「利用者:Notorious/サンドボックス/ピカチュウプロジェクト」の版間の差分

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<br> 初めは、魔が差したのだ。今年の夏、日曜日に授業参観があって、次の月曜日が振替休日になったことがあった。お母さんもお父さんも仕事に行ったのに、自分だけがお休みなのをちょっと奇妙に思ったとき、思いついた。私はSNSで「今日休み」と検索したのだ。大量に溢れる、今日が休みの人たちの投稿。月曜日に仕事が休みな人って結構いるんだなあと思って、「今日学校休み」に切り替えた。それでもまだまだ多かったけれど、やがて一つのアカウントが目に止まった。
<br> 初めは、魔が差したのだ。今年の夏、日曜日に授業参観があって、次の月曜日が振替休日になったことがあった。お母さんもお父さんも仕事に行ったのに、自分だけがお休みなのをちょっと奇妙に思ったとき、思いついた。私はSNSで「今日休み」と検索したのだ。大量に溢れる、今日が休みの人たちの投稿。月曜日に仕事が休みな人って結構いるんだなあと思って、「今日学校休み」に切り替えた。それでもまだまだ多かったけれど、やがて一つのアカウントが目に止まった。
<br> 「きのう行ったとはいえ今日学校休みなの特別感あるな〜」と投稿していた「檸檬」というユーザー名のその人は、日常のささいな雑感をよく投稿しているようだった。この人の過去の投稿を遡ると、近くの森林公園に遠足に行ったこと、体育祭のリレーでアンカーがバトンを落として三位になったこと、英語の先生が唐突にロボットダンスを披露し始めたこと……さまざまなことが、日付も含めて私のクラスと合致していた。檸檬さんの正体は今でもわからないけど、間違いなく、私と同じ三年三組のなかの誰かだった。
<br> 「きのう行ったとはいえ今日学校休みなの特別感あるな〜」と投稿していた「檸檬」というユーザー名のその人は、日常のささいな雑感をよく投稿しているようだった。この人の過去の投稿を遡ると、近くの森林公園に遠足に行ったこと、体育祭のリレーでアンカーがバトンを落として三位になったこと、英語の先生が唐突にロボットダンスを披露し始めたこと……さまざまなことが、日付も含めて私のクラスと合致していた。檸檬さんの正体は今でもわからないけど、間違いなく、私と同じ三年三組のなかの誰かだった。
<br> 檸檬さんの投稿に反応したりフォローし合ったりしているアカウントも、きっと檸檬さんの知り合いだ。同級生の間で十人くらいの小さなコミュニティができているようで、芋づる式に同級生らしきアカウントを見つけられた。当然みんなは実名を書いたりはしていないけれど、同級生とわかれば投稿やユーザー名から見えてくるものがあるものだ。コミュニティの何人かは、私でも誰なのか見当がついた。
<br> 檸檬さんの投稿に反応したりフォローし合ったりしているアカウントも、きっと檸檬さんの知り合いだ。同じクラスの仲間で十人くらいの小さなコミュニティができているようで、芋づる式に同級生らしきアカウントを見つけられた。当然みんなは実名を書いたりはしていないけれど、同級生とわかれば投稿やユーザー名から見えてくるものがあるものだ。コミュニティの何人かは、私でも誰なのか見当がついた。
<br> そうして私は、名を名乗って彼らをフォローしたのではない。私は、そのまま彼らの投稿を見るだけにとどめた。向こうは知らないけれど、一方的に私はみんなの投稿が見られる。一種の覗き見だ。彼らが日常の事件に反応したり、誰かの噂を書いたりするのを、私は定期的に見続けては楽しんでいた。趣味が悪いことはわかっている。けれど、この行為がもたらす一種の優越感と背徳感が、私の心を離さなかった。
<br> そうして私は、名を名乗って彼らをフォローしたのではない。私は、そのまま彼らの投稿を見るだけにとどめた。向こうは知らないけれど、一方的に私はみんなの投稿が見られる。一種の覗き見だ。彼らが日常の事件に反応したり、誰かの噂を書いたりするのを、私は定期的に見続けては楽しんでいた。趣味が悪いことはわかっている。けれど、この行為がもたらす一種の優越感と背徳感が、私の心を離さなかった。
<br> 甘かった。悪趣味な覗き見をしていた報いを受けたのだ。
<br> 甘かった。悪趣味な覗き見をしていた報いを受けたのだ。
<br> きっしーは、たぶん岸田くんのアカウント。彼の投稿に、何人も同調するコメントを残していた。
