「細かいことはいいんだよ、ナオミ」
「ボルシチって何ですか?」
「今からあたしが作るから、食って覚えろ」
 ダイニングはにわかに騒がしくなった。最初の眠気はもう欠片もない。
 事件は解決したみたいだ。結局、この事件に関しては、犯人は偏見の通りで全く意外じゃなかったな
 まあ、いいか。それより、ボルシチの方が重要だ。
 ヴァレンチーナは立ち上がると、声をかけた。
「スヴェトラーナ、私の分も作ってくれるんでしょうね?」
「当たり前だろ、名探偵さん」
 喧騒は、夜の闇に融けていく。