<br> きっしーは、たぶん岸田くんのアカウント。彼の投稿に、何人も同調するコメントを残していた。
<br>  ''15:53 檸檬『それな』''
<br>  ''15:53 檸檬『それな』''
<br>  ''16:02 墾田永年私財法『時間の無駄』''
<br>  ''16:02 墾田永年私財法『時間の無駄。』''
<br>  ''16:04 クリリン『構ってほしいんでしょw』''
<br>  ''16:04 クリリン『構ってほしいんでしょw』''
<br> 目が離れてくれなかった。画面をなぞる指が止まってくれなかった。やがて右手が震えて、文面を見ることができなくなってようやく、スマホを置くことができた。動悸が激しくなっていた。
<br> 目が離れてくれなかった。画面をなぞる指が止まってくれなかった。やがて右手が震えて、文面を見ることができなくなってようやく、スマホを置くことができた。動悸が激しくなっていた。
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<br> 血の気がさあっと引いて、両手が勝手に震え始める。脇から背中にかけてが凍るかと思うほど冷えて、喉が固まった。声が出せずに私は立ち尽くすしかなかった。英文が見えなくて、口が開かなくて、周りの視線ばかり感じられて、涙が出そうになった。
<br> 血の気がさあっと引いて、両手が勝手に震え始める。脇から背中にかけてが凍るかと思うほど冷えて、喉が固まった。声が出せずに私は立ち尽くすしかなかった。英文が見えなくて、口が開かなくて、周りの視線ばかり感じられて、涙が出そうになった。
<br> 迷惑。時間の無駄。構ってほしいんでしょ。
<br> 迷惑。時間の無駄。構ってほしいんでしょ。
<br> 昨日見た言葉が、私の喉を塞いだ。言葉を奪った。クラスの誰もが私の悪口を言っていた可能性があるという事実ゆえに、クラスの全員がいま心の中で私を罵倒しているように感じた。ますます寒気がした。
<br> きのう見た言葉が、私の喉を塞いだ。言葉を奪った。クラスの誰もが私の悪口を言っていた可能性があるという事実ゆえに、クラスの全員がいま心の中で私を罵倒しているように感じた。ますます寒気がした。
<br>「どうした河北?」
<br>「どうした河北?」
<br> 槙原先生の言葉にも反応できなかった。文を読まないといけないのに、息をうまく吸えない。
<br> 槙原先生の言葉にも反応できなかった。文を読まないといけないのに、息をうまく吸えない。
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<br> このままだと、悪い想像が際限なく膨らんで、押しつぶされそうだった。だから、現実を直視して、それを封じようと思った。現実は、少なくとも有限だから。あるいは、期待していたのかもしれない。誰も私を悪く言っていないという一縷の望みに。
<br> このままだと、悪い想像が際限なく膨らんで、押しつぶされそうだった。だから、現実を直視して、それを封じようと思った。現実は、少なくとも有限だから。あるいは、期待していたのかもしれない。誰も私を悪く言っていないという一縷の望みに。
<br> 彼らのアカウントを検索して、投稿を表示した。授業中でも、机の下でこっそりスマホを触っている人は多い。少し前にされた投稿がすぐに飛び込んできた。
<br> 彼らのアカウントを検索して、投稿を表示した。授業中でも、机の下でこっそりスマホを触っている人は多い。少し前にされた投稿がすぐに飛び込んできた。
<br>  ''14:22 クリリン『また黙ってる』''
<br>  ''14:22 クリリン『鼠がまた黙ってる』''
<br>  ''14:23 きっしー『だるいって』''
<br>  ''14:23 きっしー『だるいって』''
<br>  ''14:28 つっぱり棒マスター『2日連続はエグいだろ』''
<br>  ''14:28 つっぱり棒マスター『2日連続はエグいだろ』''
<br>  ''14:33 檸檬『毎日やるつもりかな?』''
<br>  ''14:33 檸檬『明日もまたやるんじゃない?』''
<br> たまらず画面を暗くした。スマホをベッドの端に投げ、袖を目の上に当てた。みじめなのか申し訳ないのか、自分でもわからない涙が出てきて、声を我慢するしかなかった。こんなときだけは音が出てくる自分の口が、恨めしくて仕方がなかった。
<br> たまらず画面を暗くした。スマホをベッドの端に投げ、袖を目の上に当てた。みじめなのか申し訳ないのか、自分でもわからない涙が出てきて、声を我慢するしかなかった。こんなときだけは音が出てくる自分の口が、恨めしくて仕方がなかった。
<br> 和佳さんの「なんでも言ってね」という言葉と、自分のふがいなさを詫びるような表情を思い出した。
<br> 和佳さんの「なんでも言ってね」という言葉と、自分のふがいなさを詫びるような表情を思い出した。
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<br> 複数人の足音が近づいてきた。明るい声で笑い合っている。私は反射的に一番奥の個室に入って鍵を閉めた。
<br> 複数人の足音が近づいてきた。明るい声で笑い合っている。私は反射的に一番奥の個室に入って鍵を閉めた。
<br> 違うクラスの女子の集団が、弾んだ声で俳優の話をしている。気づかれたくなくて、気配を殺した。やがて彼女らは去っていったけど、クラスから隔絶されたこの空間は居心地がよくて、そのまま個室の中にいた。今は、誰とも顔を合わせたくなかった。もう給食は始まっただろうけど、食欲なんてなかった。
<br> 違うクラスの女子の集団が、弾んだ声で俳優の話をしている。気づかれたくなくて、気配を殺した。やがて彼女らは去っていったけど、クラスから隔絶されたこの空間は居心地がよくて、そのまま個室の中にいた。今は、誰とも顔を合わせたくなかった。もう給食は始まっただろうけど、食欲なんてなかった。
<br> そして、私は携帯を取り出した。彼らの反応を見ずにはいられなかった。これはほとんど義務のように思えた。
<br> そして、私は携帯を取り出した。彼らの反応を見ずにはいられなかった。今日はきのうまでとは明らかに違う。先生が怒ったのも初めてのことだったし、クラスのみんなの不満はピークに達しているように感じられた。
<br> 彼らの投稿を見ることは、私の義務のようにすら感じた。悪趣味な覗き見を始め、みんなに迷惑をかけた私の、受けるべき罰だ。
<br> けれど、またも私は甘かった。
<br>  ''11:34 きっしー『【悲報】今日もお黙り女のせいで授業がストップ』''
<br>  ''11:40 クリリン『もう10分経ったんだが』''
<br>  ''11:41 墾田永年私財法『受験も近いのに、純粋に迷惑。先生に言ってなんとかしてもらおうよ。』''
<br>  ''11:46 檸檬『だから言ったじゃん笑 鼠は明日もやるって笑』''
<br> 読んだ瞬間、くらりと眩暈がした。立っていられなくなってしゃがみ込んだ。そして、猛烈な吐き気が襲ってきた。たまらず体を折って、便座に片手をついてもどした。胃からは酸っぱい胃液しか出てこなかったけれど、私は何度もえずいた。胃液と涙が滴り落ちる水音がやけによく聞こえた。喉が焼けて、視界が霞んで、手が震えた。鼻水が垂れてきて、でも吐き気のせいで拭うことも何もできなかった。
<br> みじめだった。ひたすらみじめで、もう耐えられなかった。声が漏れた。一度泣きはじめたら、止められなかった。誰もいないトイレの個室で、汚い床に膝をついて、顔の穴という穴からばっちい液を垂らしたひどい顔で、泣きじゃくった。誰も聞いてくれない声を上げた。どうして私がこんな目に遭わないといけないの。確かに迷惑はかけたけど、でも、わざとじゃないよ。人の陰口を言ってるみんなより、私の方がひどかったの? こんなに傷つかないといけないくらい、悪いことだったの?
<br> 床にはいつの間にか手から滑り落ちたスマホが転がっていた。こんなものさえなければ、私はこんなに苦しまなくてよかった。すべて、私が悪いのだ。聞こえないはずの声を聞いてしまった。耳にしてはいけない叫びを、聞いてしまった。
<br> トイレットペーパーを一巻き切り取って、口を拭いた。次の一巻きで鼻を噛んで、最後に目を拭った。紙をトイレに放って、水を流す。後始末はすべてしたけれど、立ち上がることができなかった。
<br>「もう嫌だな」
<br> 一人の個室で、あれだけ出し方がわからなかった声は、すんなりこぼれ落ちた。
 
{{転換}}
 
「それでミッキー、話したいことってなあに?」
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